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Title
   空の空(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   伝 1:2, ヨハⅠ 2:15-17
Date
   2006-12-13


<本文>

<伝道者1:2>「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
<第一ヨハネ2:15-17>「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」



<序論>

人は一生労苦して努力して生きていきますが、それでいくら多くのものを積んでも、結局死の前では何も残らないのです。世の人々もこのようなことがわかるので、「人生は手ぶらで来て、手ぶらで行く」とか「死ねば一握りの土へ帰る」と言い、欲を捨てることで豊かで余裕がある人生、価値ある人生を追い求めるべきだと言います。
ところが、死んで一握りの土へ帰ることで終わりならば、世で苦しんで生きて、苦しみに疲れた人々は死ねばそのつらいことがすべて終わるので、いっそのことそのほうが良いとも思います。
しかし、問題は、死んですべてが終わるのではなく、死んだ後も恐ろしくて震えあがるさばきがあるということです。人のほうでこの事実を信じようが信じまいが、死後の世界、すなわち、天国と地獄は必ずあります。肉は朽ちて一握りの土へ帰るとしても、霊とたましいは不滅なので、すべての人は永遠の天国か永遠の地獄、二つのうち一つに入らなければならないのです。ただ私たちの主イエス・キリストだけが天国に行ける唯一の道になられるので、神様を恐れない人、イエス・キリストを受け入れない人々は決して天国に入れないのです。
もちろん、この時間、礼拝をささげている方々はほとんどイエス・キリストを受け入れて、聖霊を受けて、天国に行く望みがある方々です。しかし、重要なことは、一度聖霊を受けたからといって、自分の救いはすべて達成したとは言えないことです。主を信じていると言いながらも、世の人々と同じようにむなしいものを求めて、世の罪と悪を追って生きていけば、その人生がどうして価値ある人生と言えるでしょうか。また、世の罪と悪を追い、神様を裏切って離れたら、どうして心に救いの確信があるでしょうか。
世でいくら良いものを食べて飲んで、いくら楽しみながら生きたとしても、神様から離れた人生には全く価値がありません。ちょうど、茎から切り取られた花が、その時はいくら華やかな色を誇っても、すでにその花には命がないのと同じです。
きょうはこの前に続いて、本当に「価値ある人生」を送るために皆さんがどうすべきかを伝えます。メッセージを通して皆さんの人生を最も美しく作っていき、宝石のように輝いていとおしい神の子どもとして出て来きますように、主の御名によって祈ります。



<本論>

愛する聖徒の皆さん、世で楽しむ富と栄華に価値がないのは、それが永遠のものではないからです。つかの間いくら多くのものを積んだとしても、死ぬ時は何も持っていくことができません。
しかし、天国への希望がある聖徒たちには、この地上で積んだものも決してむなしくありません。また、この地上でも、全家を通じて忠実であることが聖徒の当然な道理なので、この地上でもほかの人よりもっと誠実に行って、神様に栄光を帰さなければならないのです。同じように職場で仕事をしても、あるいは勉強や家事をしても、世で受けようとする欲があるからではなく、神の子どもとして神様に栄光を帰そうとする心の時は、そのすべての行いが将来入る天国でも報いとして積まれるのです。
ところが、ある場合は、神様を信じていて天国への希望があると言いながらも、世の欲を断ち切れないので、自分の信仰さえも捨てる人々がいます。頭では真理を聞いて知っているので、天国へは行きたいし、地獄への恐れもありますが、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をとうてい断ち切れないのです。
しかし、聖書を読めば、このように世を愛して肉を求めていく人には、その心に神様を愛する愛がない、とあります。神様を愛していないのに、どうして天国に行く信仰があると言えるでしょうか。
しかも皆さんの中には、この前の罪の赦しの時間を通して、肉を求めることがどれほど苦しくて重荷になり、罪の壁がどれほどつらいものかを生々しく感じた方々もいるでしょう。それで、世を求めたことを骨身に凍みるほど悔い改めて、再び神様に申し訳ない思いをさせないと、堅く決心しました。それならば、決してその時のことを忘れずに、さらに自分を徹底的に守って、再び世を求めないように目覚めていなければならないのです。
この時間、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢がどれほどむなしく無益なものか、もう一度皆さんが悟りますように。それで、このようなものとは全く関係ない人生、まことに神様の愛が皆さんの中に満ちている、価値ある幸いな人生を送るようにお願いします。

愛する聖徒の皆さん、まず「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」が何かからそれぞれ調べてみます。この三つは、簡単に言って、人に肉を選ぶようにさせる原動力のようなものです。人に肉が良いと感じさせて愛するようにして、世のものを選ぶように動機を与えるものです。
たとえば、エバが蛇に惑わされたとき、エバの心には善悪の知識の木の実が、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするように見えました。エバがこういう感じを心に受け入れたので、善悪の知識の木の実から取って食べたいという欲求が生まれ、結局、実際に取って食べるようになりました。
このように、世のものが良く見えるようにそそのかして、罪を犯して世を選んでいくように人を仕向けるものが、まさに肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。
したがって、心から肉を脱ぎ捨てるためには、皆さんがまずこの三つを断ち切って、肉を求めようとする欲求が自分の中で働けないように防がなければなりません。それと同時に、火のような祈りと断食によって、自分の中にある真理でないものも引き抜いてしまわなければなりません。
ところで、皆さんが世にあるものがどれほど価値のないものかをまず悟ったら、このような欲がもっと簡単に断ち切れるようになります。もし、エバが善悪の知識の木の実を見たとき、それを食べることで何かの苦しみを受けるようになると知っていたとすれば、いくら蛇が狡猾な言葉で惑わしても、善悪の知識の木の実が目に慕わしく、食べるのに良いと感じたはずがありません。食べたいどころか、触れるのも見るのもいやだったでしょう。
同じように、この世の肉のものを求めていけば、その結果としてどれほど苦しむようになるのかを知って、それによって受ける地獄の刑罰がどんなものなのかを心から悟ったら、肉に属するものを受け入れようする欲も簡単に断ち切ってしまえます。
皆さんも、肉を受け入れて取るということがどれほど価値のないことで苦しいことか、深く悟りますように。それで、世を愛する心をすべて脱ぎ捨てて、ただ神様だけ愛する皆さんになりますように、主の御名によってお願いします。

それではまず「肉の欲」について調べてみます。
肉の欲とは「肉を追って罪を犯そうとする属性」です。「肉」とは、人のからだと罪の性質が結びついたものだと言いました。ここで「からだ」とは、アダムが罪を犯した後、神様が人に植えつけられた霊の知識が抜けて行った後に残ったもののことです。簡単に言えば、肉に堕落した人の心に、憎しみ、憤り、欲、情欲、ねたみ、高ぶり、このような罪の性質が結びついて、あらゆる真理でないものをいだいていることです。
肉の人はこのように自分の中にある悪い心の欲望を追って、悪いものを見て聞いて思って行いたいのです。たとえば、自分の中に人をさばいて罪に定める属性があれば、他人の噂を聞くことが好きになります。その話が事実でもそうでなくとも、噂を聞いて広げてひそひそ話をすることが心に快く感じられます。このように悪の属性に従って行いたいことが、まさに肉の欲です。それで、肉の欲が働くと、伝えないようにしようとしても、口がかゆくてむずむずするのです。
心に憤りがあれば、気を悪くしたとき、憤ることが痛快でスッーとするように感じられます。憤りをこらえて肉の属性に従わないようにしようとすれば、胸の中がむしゃくしゃして、あまりにも苦しいのです。
自分の中に高ぶりがあるために、高ぶりの属性に従って、仕えられたいと願って自分を表し、自慢しようとします。むさぼりがあるために、他人に害を与えても不正な財産を集めようとします。情欲があるために異性を探すようになり、何としてでもその欲求を満たすように機会を作ろうとするのです。
それなら、このように肉のものを求めて行うからといって、いったい人に何の益があるでしょうか。いくら祈って忠実に仕えたとしても、肉を求めていく人には神様は祝福を与えることがおできにならないし、敵である悪魔・サタンの餌食になって、試練や患難を自ら招きます。事業の場や職場で困難にあったり、病気で苦しんだり、人前で顔を上げられないほど恥ずかしい目にあったりもします。自分だけでなく、何の関係もない周りの人々と家族、愛する人々にまで苦しみをもたらすようになります。何よりも、このような悪を行うことによって神様と敵になり、結局は霊的な死、すなわち、地獄に行くことが一番の問題です。
したがって、皆さんがまずはまめに神様のみことばを通して、罪が何で悪が何か、学ばなければなりません。そして、みことばに照らして自分の悪を発見したら、火のように祈って断食しながら捨てていかなければなりません。以前ならばカッとなって憤った状況でも、憤らないで柔和な心に変えて、以前ならば憎んでねたむ状況でも、愛そうと努力しなければならないのです。このように心に御霊に属するものを満たせば、心から肉が一つ一つ抜けて行くようになります。
また、たとえ初心者でまだ信仰が幼くても、絶えず祈って、聖徒の交わりの中で聖霊に満されている時は、肉の欲が簡単に働きません。心の一方で肉の欲が働いても、ただちにみことばで退けられます。
ところが、祈りをやめて聖霊に満たされなくなれば、敵である悪魔・サタンが肉の欲をそそのかせる隙を作ってしまうようになります。それで、肉の欲をさえぎるために大切なことは、皆さんが一瞬も聖霊の満たしを失わないことによって、肉を求めようとする欲求より、御霊に属するものを追い求めようとする心を強く維持できるように、自分を守っていかなければならないということです。
<第一ペテロ5:8>に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるとおり、いつも霊的に目覚めていなければならないのです。
自分で「信仰がある」と思っている働き人たちでも、このみことばを心に刻みますように。いくら忙しく神の働きをしているといっても、祈りを休むようになれば、聖霊に満たされなくなり、肉の欲が生じる道を開くようになります。それで、心で罪を犯したり、まかり間違えば肉の行いをするようになったりします。神の働きをしていると言いながらも、祈りを休むことで肉の思いが働いて、間違った道を選ぶこともあります。
もちろん、心から肉をすべて脱いで聖められた人は、神の働きで時間がなくて、祈りの量を満たさなかったとしても、肉の欲が起きることはありません。聖められた人はもう肉の欲をさえぎるために祈るのではなく、よりいっそう聖霊に感じて動かされ満されて、神の力で神の国を大いに建て上げるために火のように祈っていくのです。

愛する聖徒の皆さん、聖められるためには肉の欲を受け入れないで、火のように祈って肉の属性を引き抜かなければならないと言いました。この時、とても大切なことがあります。まさに世からこれ以上肉の属性が入らないように、心の戸を閉じてしまわなければならないということです。つまり「目の欲」をさえぎらなければならないのです。
「目の欲」とは「目で見て耳で聞くことを通して心が揺れ動き、肉に属するものを追い求めるようにする属性」のことを言います。人が生まれて成長する間、見て聞いて感じる一連の過程を通して、心に目の欲が入って来るようになります。つまり、見て聞くすべてのものが心に作用して、感じとして届き、それによって目の欲が生じるのです。
一度も感じたことがないものについては、見て聞いたとしても、特に感じが湧いてきません。たとえば、「とてもよく熟して甘酸っぱいパイナップルがある」と聞いても、パイナップルが何かわからないとか、それを食べたことがない人は、食欲が湧きません。しかし、皆さんによく熟したパイナップルを食べておいしかった経験があるならば違います。この言葉を聞くことによって前に食べた記憶が浮び上がり、また食べたいという欲求が生じるのです。その欲求が強く働くと、実際に行動に移してパイナップルを求めて食べるようになります。
目の欲が働く経路もこれと同じです。ある真理でないものを見るとき、その場面を肉的な感じとともに心に受け入れておけば、次に似た場面を見るとき、前に受けたその感じを引き出します。直接見るだけでなく、ある音か言葉を聞いたり、においをかいだりすることなども同じです。それによって以前の感じが思い出されるとき、目の欲が誘発されることがあります。目の欲が入って来るとき、これをさえぎらないで受け入れ続ければ、これがまた肉の欲をあおるようになり、そうなると結局、罪を犯すようになるのです。
例を挙げてみましょう。まだ酒を断ち切れないある初心者が毎日職場の同僚と一緒に酒場に行って、ほかの人が酒を飲む姿を見て、またそのにおいをかぐなら、どうでしょうか。 教会に行って、いくら祈って酒を断ち切ろうと努力しても、ほかの人が飲むのを見て、酒のにおいをかげば、ひどく心が揺れ動くようになります。酒を断ち切りたい心より、一緒に飲もうとする誘惑のほうが大きく迫って来て、意志が強くて飲まないで我慢するとしても、その心はどれほど葛藤して苦しいでしょうか。ですから、<箴言23:31>には「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。」と、目の欲さえさえぎりなさいと言われているのです。
目の欲を誘発するものを見て聞いて、それで継続的に自分の中にある肉の属性を揺り動かさせているならば、罪を捨てるようにしてくださいといくら祈っても、底が抜けた樽に水を注ぐようなものです。本当に肉を捨てたいと思ったら、自ら心に留めて決断して、初めからそんなものを近づけることもしてはなりません。
皆さんに自分の心から引き抜くべき罪の性質があるとき、「世でどんなものに接するとき、その罪の性質の心が働くのか」は、自分自身が一番よく知っているでしょう。たとえば、どんな場所に行った時やどんな人に会う時、あるいはどんな内容の映画を見る時やインターネットでどんな内容に接する時に、目の欲が強く起きるのかがわかったなら、自らそれをさえぎって近づけてはいけません。
また、子どもの場合、たとえば、礼拝時間に携帯をいじったりすることや、世の話をして騒ぐことがどれほど神様の前に無礼なことで、サタンに訴えられることなのかわかるようになり、これからはそうしないと悔い改めたとしましょう。それでも、まだ以前の生活を完全に捨てる前は、また以前のようにしないように自分で目の欲をさえぎろうとする努力が必要です。
たとえば、教会には携帯を持って来ないか、でなければ礼拝時間にはまったく切って、見えない所に入れておく行いがなければなりません。礼拝時間にいつも話しかけたり騒いだりする友だちがいるなら、そのような友だちとは遠く離れて座ってでも、礼拝に集中しなければなりません。
そのような行いもなく、目の欲をさえぎらずに肉的なものを自分の中に受け入れ続けたら、これがどれほど自分の霊とたましいを害することなのか、つまり、神様に祝福される道をふさぎ、サタンに訴えられて試みを自分から招くことになるのか、心の奥深く悟るべきです。
いくら祈りをやめないで、断食と徹夜で祈って肉を引き抜こうと努めても、目の欲をさえぎらないでいれば、肉の欲がさらに力を得て働きます。ですから、肉を簡単に捨てられもせず、罪と戦うことが難しく大変だ、とだけ感じられるのです。
たとえてみましょう。戦争で、城の中の兵士が城の外から支援軍や物品を供給され続ければ、継続的に戦える力を得ます。皆さんが城の外からいくら攻撃しても、城の中の敵軍を滅ぼすことはやさしくありません。ですから、城の中の敵軍を滅ぼそうとするなら、まずは支援軍と補給路を遮断しなければなりません。そのように遮断した状態で攻撃し続ければ、結局城の中の敵軍が消滅するのです。
ここで「城の中の敵軍」が自分の中の真理でないもの、すなわち、肉だとすれば、「城の外の支援軍」は目の欲です。支援軍を遮断するように、目の欲を徹底的にさえぎってこそ、祈って断食しながら罪を脱ぎ捨てようとする努力がすみやかに実を結べるのです。



<結論>

愛する聖徒の皆さん、ダビデは神様にこの上なく愛された人でしたが、一瞬、目の欲をさえぎらなかったので、大きな困難を自ら招くようになりました。美しい女性が入浴するのを見たので、他人の妻を奪い取るようになり、これによって結局、善良な民を殺すことまでしたので、神様が御顔を背けられて、サタンに大いに妨害される道を渡したのです
結局、息子どうし殺し殺される悲劇が起こり、自分の身から出た息子が反逆を起こして追われ、自分の妻たちを奪われるなど、はなはだ大きい試練に会わなければならなかったのです。
ところで、仮にダビデがその女性を初めて見たとき、自分がその女性を求めることによってこのような苦しみを体験するようになると知っていたら、どうしたでしょうか。その女性を見つめ続けて、目の欲を受け入れて、「本当に美しい。ほしい」そう思いながら肉を追い求めたでしょうか。たぶん、怖くて気味悪いものでも見たかのように、ただちに視線をそらせて、すでに見たものをまた思い出すこともいやだったでしょう。
まさに皆さんが目の欲をこのようにさえぎらなければならないのです。それでこそすみやかに肉を捨てられて、必要のない試練の歳月から早く抜け出せるのです。真理でないものは見ることも聞くこともやめるべきで、真理でないものに接するような場所へは、初めから行ってもならないのです。
ですから、まことに聖めを慕い求め、父なる神様の愛と祝福を慕い求めるなら、すべての目の欲を徹底的に遮断しますように。肉に属するものは見るのも聞くのもやめて、世でそんなものに接するようになっても、決して心に受け入れない皆さんになるよう、主の御名によってお願いします。また、肉の欲を引き抜いて、心の罪の性質をすみやかに脱ぎ捨てることによって、最も輝いてきよい麻布の衣を着た花嫁として、私たちの主と婚宴に入れますよう、花婿なる主イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。

 
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