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Title
   十字架のことば(20) - 永生(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   マタ 7:21, ヨハⅠ 5:16-17
Date
   2005-08-28


<本文>

<マタ7:21> 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」

<第一ヨハネ5:16 -17> 「 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の3600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。

<第一テサロニケ4:16 -17>に「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。
これは終わりの日、主が空中に再臨される時を描いている一節です。最後のラッパが全世界に鳴り響いて、主が大いなる栄光のうちに空中に臨まれ、主を信じて寿命が尽きて死んだ聖徒たちは、すでに肉が朽ちてなくなったとしても、また生き返って朽ちないからだをまとい、復活に参加するようになります。生きている聖徒たちは、瞬間に空中に引き上げられて、主と共に婚礼の祝宴に参加するようになります。
すると、この地では主を信じる多くの人々が一時に消えるので、大きな混乱が起きます。<マタイ24:40 -41>に、「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とあります。
このように突然、、隣にいた人がいなくなると、この地に残された人々は、どれくらい驚くでしょうか?福音を聞いたが信じなかった人は、「伝道した人の話は本当だった。信じれば良かったのに、なぜ信じなかったんだろう」と嘆いたり、多くの人々がうろたえて、混乱に陥ります。
ところが、その中でも最も悲しいのは、明らかに主を信じると言いながら教会に通ったのに、他の聖徒たちが引き上げられても、自分は残された人です。
主の再臨も、七年艱難と天国・地獄についても明確に知っていて、そして、自分は救われるだろうと思っていたのに、実際に自分が引き上げられなかった現実を見る時、その恐れとみじめな心は言葉では表現できません。
それならなぜ、こういう人がいるのでしょうか?「主よ。主よ。」と呼ぶからといって、すべて救われるのではなく、救いの条件にふさわしい資格を備えなければならない、ということを知らなかったからです。
今日は、この間に続き、主を信じると言いながら救われない場合のうち、死に至る罪について調べていきます。
愛する聖徒の皆さんは、語られるすべてのみことばを心に刻み、必ず救われて、永遠のいのちを味わうように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。この間は死に至る罪の中の一番目、聖霊を冒とくし、妨害し、逆らう場合について説明しました。
聖霊を冒とくし、妨害し、逆らうということは、聖霊の働きに逆らう話と行いで、神様の働きを成し遂げないように敵対することです。
これは、神様を知らない世の人々が、教会を迫害するのと異なって、「信仰がある」と言い、真理を知っていながらも、自分の悪により神様の働きに敵対することを指します。
こんにちも、主の御名で行われる聖霊の働きについて、話や行いで妨げる場合があります。神様の権能の御力によって、病気とわずらいがいやされて、悪霊が追い出されるなどのみわざを見て、むしろ「悪霊につかれた」とか、「サタンのしわざだ」と言い、妨げるために偽りのうわさを立てます。
聖書を見ると、イエス様が権能のみわざを行われた時、善良な人々は、あえて神様に敵対しなかったのです。人としては出来ない権能のみわざが現れたので、神様が行われた、と認めて栄光をささげ、自分の民を憐れんでくださった神様に感謝しました。
良心が善良な人なら、聖霊のみわざを見る時、生きておられる神様が恐ろしくて、妨げる言葉が出ないのです。悪い霊たちが人の病気をいやしたり、わずらいを治したりする権能もないだけでなく、仮にそのような力があっても、悪い霊たちが悪霊を追い出して、病気をいやして、神様に栄光をささげるようにするはずがありません。
神様が保証されて、権能を行わせる、神様のしもべに関して妨害するのも同じです。これは神様の保証する人を否認して、彼を通して現れる聖霊のみわざに逆らうことであるので、結局、神様に敵対することになります。
<出エジプト16:8後半>に、エジプトから出たイスラエルの民が、食料がないのでモーセとアロンにつぶやいた時のモーセの言葉があります。
「あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」と言いました。
イスラエルの民が、預言者サムエルが自分たちを治めることを嫌って王を求めた時も、<第一サムエル8:7>に、「主はサムエルに仰せられた。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。』」とあります。
また新約にも、使徒ペテロを欺こうとしたことは、聖霊を欺いたことであり、神様を欺いたことだ、とあります。アナニヤとサッピラ夫婦が土地を売って、神様にささげると定めましたが、思わず欲が出て、その代金の一部を隠しておき、ペテロにある部分を持って来て、全部をささげるふりをしました。
すると<使徒の働き5:3 -4>に、「そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」とあります。
アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えました。悔い改めの機会も得られず、直ちに死に落ちてしまったのです。
皆さんはこういうみことばをよく覚えて、聖霊を冒とくしたり、妨害したり、逆らったりして、神様に敵対することは決してないように、主の御名でお願いします。
ここで参考として皆さんが覚えることは、聖霊の働きでなく、人が自ら悪霊を呼び入れて、自ら追い出すことがあるという事実です。
例えば、ある人々を見ると、すべてのことに悪霊のしわざだと言う場合があります。例えば「頭が痛い」と言うと、「あなたの頭は悪霊につかれているから」と言い、その人も「そうだな」と認めてしまいます。
こうして人が自ら認めて悪霊を受け入れるなら、実際に悪霊がその人に入るようになります。霊界の法により、認めるままになってしまいます。
しかし、かと言って、悪霊につかれるほどの状況ではないので、追い出せばすぐに出ます。それで簡単に悪霊が入ったり、出て行ったりする体験をする人々がいますが、これは人が悪霊を受け入れて追い出すことであって、聖霊の働きではありません。
信仰がある神様の子どもならば、悪霊が勝手に入って来ることはありません。聖徒の心は聖なる御霊がとどまる聖殿なので、汚い悪霊が思いのまま入って来ることはできず、自分の口で認めて悪霊を呼び入れるなら、これは決して神様の御前にふさわしいことではありません。
また、ある人々は「悪霊を追い出す」と言って、ひどい悪口を言ったり、人を殴ったりします。これも真理にはふさわしくないことであり、聖霊の働きでもありません。
たとえ悪霊につかれていても、その人自体は人格を持った人として扱うべきであり、聖霊の働きで悪霊を追い出すことは、悪口を言ったり殴ったりするのではなく、ただ、みことばで命じれば良いのです。
悪霊は汚いものなので、イエス様もみことばで追い出される時、「汚れた 霊よ。」と呼ばれたことはありますが、聖なるイエス様が汚い悪口を言われたことはありません。
また悪霊につかれた人を殴るからといって、霊の存在である悪霊が痛いはずもなく、怖くて出て行くはずもありません。
十分に悪霊を追い出す権勢のある人がいるならば、その人がただイエス・キリストの御名で命じるだけで、悪霊は恐ろしくて、直ちに出て行くようになります。
聖徒の皆さんは、こういう場合もよく見分けて、惑わされることがないようにお願いします。

聖徒の皆さん、死に至る罪、二番目は、「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える場合」です。
<ヘブル6:4- 6>に、「 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とあります。
これは聖霊を受けて恵みの体験をした人、それで天国と地獄があることが分かって、真理のみことばを聞いて知って信じながら、世の中に惑わされて、神様から離れて堕落することによって、著しく神様の栄光を遮る場合です。
たとえ福音を聞いて教会に通った人であっても、知識的な信仰にとどまっていて、世の中に陥ったなら、いつかはまた救われる恵みを受けることもあります。
しかし、聖霊のみわざの中で恵みを受けて、また世の中へ帰ってしまう人々は、暗闇が満ちて、より大きくサタンのしわざを受けます。
それで、本来神様を信じなかった人より、さらに悪を行い、以前受けた恵みを捨てて、むしろ教会と聖徒を迫害したりします。このように主の十字架に恥辱を与える人々は、悔い改めの霊を受けることができなくて、赦されないので、結局、死に至リます。
イエス様の弟子だったイスカリオテ・ユダを見てもそうです。彼はイエス様を救い主と認めて、十二弟子に選ばれ、イエス様の働きもすぐそばで見守りました。
しかし、結局は自分の益を求めて、イエス様を裏切って、 銀貨三十枚で売ってしまいました。イエス様が捕えられた後に、ユダは良心に激しい呵責を感じて悔い改めようとしましたが、彼は悔い改めの機会さえ得られませんでした。罪の意識でいくら苦しくても、神様がその悔い改めを受け入れないので、心の苦しみに耐えられなくて、結局、自殺してしまいました。

最後に、死に至る罪は、「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続ける場合」です。
<ヘブル10:26- 27>に、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」とあります。
これは特に真理を知って信仰があると言いながら、神様が禁じられた不法をことさらに行う人々をいいます。
<第二ペテロ2:21 -22>には、こういう人々に対して、「義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。 彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る。』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる。』とかいう、ことわざどおりです。」とあります。
「ことさらに罪を犯し続ける」とは、罪を犯した後に誤りだと悟って悔い改めたのに、同じ罪を続いて繰り返していく人を言います。
イスラエルの王ダビデが、しばらく試みられて、殺人という大きい罪を犯したことがありました。しかし、ダビデは預言者が来て責めると、直ちに悔い改めて立ち返ります。罪を徹底的に悔い改めただけでなく、それによって大きく練られる時、謙った心で通過したので、ダビデは心の中の罪の性質までも脱ぎ捨てて、神様の御前に全き人に変えられました。
しかし、ダビデの前にイスラエルの王だったサウルの場合はどうでしょうか?彼が御前に不順従の罪を犯した時、サムエル預言者が来て悟らせましたが、彼は心の底から悔い改めなかったのです。
「不順従になったけれど、私のせいではなく、民が願って神様に不順従になったのです。」と言ったり、むしろ自分の過ちは隠しておいて、民の前で王としての体面を維持しようとしたりだけしました。
サウルはこのように言い訳ばかりして、心で悔い改めなかったので、だんだん神様の御前に罪を犯すようになり、その罪の壁が高くなったあげくに、神様から完全に捨てられるようになりました。
こんにちの聖徒も同じです。信仰があって真理を知る人ならば、罪を犯す時、聖霊が嘆いて悟らせてくださいます。それで悔い改めるなら、当然、徹底的に立ち返るので、それから後は、光の中にとどまり、善の実を結ばなければなりません。
人が罪を犯す時は、正しくないものを見聞きするので、思いと心で罪を犯すようになり、結局、行いにまで至るようになります。ですから、悔い改めて再び罪を犯さない心ならば、初めから正しくないことは見ないし、また見る機会もないように、自ら断ち切らなければなりません。
ところが、悔い改めたと言いながら、罪の誘惑をはね除けず、相変らず見て聞いて接して、結局は不法を繰り返し行う場合があります。このように、ことさらに罪を犯し続けるなら、神様も御顔を隠されるので、悔い改めの霊を受けることができなくなり、結局、聖霊が消滅してしまいます。
聖徒の皆さん、人が悔い改めて赦されようとしても、自分の思いどおりに悔い改められるのではありません。神様が恵みを与えて、悔い改めの霊を下さり、その悔い改めを受けて、赦してくださらなければなりません。
神様の御前に悔い改めて、罪の壁を壊さなければ、<出エジプト32:33>に、「すると主はモーセに仰せられた。『わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。』」とおっしゃったように、神様のいのちの書物に名前が記されても、その名がまた消されるようになります。
ところが死に至る罪を犯すと、悔い改めの恵みを受けられないで、神様に顔を隠されたまま、審判を待たなければなりません。皆さんは、決してこのような死に至る罪を犯されないことを、主の御名でお願いします。
また、死に至らない罪だからといって、「罪を犯してもかまわない」と思ってはいけません。小さい罪でも捨てずにずっと持っているなら、聖霊に満たされず、むしろサタンに惑わされて、結局、死に至る罪を犯すようになることもあります。そうではなく、かろうじて救われても、やっと恥ずかしい救いで終わります。
ですから、神様の子どもは、すべての罪を血を流すまで戦って捨てて、悪はどんな悪でも避けて、神様の形を取り戻さなければなりません。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、本教会の開拓当時、早天祈り中に、神様が一人の聖徒がつまずくことを、私にあらかじめ知らせてくださったことがあります。
その時は、主日もすべて守って、金曜徹夜もささげて、熱心に信仰生活をしていた方なのに、完全な主日を守らないように惑わされて、教会を離れる、とおっしゃるのでした。
実際に、しばらくたってその方は教会を欠席し始めました。働き手たちが家庭訪問して、理由を尋ねてみたら、その方が他の教会で説教を聞きましたが、その教会では、「主日に礼拝だけささげたら、店をやっても大丈夫だ」と言われたので、その教会に行くということでした。
しかし、主日を完全に守りなさい、ということが、どうして特定の教会や牧師の教えでしょうか?明らかに神様のみことばであり、永遠のいのちを得ようとするなら、必ず知らなければならないみことばなので、講壇で宣言するのです。
それでも人が自分の欲に引かれて惑わされるので、聞く耳をふさいで、いのちの道を捨てるのです。
この教会でも罪や不法に対して責めずに、「祝福を受けなさい」とだけ言うなら、説教することもやさしいです。しかし、そうするなら、皆さんの中にも世の人と同じように生きる人々が多くなり、結局、主が来られる時、救われない人々が増えるでしょう。
それだけでなく、この教会にも、これ以上の権能と神様の証が伴わなくなります。この教会に現れる権能のみわざは、神様が、真理を宣言するしもべと、真理どおりに行う教会を喜ばれるので、現してくださる証です。
ところが、講壇で真理を正しく教えないで、盲人が盲人を手引きするなら、神様もこれ以上権能を現してくださるはずがありません。
愛する聖徒の皆さん、私たちの主は、私たちの罪を赦されるために、あまりにも残酷な十字架の苦しみを受けました。しかし、イエス様が罪を赦されたとして、「もう私が代わりに罪の代価を払ったので、あなたたちは罪の中を歩んでも良い」と言われるのではありません。
「今からは、血のいさおにより、汚くて醜い罪から離れなさい。真に光の中にとどまり、聖なる神様の形を取り戻しなさい」と、切に訴えられるのです。
このような主の愛を本当に悟って信じるなら、私たちも罪と関わらず、聖なる人生にならなければなりません。
また、真に主を愛して、より良い天国を慕い求める人ならば、真理どおり生きていくことが苦しいのではなく、むしろ喜びと幸せが満ちるのです。
愛する聖徒の皆さんは、花婿なる私たちの主と信仰で結ばれて、常に神様のみことばどおり生きながら、完全に光の中にとどまるように願います。
それで、傷もしみもなく花嫁の備えを終えて、聖霊の油を充満に備えて、再び来られる主を、喜びで出迎える皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

 
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