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Title
   十字架のことば(10)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ルカ 2:1-7
Date
   2005-05-22


<本文> <ルカ2:1- 7>
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」


<序論>

愛する聖徒の皆さん
またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして、全世界と全国の2500余りの支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆様、
<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様、
今日は「十字架の道」十番目の時間で、イエス様が飼葉おけに寝かされた理由について説明します。
主は罪人たちの罪を贖うために亡くなって、三日目に死の権勢を破って復活されたので、私たちに救いの門を開いてくださいました。私たちを闇から光に移されて、悪魔の権勢から神様のふところに導かれ、地獄から天国に導いてくださいました。
このように救いを成し遂げるまで、イエス様のすべての人生は徹底的な霊界の法則の中で、神様のご摂理に従って営まれました。すなわち、罪人たちのために殺されるものの、「木にかけられなければならなかったこと」は、罪人たちが受ける呪いを贖うためのご摂理であり、「血を注ぎだして死なれたこと」は、血の注ぎだしを通してだけ、罪の赦しがあるからだと言いました。
これだけでなく、イエス様がこの地に来られたことから、十字架の苦しみを受けるまでのすべての過程の中に、細やかな神様のご摂理が入っています。イエス様は、家畜の小屋でお生まれになり、飼葉おけに寝かされて、一生を貧しく生きられました。そして亡くなられる時は、全身にムチを打たれて、頭にはいばらの冠をかぶられ、手と足は十字架に釘つけられました。裸のままで十字架にかけられました。イエス様が着ていた着物は、ローマ の兵士たちが四つに分け合い、 下着はひとりがくじを引き、取りました。また兵士の槍にわき腹を突き刺され、 血と水を注ぎだしました。
このような一つ一つの過程にも、各々神様のご摂理が入っていますが、これが、神様の恵みと恩寵であり、私たちを祝福してくださるためのご摂理であります。私たちがこのような摂理を悟り、その中に含まれた祝福を信仰を持って求めていく時、その祝福を人生の中で受けて生きられます。
今日からは、このようにイエス様を通し、私たちに与えられた神様の祝福が何かを説明します。語られるみことばを通し、ひとり子を与えられた父なる神様の愛と、罪人たちのために全てを犠牲にされた主の愛を明らかに悟られるよう願います。
また神様がイエス・キリストの御名で、私たちに与えようと願われたすべての祝福を受けて味わい、心から感謝と栄光を帰す皆様になられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆様。
今日の本文には、イエス様のご誕生に関する記事が書かれてあります。聖霊の御力によってイエス様を身ごもったおとめマリヤは、夫のヨセフと一緒にベツレヘムに行きました。
当時ベツレヘムの宿屋には、彼らのいる場所がなかったので、マリヤは、ある宿屋の家畜の小屋で、男子の初子を産むようになりました。布にくるまれたイエス様を、寝かせる所がないから、家畜の餌を入れる飼葉おけに寝かせました。
普段、赤ちゃんたちは、暖かい部屋で生まれて、良いベッドに寝かせるようになります。ところが、万軍の主、神様のひとり子・イエス様は、なぜこのように家畜の小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされたのでしょうか?
これも、神様が私たちに祝福を与えられるためのご摂理でした。<伝道者の書3:18>に、「私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」」とあります。神様が人を試みてみると、獣にすぎなかったということです。こういうみことばを聞くと、ある人は、「なぜ人が獣に過ぎないのか?」と不思議に思うかもしれません。しかし、実際、人の悪さを考えてみれば、獣にも及ばない場合も多くあります。ライオンやヒョウのような猛獣も、おなかがすいたり、自分が危ないと感じたりする時でなければ、余計な殺傷はしません。また、獣の中にも、一度つがいになると、一生相手を裏切らない獣がいて、子のためによく犠牲をしたりもします。家で飼う犬は、自分の主人に忠誠をつくして、時には、主人のために命を捧げたりもします。
ところが万物の霊長である人はどうでしょうか?自分の欲をさらに満たすために、戦争を起こして、女と子供、病人なども気にせずに、数多くの人々を殺します。家族や隣人との間にも真の愛を見つけるのが難しいです。
離婚率は日ましに増えて、物質の欲のために、親子の間に、兄弟の間にも、互いに争って訴えて、はなはだしくは殺したりもします。自分の益に合わなければ両親や恩師、長い間の友だちも裏切って、恩をあだで返す場合も数多くあります。人が人を金で売り買いして、はなはだしきは自分の子供まで売り渡したりもします。若い学生たちも暴力組織を作り、とても口にしにくいことを行ったりもします。この他にも毎日伝えられるニュースを見ると、想像しがたいような惨たらしい事件が絶えず報道されています。
このような姿を見ると、人が獣よりましだとは言えないのです。本来神様は善で聖なる神様の形に人を造られました。ところが、アダムが罪を犯して以来、罪人になった人々は、神様の善なる形をなくしました。霊が死んで、たましいと肉だけで生きていくので、魂と肉だけで造られた獣と同じ存在になってしまいました。そして、ますます心が罪と悪で染まり行くほど、世の欲に従って、自分の欲により、あらゆる罪を犯して生きていくようになりました。
このように罪と悪に染まり、獣のようになってしまった人々が、どのように聖なる御国に入れるのでしょうか?必ず人の元の姿を取り戻してこそ、神様の子供になり、天国に行けるのです。イエス様がこの地に来られて、飼葉おけに寝かされたことは、このように獣にすぎない人類を贖って救わせるためです。
<ヨハネ6:51>に、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とあります。人が、天から下って来た生けるパンを食べる、ということは、神様のみことばを心に糧とみなすのを意味します。人のからだが糧を食べてこそ生きていけるように、人の霊も霊の糧を食べてこそ生きていけます。イエス様は神様のみことばが肉を着て、この地に来られた方です。みことばであるイエス様がこの地に来られて、獣にすぎない人類にとって、命の糧になってくださいました。
イエス様を通し、人が自分の元の姿を取り戻して、なくした神様の形を回復するようになりました。これを知らせてくださるために、神様はイエス様を、家畜の餌のうつわである、飼い葉おけに寝かせるようになさいました。

愛する聖徒の皆さん、
それでは、これから私たちがどうすれば、獣にすぎない人生から抜け出し、真の命が得られるのでしょうか?私たちが人の道理とすべきことを尽くして、人間らしく生きられる道は何でしょうか?
<伝道の書12:13>に、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とあります。
人間にとってすべてとは、神を恐れて、神の命令を守ることだと言いました。<箴言8:13前半>に、「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」とあります。「いつも喜んでいなさい、 絶えず祈りなさい、 すべての事について、感謝しなさい、そねんではいけません、憎んではいけません、酒によってはならない、安息日を守りなさい、誓願したことは守りなさい、悪はどんな悪でもさけなさい、言い争ってはいけません、」など、聖書にはこういう命令が無数にあります。聖書に「しなさい」と言われたことはして、「してはならない」といわれたことはしなく、「守りなさい」といわれたことは守って、「捨てなさい」というと、捨てるべきです。このように聖書に聞き従うことが、神様の命令を守ることです。ところが口では「神様を信じます」、「神様を恐れ敬います」というけれど、実際に神様の命令は守らない人々がたくさんいます。
口では神様のみことばを教えますが、いざ自分はと言うと、みことばのとおり行わない人も多いのです。また、聖書のみことばのとおり行いなさい、と言うと、「その数え切れない命令をどうしてすべて守れるのか、それでは、信仰生活が大変難しい」と言ったりもします。
しかし、神様は私たちに苦労させるために、これらのみことばを命じられるのではありません。世の親たちも子供に多くのことを要求します。「一生懸命勉強しなさい」、「好き嫌いせずに、よく食べなさい」、「お行儀よく行いなさい」「きれいに洗いなさい」など、言うのが、親が子供に苦労をさせるためでしょうか? 違います。
子供に益になると思うので要求するのです。子供を愛するからといって、「勉強は難しいから、遊んでいてもいいよ」、「掃除は面倒くさいから、そのままにしておいてもいいよ」と教えることはできません。
本当に子供を愛するなら、人のすべきことを教え、最善をつくして、人間らしく生きることを教えなければなりません。父なる神様が私たちに命じられることも、人として当然しなければならないことを命じられるのです。「してはいけない」ということは、私たちが試み・艱難にあわないために、地獄に行かないためにしてはいけないことです。「行いなさい」ということを行うと、祝福されて答えられて、天国に行けるので、「行いなさい」と言われるのです。肉の子供たちも、両親を愛して信頼するなら、両親の言うことに聞き従います。
同じように、私たちのためにあまりにも大きい愛を施して下さった神様を愛するなら、そして十字架にかけられて死なれた主を愛するなら、神様のみことばに聞き従うことが難しくありません。
愛する聖徒の皆さんは、尊い神様の御子が、みすぼらしい小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされたご摂理を明らかに、悟られるよう願います。それで心から、神様を恐れ敬い、神様の形を完全に取り戻すように願います。

愛する聖徒の皆さん
イエス様は王の王、主の主であり、創造主なる神様の御姿であられる方です。
<ヨハネ1:3>に、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあり、<ヨハネ3:35>に、「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」とあります。
このようにすべての主人になられたイエス様が、天のすべての栄光を後にして、荒れ果てた地に来られて、みすぼらしい小屋で生まれました。生まれた時だけでなく、一生、イエス様は貧しい人生を送られました。<マ8:20>に、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われたように、福音を宣べ伝えて病人を癒すために、住むところもなく、あちらこちらを駆け回りました。
時には飢え渇きながら、時には休むこともできずに、みことばを伝えられました。イエス様が豊かに生きる能力がないから、貧しく生きられたのではありません。イエス様は、水でぶどう酒を作られたこともあり、五つのパンと二匹の魚で、五千名以上を食べさせても、パン切れの余りが 十二のかごにいっぱいになる奇跡を行われたりもしました。また、ペテロがイエス様に命じられた通り、魚を釣って、口をあけると、魚の口からお金が出てきたこともあります。
もし、イエス様が自分のために、御力を使われたなら、いくらでも富む人生になったはずでしょう。それでもあえてこの地で、貧しい人生を送られた理由は何でしょうか?
<コリント第二8:9>に、「 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあります。富んでおられたイエス様が、私たちの代わりに貧しくなられて、私たちには、富む者となる祝福をくださったという意味です。
人は初めから貧しかったのではありません。エデンの園に生きていた時は、あらゆるものが豊かであり、地が豊かな実を産み出したので、その実をただ取って食べれば良かったのです。
ところが、アダムが罪を犯してからは、人と一緒に万物も呪われて、土地は、いばらとあざみを生えさせたので、顔に汗を流して、ようやく糧を得るようになりました。このように人類が貧困を経験する原因は、アダムの犯罪によって呪われたからです。
もちろん貧しいことそのものが罪ではありませんが、結局アダムの犯罪による呪いの一つです。したがって、イエス様が直接、貧困を経験されたので、人の貧困を贖ってくださり、私たちが富む者になる道を開いてくださいました。

愛する聖徒の皆さん。
ある人々は、神様に物質の祝福を求めるのは誤りだ、と言います。しかし聖書には、神様が私たちを富む者にされるという、数多くの祝福のみことばがあります。
また信仰の先祖アブラハムをはじめとして、イサク、ヤゴブ、ヨセフ、ダニエルなど、神様を恐れ敬い、そのみことばに従った人々は、豊かで富んだ人生を送ったことがわかります。私たちも貧困を贖ってくださった主の恵みの中で、 富む者になる祝福を受けなければなりません。
もちろん物質の欲を持って願うのではなく、神様の栄光のために、願われなければなりません。<ヤコブ4:2後半-3>に、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。
信仰のある人ならば、財政で祝福されてどこに使うのでしょうか? 欲に従って贅沢するのではなく、みなしごや、やもめを援助して宣教して、聖殿を建築するなど、魂の救いのために使うはずでしょう。だからこのように願って祝福されるので、神様に栄光をささげて、祝福された物質を神様の国のためにささげて、天国に大事な報いとして積み上げていくのです。

愛する聖徒の皆さん。
<マ7:7 -11>に、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言われました。
親なら、当然愛する子供が願うのを与えようとするでしょう。愛の豊かな父なる神様も、子供たちが信仰で求めることごとに与えられることを願われます。
ところが、無条件「お父さん、祝福してください。」と祈るからといって、祝福されるのではありません。そこには条件があります。
例えば<ヨハネ第三1:2>には、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあり、すべての点で幸いを得、また健康であるためには、たましいに幸いを得ていなければならないことがわかります。ここで「たましいに幸いを得ている」とは、神様のみことばのとおり生きていくので、失った神様の形を取り戻すことを意味します。
また<申命記28:2>に、「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とあります。このように神様のみことばに聞き従う人は、「はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」ことであり、「貸すであろうが、借りることはない。」し、「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」と約束されました。
ところがこのように神様のみことばのとおり生きている人であっても、祝福されるためには、信仰を持って種を蒔かなければなりません。種を蒔いたとおり祝福の実を刈り取るようになります。
<ガラテア6:7>に、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。蒔かずに刈り取ろうとする人は、神様の法則に逆らおうとすることで、神様を侮る人です。
農夫が農業をする時も、豆を蒔けば豆を刈り取り、米を蒔けば米を刈り取るようになります。
また<コリント第二9:6 -7>に、「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」と言われました。
農夫が百坪の良い土地を持っているとしても、十坪だけに種を蒔くなら、それ以上は刈り取りません。いくら信仰が大きい人だといっても、豊かに蒔いた時でこそ豊かに刈り取り、少しだけ蒔いた時は、少ししか刈り取りません。
ところが、神様が与えられる祝福は、蒔いただけになるのではありません。 押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、すなわち、倍以上をくださり、たましいに幸いを得ているほどに、三十倍、あるいは六十倍、あるいは百倍で返して下さいます。
また同じものを蒔いたとしても、直ちに刈り取る時より、長く待って刈り取る時は、その祝福がより一層大きくなるのが見られます。あたかも大豆もやしのようなものはすぐ育つけれど、高い果物や高麗人参のようなものは収穫まで、長く待たなければならないのと同じです。

聖徒の皆様、
ある人は貧しくて、神様の前に蒔きたいけれど、ささげるものがないので、もどかしく思う場合もあります。 しかし、豊かに蒔く者が豊かに刈り取るという意味は、ただ、その金額や量を意味するのではありません。神様が受けられるのは、物質そのものでなく、その中に含まれた心の香りであります。神様はそれぞれがどんな心で蒔いたのか、どれくらい愛と信仰を持って蒔いたのかを皆ご存知であります。
<マルコ12章>に、レプタ 銅貨二つをささげた、貧しいやもめの話があります。イエス様が人々が献金箱に献金を投げ入れるのをご覧になり、やっとレプタ 銅貨二つをささげたまずしいやもめを見て、他のすべての人々よりも、たくさんささげたと褒められました。すなわち、「みなは、あり余る中から獻金を投げ 入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の 全部を投げ入れたからです。」と言われました。
ツァレファテのやもめの場合もそうでした。この女性は、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけでしたが、それでパンを作り、エリヤ預言者を養いました。これは肉的には、あまりにも少ないものでしたが、自分には長い間の日照りの中で、最後に残った糧であり、命のようなささげ物でした。
だからこれを喜んで受けられた神様は、日照りが終る時までやもめとその息子に、糧がなくならように、祝福して下さいました。このように神様が受けられることが、ささげ物の金額でなく、その中に含まれた心の香りだということを覚えると、誰も「私は貧しくてささげるものがない」とは言えないでしょう。 聖徒の皆さんの中にも、心のささげ物を神様にささげて、豊かな祝福を受けた証があふれています。
ある時期は援助を受けなければならないほど貧しかった方が、突然祝福の門が開かれ、数百万ウォンずつ、十一献金をささげるようになった方々もいます。豊かでない状況でも、信仰を持って精一杯蒔いたら、神様が驚くように、祝福の道を開いてくださったのです。
ある方々は、献身礼拝の献金として、一ケ月分の収入をささげたら、翌月の収入が二倍になったという証もあります。信仰を持って献金して祈りを受けた後に、永く売れなかった不動産が売れたとか、相場よりはるかに高く売れたという方々もいます。
もちろん、物質で蒔いたからといって、物質だけに報いてくださるのではありません。すぐに物質で与えられなくても、魂に幸いを得ているようにされることが真の祝福です。
異邦人であっても、神様を恐れ敬い、よく施しをしたコルネリオは、使徒ペテロを通し、家族のみなが救われる恵みを受けるようになりました。神様の前に多くの良いわざと施しをしていたドルカスという女性は死んだのに、祈りを受けてまた生き返る体験をしたりもしました。こういう人々にだけなく、霊・肉のすべての祝福がイエス・キリストを通して、信仰を持って蒔くすべての人に臨むようになりました。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆様、
今日はイエス様が飼葉おけに寝かされたご摂理と、貧しくなられたご摂理を語りました。
全能の神様の御子イエス様が、小屋で生まれて飼葉おけに寝かされたことは、イエス様が獣にすぎないような人々にとって、命の糧になってくださったからだと申し上げました。
このようなイエス様の恵みの中で、私たちは神様を恐れ敬い、そのみことばを守って、人間らしい人生を送るようになりました。
また、天地万物の主人であるイエス様が、この地で貧しく生きられたことは、私たちを富む者とするためだと言いました。
愛する聖徒の皆さんは、このようなご摂理を悟られて、速やかに真の人の元の姿を取り戻して、貧しさを贖ってくださった主の恵みの中に留まるように願います。
それで霊・肉共に、豊かに祝福されて、神様に思いきり栄光をささげる皆様になられますように、主の御名で祈ります。

 
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