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Title
   十字架のことば(23)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハ 3:1-8
Date
   2005-09-25


<本文>

<ヨハネ3:1 -8>

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の3600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。

きょうは「十字架の道」最後の時間です。
これまでみことばに耳を傾けてくださった皆さんに、感謝申し上げます。
「十字架の道」23編のみことばは、聖徒として知るべき、最も基本的で、核心的ないのちのみことばです。これまでお聞きになったみことばを、よく霊の糧として、皆さんご自身の信仰を堅くするだけでなく、いつ、どんな人に伝道しても、明らかに十字架の救いのご摂理を宣べ伝えられるように願います。
また、今後、新しい聖徒が来る時も、この「十字架の道」は必ず聞いて、霊の糧とするように勧めてください。この23編のみことばだけよく糧とするなら、だれでもイエス・キリストを確実に信じるようになり、聖霊のみわざを体験しながら、満たされた信仰生活ができます。
今日も語られるみことばが、皆さんの中に生きて働き、いのちと恵みに満たされますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。今日のみことばの本文は、ユダヤ人の指導者であったニコデモが、イエス様のもとに来て、霊的な対話をする場面です。
ニコデモは、ユダヤ人の指導者であり、教師であり、律法をよく知っているパリサイ人でした。
イエス様は、当時パリサイ人たちを、厳しく叱られました。彼らは、自分では神様によく仕えていると思っていましたが、実は、その心は真理を求めず、神様とは距離が遠い人々だったからです。
ですから、イエス様の教えを聞いても信じないし、むしろイエス様に敵対して殺そうとしたのです。はなはだしきは、パリサイ人をはじめとするユダヤ人の指導者たちは、イエス様を信じる人々を、ユダヤ人社会から破門することまで決議しました。これはつまり、社会的に葬る、ということです。
ところが、ニコデモは他のパリサイ人とは違いました。神様のみことばを知って命令を守ると言いながら、表面だけ聖なるふりをすることに満足できず、真理に飢え渇いていました。
その頃、イエス様のことを聞いて、イエス様なら自分の飢え渇きを解決してくださるだろうと慕い求めて、ある夜、イエス様のもとに来るようになりました。まだ人の目を恐れずに、堂々とイエス様のところに来る信仰ではなかったので、他人の目につかない夜に来たのです。
この夜以後の記録を見ると、イエス様のもとに来たニコデモは、結局救われたことがわかります。
たとえば、<ヨハネ7:50- 51>に、パリサイ人たちがイエス様を非難するとき、ニコデモが殺気立ったパリサイ人たちの前で、イエス様を擁護する記録があります。
「彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 『私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。』」
つまり、イエス様のみことばと行いが不義ではないのに、どうしてイエス様に害を与えようとするのか、と彼らの誤りを悟らせようとします。
これは決してやさしいことではありません。今日、キリスト教を厳しく禁止するイスラム教国やヒンズー教国で、国家公務員や国会議員が公にキリスト教を擁護するのと同じです。自分の地位と命まで危なくなるかもしれないのに、ニコデモはイエス様の肩を持ちました。
また、イエス様が十字架にかけられて亡くなった後、<ヨハネ19:39>に、「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。」とあります。
イエス様が罪人の身分になり、亡くなられた後にも、このようにイエス様に仕えるために出て来たのです。このようなニコデモの行いを見ると、彼が十分救いに至ったことがわかります。

今日の本文の内容は、ニコデモがまだ真理を知る前、イエス様と初めて会って、対話する場面です。
「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』」
ニコデモは、善良な心を持っていたので、イエス様の行われる事を見ると、疑ったり論争したりしようとせず、まず、信仰を告白します。イエス様が神様のもとから来られたことを信じる、と告白したのです。
イエス様は彼の心が飢え渇いていることをご存じで、彼が尋ねてもいないことに答えてくださいます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました。
知識が多いから、富んでいるからといって、神様の国に入るのではありません。神様のみことばをたくさん知っていて、教会に長く通ったから、救いを受けるのでもありません。いくら教会に通って職分があったとしても、新しく生まれなければ、何の役にも立たず、天国にも入ることができません。
ところが、ニコデモはイエス様のみことばを全く理解できなかったのです。「新しく生まれなければならないなら、すでに母胎から生まれて、もう大きくなった人が、どのように新しく生まれるのだろう?」想像することもできませんでした。
皆さんも教会に来て、最初に、「新しく生まれなければなりません」という話を聞いた時は、それがどういう意味なのか、理解できなかったはずです。
このみことばだけでなく、他の霊的なみことばも、霊的な耳と目が開かれるまでは、難しく感じられて、よく理解できない場合がたくさんあります。
しかし、皆さんが続いて神様の恵みを求めながら、熱心に学び、理解しようと努力すると、ある瞬間から恵みが臨みます。以前は難しく聞こえたみことばも、耳にずんずん入って来て、よく理解できるようになり、とても面白く、感動的に聞こえるのです。
新しく信じた人だけがそうなるのではありません。本文のニコデモは、ユダヤ人の指導者であり、民を教える先生として、知識的には律法をよく知っていて、神様のみことばに通じていた人でした。それでも、イエス様が霊的なことを話される時は、理解できなかったのです。
今日、教会に長く通った人や職分者、果ては牧師や伝道師でも、霊的な悟りがなければ、ニコデモのように、理解することができません。いくら神学博士、牧会学博士の学位を受けて、聖書について多くの知識を積んだといっても、それだけではみことばの霊的な意味を悟ることができません。神様のみわざを体験することもできないし、羊の群れを霊的に成長させることもできないので、教会もリバイバルしないのです。
ですから、知識が多かった使徒パウロでさえ、<第一コリント2:1- 2>に、「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」と言いました。
<第一コリント4:20>に、「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」とあるように、御霊に感じて、神様の能力から力を得てこそ、霊的な秘密も悟れて、神様のみこころを大きく成し遂げることもできます。
神様の国を大きく成し遂げて、神様のみこころをもっと明らかに悟るためには、何としてでも十字架の奥義をより深く知って、神様のみことばを霊的に糧としなければなりません。
本文へ戻って、イエス様のみことばを理解できなかったニコデモは、またイエス様に言います。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
するとイエス様は、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と答えられました。
イエス様が言われたことは、朽ちる肉についてではありません。霊についての話をしておられるのです。人が天国に入るためには、目に見える肉が新しく生まれなければならない、ということではなく、目に見えない霊が新しく生まれなければならない、と言われたのです。
人類の始祖アダムは、いのちの息を吹き込まれて、霊が生きている「生きもの」として造られましたが、神様に背く罪を犯して、霊が死んだ肉の人になりました。
「肉によって生まれた者は肉です。」というみことばのように、肉の人になったアダムの子孫も、霊が死んだ肉の状態で生まれたのです。
すべての人類は、霊が死んだ肉の人となり、肉の人は天国に行くことができないので、結局は地獄、すなわち、死の道に行くようになりました。
人が天国に入るためには、死んだ霊が生き返らなければなりません。まさに、水と御霊によって、新しく生まれなければならないのです。
イエス様はこのような霊のことについて、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と言われました。
人は風の吹く音は聞けますが、その風を目で見ることはできず、風がどこから始まって、どこで終わるのかも分かりません。
このように、肉の目で見られない風のように、霊の世界のことも、肉的な限界の中で理解できるのではありません。
科学がいくら発達しても、世のすべてのことをみな把握はできません。今日、尖端科学技術によって、風に関して知るようになったとは言いますが、最近のニュースでは、アメリカのように科学の進んだ国さえ、ハリケーンの被害を防げなかったことがわかります。
事実、科学と技術が発達するほど、創造主なる神様が真に大いなることと、人の知識と能力には限界があることを、かえってもっと明白に悟るようになるだけです。
ですから、科学者の中でも多くの人々が、神様のみことばが事実であることを、科学的に明らかにしようと努力するのです。
このように、風の動きさえ人は分からないのに、まして天のこと、つまり、霊の世界のことを、肉の限界の中で、どうして理解して知ることができるでしょうか?ただ神様のみわざによってのみ、聖霊の御力によってのみ、知って体験することができます。

愛する聖徒の皆さん。それでは、人の霊が水と御霊によって新しく生まれるとは、どんな意味でしょうか?
まず、水から調べましょう。
ここで「水」とは、<ヨハネ4:14>にあるみことばのように、「永遠のいのちへの水」のことです。
「わたしが(つまり、イエス様が)与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われたとおり、永遠のいのちへの水を飲むことによって、人は新しく生まれます。
では、永遠のいのちへの水、すなわち、イエス様が与えられる、この水とは何でしょうか?
この間、人の子、つまり、主の肉を食べて、その血を飲まなければ、私たちの中に永遠のいのちがない、と申し上げました。人の子の肉を食べるということは、神様のみことばを糧とすることであり、人の子の血を飲むということは、信仰で神様のみことばを行うことである、と説明しました。
このように、人の子の肉を食べて、その血を飲むこと、つまり、神様のみことばそのものが、人に永遠のいのちを与える水になります。
水は汚れを洗って、万物にいのちを与えます。霊的にも水、すなわち、神様のみことばは、私たちから汚い罪と悪を洗い落として、永遠のいのちを持つようにします。
皆さんの心にそねみ、ねたみ、憎しみ、憤りなどがあれば、どれくらい汚くて醜いでしょうか?将来、私たちが神様の御前に立つ時、このように汚くて醜い罪と悪を捨てなかった人々は、恥ずかしくて顔を上げられないのです。花婿なる主の御顔を見ることもできません。
ところが、心に神様のみことばが臨むと、この罪と悪のあかが洗われます。
たとえば、この間説明したように、霊的な愛が心に臨むと、憎しみが洗われ、そねみ、ねたみも洗われて、憤りと自分の利益を求めることも洗われます。
このように、水で心の罪と悪を洗い落とすと、新しく生まれて、救いに至るようになります。
それで、<第一ペテロ3:21>にも、「昔、ノアの時代に、水を通って救われた、そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」とあります。
神様のみことばは真理そのものであり、みことばが肉となって来られた方が、主イエス・キリストであります。神様のみことばは、旧約にも新約にも、イエス様に関して記録しています。みことばであるイエス様が復活なさって救い主になられたので、新・旧約のみことばはすべて成就されて、真になりました。
このみことばを私たちが信じて、神様の命令を心に糧としながら行っていくと、ますます正しい者となっていきます。「水」すなわち、神様のみことばが、人にいのちを与えて、正しい者に作り上げていくのです。
真にみことばである神様の御子を救い主と信じる人は、みことば、つまり、聖書66巻に記録された命令も、信じて行うようになります。
こうしてみことばが皆さんの中にとどまり、皆さんの心を洗っていくと、それが皆さんが救われたという証になり、私たちが洗礼式の時、水で洗礼を受けることも、このようにみことばで心を洗うことを象徴しているのです。

次に聖霊に関して調べましょう。
「聖霊」とは聖なる神様の御霊のことで、すべての救われた子どもたちの心に臨み、完全な救いに至るように助けてくだる方です。
<ヨハネ15:26>に、「わたし(つまりイエス様)が父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」と言われたように、主が復活・昇天されてからは、神様は救われた子どもたちに聖霊(御霊)を遣わしてくださいます。
<使徒の働き2:38>に、「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」とあります。

このみことばのように、人が福音を聞いて悔い改めて、イエスを自分の救い主と告白すると、罪の赦しを得て、その心に聖霊が臨みます。聖霊を受けると、死んだ霊がよみがえり、信じられる霊的な信仰を持つようになります。
愛する聖徒の皆さん。<第一ヨハネ5:5 -8>に、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。 あかしするものが三つあります。 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」とあります。
ここで「イエス・キリストは、水と血とによって来られた」ということは、水、つまり、みことばが肉となって来られたイエス様が、尊い血を流して亡くなられたことを意味します。
イエス様が十字架で亡くなられたので、私たちはその尊い血のいさおによって救われます。ですから、水と血とによって来られた方が、まさにイエス・キリストで、主が昇天された後に遣わされた聖霊は、私たちがこの事実を確実に信じるように助けてくださいます。
イエスが神様の御子であることを信じる人は、「世に勝つ」と言われましたが、これは世の中の人と戦って勝つ、という意味ではありません。世の情欲と戦って勝つことによって、罪を犯さず、非真理に染まらないことをいいます。
聖霊様は、主を確実に信じるようにされるだけでなく、罪と義とさばきについて悟らせて、私たちが十分に世に勝てる力を下さいます。
聖霊の働きの中で、罪が何かを知り、私たちが義に至るべきことを知り、さばきがあることを真に信じるので、当然、御霊(聖霊)の願うところを求めて生きるようになります。心の罪と悪を毎日、水で洗っていくのです。
そうすれば、心の非真理が脱げて、だんだん真理の心に変化して、結局は、アダムが「生きもの」として造られた時のように、真理だけで満たされます。これがまさに、御霊によって霊を生んでいく過程です。
このように水と御霊によって新しく生まれて、御霊によって霊を生んでいく人だけが、神様の国を見ることができます。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。<エペソ2:8>に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあります。
人が水と御霊によって生まれることも、そして永遠のいのちに至ることも、ただ父なる神様の愛によることであり、私たちが価なしに受けた賜物です。人はだれでも自分の能力と意志で救われることはできず、ただ十字架の他には、救いの道がありません。
世界の始まる前から隠された奥義としての神様のご摂理によって、イエス様が十字架を背負われたことにより、私たちのために救いの道を完成されました。これを信仰の目で見つめる人はみな、水と御霊によって新しく生まれて、永遠に生きるようになりました。
<ヨハネ1:12>に、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあり、<ピリピ3:20>には、「 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。
主を信じて水と御霊によって新しく生まれた人は、神様の子どもとされる特権を受けるようになります。
敵である悪魔が、これ以上死の権勢をふるえなくなり、これからは、天に国籍をおいた天国の民になり、この地でも天の御国でも、神様の守りと祝福の中で生きるのです。これが救われた皆さんの特権であります。

愛する聖徒の皆さん、これで23編の「十字架の道」の説教を終えます。
今までお聞きになった「十字架の道」は、十字架の救いの道になるだけでなく、神様に愛される道になり、聖霊に導かれる道にもなります。人生のいろいろな問題が解決されて、祝福される道にもなります。
愛する聖徒の皆さんは、すべてのみことばを信仰で受けて、主が私たちを連れに来られるその日まで、この救いの道から離れる方が、決してひとりもいないように、切にお願いします。また、会う人ごとに熱心にこのみことばを宣べ伝えて、数多くの魂を天国に導くように願います。
そして、最も美しい天国、新しいエルサレムで、父なる神様の愛と恵みをみなで一緒にほめたたえながら、永遠に栄光の中で生きていける私たちになりますように、イエス・キリストの御名で祈ります。

 
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