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Title
   十字架のことば(11)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   Ⅰペテ 2:24
Date
   2005-05-29


<本文>:<ペテロ第一2:24>
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」


<序論>

愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして、全世界と全国の2500余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん。全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様。
この間は、私たちのイエス様が、なぜ家畜の小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされたのか、また、なぜ貧しくなられたのかについて、神様のご摂理を伝えました。そしてそのご摂理により、私たちに臨む祝福について申し上げました。
「罪から来る報酬は死です。」という、霊界の法則に従って、人類は罪によって死の道を行くようになりました。イエス様は私たちを生かすために、木にかけられて、血を注ぎ出してくださいました。木にかけられたことは、律法の呪いから私たちを贖うためであり、いのちそのものである血を注ぎ出してくださって、私たちを死から贖ってくださったのです。
ところが、この間説明したように、家畜小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされた時と、貧しくなられた時には、血を注ぎ出すことはありませんでした。貧しさそのものは罪ではないので、イエス様が貧しさを贖うために、血を注ぎ出す必要はなかったのです。
しかし、罪を贖うためには、血の注ぎ出しがなければならず、病とわずらいも罪によるものなので、これらをいやすためにも、血を注ぎ出しがなければなりませんでした。
今日は、「十字架の道」十一番目の時間で、ここからはイエス様が私たちのために、尊い血を注ぎ出されたご摂理について語ります。
愛する聖徒の皆さんは、語られるみことばを通し、私たちのために苦しみを受けて、血を注ぎ出してくださった、主の愛をもっと深く悟って、心から感謝するようにお願いします。
また、尊い血潮のゆえに、すべての病とわずらいから自由になり、剛健になる祝福を受けるように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん,
神様のご摂理の中で十字架を背負われる時になると、イエス様はユダヤ人の手に渡されて、ユダヤの総督ピラトの法廷に連れて行かれました。
ピラトはイエス様が何の罪もないのが分かりましたが、群衆の圧力に押されて、イエス様をむちで打ち、十字架にかけられるように引き渡してしまいました。
十字架も残酷な刑罰ですが、むちに打たれるのも決して軽い刑罰ではありません。
当時、世界最強国であったローマの、よく訓練された兵士がむちを打つと、むちがからだを一回り半して、肌を切り裂くだけでなく、むちの端にある鉛のかたまりが、からだの中に食い込むようになります。
このむちをまた強い力で引っ張ると、皮膚がむちについて、はがれていきます。
イエス様はこういう激しい刑罰を受けて、骨が明らかにされるほどの傷を負って、多くの血を注ぎだされました。
するとなぜイエス様は、このようにムチに打たれ、ひどい苦しみを受けられて、血を注ぎ出さなければならなかったのでしょうか?
<イザヤ53:5 -6>に、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。
このみことばのように、イエス様がむちに打たれて、血を注ぎ出されたのは、私たちがいやされるためでした。
のちほど語りますが、<出エジプト15:26>を見ると、私たちが主の声に確かに聞き従い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、主はエジプトに下したような病気を何一つ下さない、と約束されています。
すなわち、病をいやされるためには、まず罪が赦されなければなりません。
<マタイ9:2>にも、「 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた。」とあります。
その後でイエス様が命じられると、中風の人がいやされて、起きて歩くようになりました。病人をいやされる前に、まず罪の問題を解決してくださったのです。
また<ヨハネ5:14>には、いやされた人に、「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」といわれました。
悔い改めて罪が赦されていやされたと言っても、また罪を犯すなら、もっと悪い事が身に起こる、と教えてくださいました。
こういうみことばを通してわかるように、病の根源は罪にあります。したがって、病を贖うためにも、血を注ぎ出さなければなりません。
イエス様はむちに打たれて血を注ぎ出して罪を贖い、私たちの代わりに苦しみを受けられて、私たちをすべての病の苦しみから自由にしてくださいました。

愛する聖徒の皆さん
<マタイ8:17>に、「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」とあります。

<ペテロ第一2:24後半>にも、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言われます。
「いわされる」と言ったのではなく、「いやされた」と言ったのです。だからイエス様がむちに打たれて血を注ぎ出したので、私たちの病を贖ったことを信じる人は、これ以上わずらいや病で苦しみを受ける理由がありません。
ところが時々、信仰があると言いながらも、「私は弱いから倒れる時もあるし、罪を犯す時もあります。人が全てみことばどおりに生きるのは難しい」と言う人もいます。
自ら「私は弱い」と思って告白すると、弱くなるしかなく、「罪を捨てるのは難しい」と告白すると、信仰生活することが苦しくなるしかありません。
<箴言18:21>に、「 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」と言われたからです。
どんな状況でも、「私は神様の恵みで健康です」、「満たされています」と告白する時は、その信仰の告白のとおり、神様の恵みと御力が臨み、疲れも十分に乗り越えることが出来、不可能が可能に変わります。皆さんがいやされるために祈りを受ける時も、「祈られたので、いやされると信じます」ではなく、「すでにいやされたと信じます」と告白する時、その信仰のとおり神様が働いてくださいます。「祈られたので、いやされると信じますが、今は相変らず痛みがあります」と言うと、これは信仰ではありません。「相変らず痛いのに、どうしていやされたと言うのですか? それでは嘘になるでしょう?」という人もいます。
しかし、霊的な信仰が何かを理解すれば、そのようには言いません。
<マルコ11:24>に、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあります。“
この時も、祈って求めるものは何でも、「受けると信じなさい。」ではなく、「すでに受けた」と信じた時、そのとおりになると言われました。<ヘブル11:1- 2>に、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。
信仰は、すでになされたことを見て告白するのではなく、見えないものを信仰で望む時、実際に現れます。
信仰でながめる時、見えない無から有が創造されます。かと言って、心では信じられないのに、口だけで「信じます」言うから、そのままなされるという意味ではありません。
心から真実に信じられる信仰を口で告白する時、その信仰のとおりになります。ですから、「私がすでにいやされたと信じます」、「答えられたと信じます」と告白することは、嘘ではなく、霊的な信仰の告白であり、真実を語ることです。
例えて説明してみます。
花の枝を切って、生け花にすると、その花は死んでいますか? 生きていますか?
今は生きているようですが、根から離れているので、すでに命を失っています。
ですから、この事実が分かれば、死んだと答えます。
このように、主を迎え入れなかった人々に対して、聖書では「死んだ」と表現します。明らかに呼吸をして食い飲みして、欲を満たしているのに、「死者」と言われるのです。
その中には永遠な命がないからです。
今は生きているようですが、結局は地獄に行く人生なので、その結果を見て「死んだ」ということです。このように信仰でながめる時、病の治療についても同じです。
「神様の御力で菌が、がん細胞がすでに焼き尽くされた。病とわずらいが私から離れてしまった」と信じて告白すれば、その信仰のとおり主が働かれます。すでにイエス様がわずらいと病を贖うために、むちに打たれて血を注ぎ出してくださったためです。
ところがこれが信じられずに、信仰で告白できないなら、相変らず病が離れません。いくら祈りを受けても、自分の心では、「私は痛い、まだいやされていない」と信じるから、相変らず痛いのです。
このような否定的な思いを破らない限り、神様の御わざを体験することはできません。
肉の思いを働かせずに、「信じます」と言うと、すぐその場でさえ、マヒしたからだが動いて、立ち上がって歩いて走ることもできます。私は小学校4学年の時、肋骨を痛めたことがあります。それ以後、体が弱くなっって、夏になると再発して、ひどくズキズキと痛んで、歩く時も痛みのために、呼吸することさえ難しかったのです。
ところが、主を迎え入れて、すべての病とともに、これもいやされました。このようにいやされて、2年ほど過ぎた時、重いものを持ち上げる瞬間、ぎっくりときて、その部分がまたズキズキと痛み始めて、歩けないほどひどくなりました。
その時私は、「私たちの神様が全知全能なので、私のすべての病をすべていやして下さったのに、これくらいちょっとぎっくりして、私が痛くなるわけはない、」と思いました。
それで私は手を置いて切実に祈りました。「私が祈ってから、動くと、直ちにきれいにいやされて、痛みもなくなり、歩くようになると信じます」
すると、否定的な考えが消えて、神様が信仰のとおり働いてくださる、と心に働きかけられました。
祈りを終えて直ちに立ち上がって走ったら、まるで嘘のように痛みが消えました。「私は本当に何時間も苦しかったのだろうか?」と疑わしいほどでした。
創造主神様の権能は、いやしの御わざだけでなく、創造の御わざそのものを行われます。聖書を見ると、干からびた骨に命じられても、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおって、息が入り、多くの集団になる場面もあります。
まして神様がどんな病でもいやされないことがなく、不自由な体を直せないことがあるでしょうか。
開拓以来、本教会の数多くの聖徒が、神様のいやしの御わざを体験してきました。特にリバイバル聖会や海外連合聖会の時には、一度に数え切れないほどの人々がいやされて、講壇の上に出てきて証をします。みことばを通し、イエス・キリストを主として迎え入れて、自分の罪を悔い改めると、いくら重い病でもきれいにいやされるのです。
講壇からの祈りを受けただけで、末期のがんやエイズをはじめとして、あらゆる難治、不治の病気がいやされて、目の見えない者、口のきけない者、耳の聞こえない者、歩けない者など、わずらいがいやされます。時には私がいやしのための祈りを始まる前、賛美をしているうちに、あるいは、みことばを聞いているうちに、悔い改めの涙とともにいやしの働きが臨む場合もあります。
このようにいやしの主に会った一人を紹介します。マサンのユ・ヨンミ執事さんは2005年1月、突然視力が急に落ちるのを感じました。
膜がかかったように見えたり、物が見えなかったり、デコボコに見えたりして、めまいと吐き気もありました。
病院で診察した結果、珍しい病気である「原田病」だと診断されました。目の中に水のこぶができて、視力障害が生じて、原因も分からず、治療しても視力を完全に回復することは難しいということです。
しかも、このこぶが大きくなれば視神経を覆い、視力を完全に失うかもしれない、と言われました。
ユ・ヨンミ執事さんは、このような診断結果を聞いても、悲しんだり気を落としたりしたのではなく、神様に感謝して喜びました。
むちに打たれた主が、病とわずらいを贖われたことを信じて、本教会に現れた数多くの権能ある御わざを見たので、「信仰でいやされて栄光を帰せる機会だ」と思ったのです。

執事さんは、まず自分を省みて、誤りを一つ一つ悔い改め始めました。以前、神様が息子をいやしてくださった体験をしましたが、その後も、子供が病気にかかった時は、神様だけに全てを頼らないで、病院に頼ったりしたこと、教会で使命を持って働きながら、平和を作らずに、信仰の兄弟を裁いたり、罪に定めたりしたことなど、思い出されることを心から悔い改めました。それから喜びと確信をもって、ソウルの私のところに来て、祈りを受けました。そしてしばらくしてから、視力が正常に戻ったことを発見しました。
そして再び病院へ行って診断した結果、水のこぶが完全に消えたことが確認できました。しかも以前は各々0.8と0.25だった視力が、両目とも1.2にまで良くなる祝福まで受けました。神様が執事さんの信仰のとおりいやしてくださって、視力まで良くなるように働いてくださいました。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様がむち打たれて、病を贖われましたが、それを信じるという人の中でも、相変らず病気で苦しむ人がたくさんいます。その理由は何でしょうか?
これは神様の義の道を歩まなかったからです。
<出エジプト15:26>で、「そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。』」と言われています。
ここで「エジプト」とは、霊的に世の中を指し、出エジプトの時、エジプトに下した十の災いとは、世の中のすべての病気を指しています。
私たちが神様の命令を守り行うなら、どんな病気にもかかることはなく、たとえ病気にかかったとしても、悔い改めて立ち返ると、「わたしは主、あなたをいやす者である。」とおっしゃったように、全能な父なる神様が、いやしてくださいます。
ところが、ここで義の道を歩むものの、人の方で、自分が見るのに義の道を歩むのではなく、神様の義の道を歩まなければなりません。
人が見る時の義の道とは、各人ごとに違います。
世の中のすべての人が、生まれて育ちながら、見聞きして習ったことが違って、育った環境と価値観が違うからです。
あの人は正しいと思っていることにも、この人は正しくないと思うことも出来ます。
したがって真理自体である、神様のみことばを基準として、神様が正しいとおっしゃったことだけが、真に正しいことです。
例えば、子供が他の子供に叩かれてきたら、人ごとに反応が違います。
ある親はとても気を悪くして、相手のところに行って、突き詰めたりもします。ある親は泣く子を叱りつけながら、「お前はなぜバカみたいに、叩かれてばかりいるのか? お前も叩きなさい」と言います。はなはだしきは、「一回叩かれたら、お前は二回、三回と叩きなさい」と言う親もいます。
しかし、真理は何と教えるのでしょうか?
「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」、「 平和を追い求めなさい」、「敵まで愛しなさい」と言います。
これがまさに神様の義の道です。
もし、人が小さい時から、神様の義の道を追い、教えられて成長するなら、その人は将来、多くの人々を抱いて理解して、先立って導ける、大きいうつわになるでしょう。
神様の義の道を追う時、人が見てその時は損をするようでも、結局は神様が彼を認められて、高めてくださるためです。
神様のすべての命令を守りなさい、という言葉を聞く時、ある人は、「そんなに多くのおきてを、どうやってすべて守れるのだろうか」と難しく思います。しかし、私たちが神様の命令を守り行うことは、難しいことではありません。
「神様が命じられたので聞き従える。私がするのではなく、私たちの聖霊様が助けてくださり、神様が恵みと御力を注いでくださるので、十分にできる」と信じて行うと、とてもやさしいです。
しかも、いくら命令が多いようでも、要約すれば、十戒に凝縮されます。
また、御霊の九つの実、愛の章、八つの幸いほどを成し遂げても、神様がご覧になる時、義の道を歩むことが出来ます。
私は初信者の時から、聖書を読んでいるうちに、神様の命令を悟るなら、その場で従いました。そしてすぐ出来ないことは、ノートに記録して祈って行きました。すると、しばらくすると、すべて捨てることが出来ました。
人が自ら聞き従おうとしないので、従えなくなり、神様より世を愛するので、従いにくいのです。真に、神様を愛して天国の希望があれば、天国の栄光と報いをながめるなら、命令を守ることが難しくもなく、従えない理由もありません。
私が初信者の時は、天国に関して明らかに悟ったわけでもありません。ただ、いやしてくださった神様の恵みに対して大いに感謝して、神様を極めて愛するので、無条件そのみことばに従って行ったのです。
まして皆様は、今まで天国について、数多くのみことばを聞いて明らかに教わりましたので、聞き従うのがはるかに簡単です。
ひょっとして「私にはあまりにも捨てることが多いから、いつ、すべて捨てられるのだろうか」と言う方がいても、心配することはありません。憤りであっても、憎しみであっても、姦淫であっても、一番捨てにくいものを心に置いて、集中的に祈って断食して捨てたら、残りは簡単に捨てられます。
木を抜く時も、大きい根元を抜き取ると、小さい根は一度に抜かれるのと同じです。

聖徒の皆さん、<歴代誌第二16章>には、ユダのアサ王に関する記録があります。
本来、アサ王は神様によく仕えた王です。
ところが、アサ王の治世の第36年に、イスラエル王国の王が、ユダに上って来ると、神様だけにより頼んでいた信仰が変わってしまいました。異国に賄賂を送り届けて、イスラエルを攻めるように願いました。すると、予見者がユダの王アサのもとに来て責めました。
以前は、もっと強い異国の軍隊が攻めてきた時も、王が神様により頼んだ時は、神様が彼らを王の手に渡されたのですが、今度は王が異国の軍隊により頼むので、神様が王に御顔を隠されるようになった、と知らせました。

<歴代誌第二16:9>を見ると、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」とあります。このように責められても、アサ王は悔い改めなかったのです。むしろ、予言者を迫害して、神様と罪の隔てを作り続け、結局治世の第39年に、両足とも重い病気にかかってしましました。
では、どうすれば良いでしょうか?
その時も心を砕いて悔い改めて、神様にすがり頼らなければならないのに、王は相変らず神様を求めるのではなく、逆に医者を求めました。
結局<歴代誌第二16:13>に、「アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。」とあります。神様が彼にとてもさびしく思われたので、こういう記録を聖書に残しておかれたことです。
こんにちでもそうです。
多くの人々が口では、「全知全能な神様を信じます。生死禍福をつかさどる神様を信じます」と言います。
しかし、実際に自分に何の問題が起こると、どうしますか?
神様により頼むのではなく、世の中により頼み、祈って神様に求めるのではなく、病院に頼って薬に頼る人が多くいます。
いくらみことばをたくさん聞いて分かっていても、命令を守り行わないために、また神様を心から愛さないために、いやされる霊的な信仰が来ないのです。
皆さんは聖霊を受けて、神様の子供とされる特権を受けました。ですから、闇から出て光の中で義の道へ行っていけば、神様との間の罪の隔ては打ち壊されます。
打ち壊されるほどに、自分の中に信じられる信仰が出来て、この信仰が出来るほど、すべてのことに神様の御わざを体験していくことができます。病気にかからなくなり、たとえ病気にかかったとしても、すでにいやされたと信じると、直ちに解決されるのです。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆様、
世の中で重い病気一つがいやされるためには、どれくらい苦労しなければなりませんか?
多くの治療費がかかるだけでなく、治療を受ける過程でも多くの苦しみがあって、完全にいやされるという保障があるわけでもありません。
しかし、すべてを神様により頼んで信仰を見せる時は、苦しみや後遺症もなく、完全にいやされます。
またいやされる体験を通し、自分の信仰がさらに大きく成長して、神様に栄光をささげるため、多くの魂を救うようになります。
こうして一石三鳥、あるいは四鳥、それ以上にもなります。
もちろん私は開拓の時から、どんな人にも、「薬を飲んではいけません」、「病院に行ってはなりません」と教えたことはありません。
自分にまだ信仰が出来ていないのに、他の人がそうさせるからといって、いやされるのではないからです。
ただし、真理を知らせてあげて、本人の信仰のとおり行うように説明します。
イエス様が私たちすべてのわずらいと病をになわれて、むち打たれたので、私たちがいやされたと言われますので、当然、神様に頼らなければならないことを知らせますが、本人が自ら信仰を示して信仰のとおりに行う時でこそ、いやしの御わざを体験することができます。
愛する聖徒の皆さんは、むち打たれて血を注ぎ出されて、すべての病とわずらいを贖ってくださった主の愛を完全に信じるようにお願いします。
これからはもう、「私は弱い」、「痛い」など、否定的な告白はせずに、主の尊い血潮に頼り、「私は健康だ」と告白できるようにお願いします。
神様の命令を一生懸命に守り行って、すべての事を全幅的に神様にだけ頼って、出来ないことのない神様の御わざの中で、常に栄光をささげられますように、主の御名で祈り願います。

 
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