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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(84)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 20:11-15
Date
   2008-12-05


黙示録20:11-15

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

愛する聖徒の皆さん、この間で、千年王国の説明が終わりました。
敵である悪魔・サタンに惑わされた肉の人々が、神の子どもたちを攻撃しようとするとき、天から火が降って来て一瞬に滅ぼしてしまいます。そしてヨハネが見ると、驚くべき光景が繰り広げられます。「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」
大きな白い御座、つまり、神の御座を見ましたが、それは最後の大審判のために備えられた御座です。霊である神の御座は、もともとは初めの天、すなわち、第四の天にあります。しかし、第三の天にもあって、神様が願われるなら、第一の天にもいくらでもその御座を置くことができます。ですから「どうして第一の天、この肉の世界に、霊である神様の御座が降りて来れるのか?」と考える必要はありません。
新しいエルサレムにある神の御座は、栄光の光で輝き、虹が囲んでいて、平安と喜びを与えます。もちろん聖められなかった聖徒は、栄光に輝く神の御座を見ることは難しいのです。それでも神様を恐れて愛する心があるので平安でいられます。
しかし、大審判の時の白い御座は、大変強い威厳と権威が感じられるので、救われた魂であっても、自然に頭を下げるほかはありません。まして救われなかった魂は、その御座の威厳の前に立つだけでも、とても恐ろしくて震えます。
この御座は、この地上で王が座る一つの椅子のように思ってはいけません。神様がお座りになるその座だけでなく、御座の周りの聖別された空間まで含みます。
御座が「白い」とは、光があまりにも明るくてきらびやかなのですべてが白く見える、という意味です。また「白い」とは、澄んできよいこと、真実と永遠など、神の属性を表しています。
この栄光に輝く神の御座が第一の天に現れて、これから世の初め以来、耕作を受けたすべての魂に対して大々的にさばきが始まるのです。このさばきは第一の天で行なわれます。これは、人類が耕作を受けたこの空間で、それぞれの行ないに応じてさばかれる、という意味があります。
ところが、第一の天でさばきが行なわれても、この時の空間は、今のように制限された肉の空間ではありません。「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあるように、さばきの時は、地と天という境界がなくなります。大審判のために、第一の天から第三の天まで、すべての空間が、まるで一つの空間のように開かれます。
たとえば、ある建物の中で1階の天井がなくなるとすると、1階と2階が一つの空間のようになります。1階で起こることを、2階でも見て聞くことができます。また、2階の天井がなくなると、1、2、3階が全部一つの空間になります。このように、神様は、いくつか次元の天を開き、一つの空間のように作られます。それで、どの空間にいても、神の御座のすぐ前に立っているように、生き生きとその威厳が感じられるのです。
この白い御座の大審判が行なわれる時点で、さばかれる魂はいろいろな空間に散らばっています。まず、この地上で千年王国を過ごした人々は、そのまま第一の天で御座の前に立ちます。そして、救われた魂の中でも、上のよみにとどまっている魂がいます。大礼拝の「地獄」の説教で聞かれたように、母胎で死を迎えたけれど、良心さばきによって救われた魂です。また、七年患難の時に救われた者のうち、千年王国に入れなくて別の場所にいる魂もいます。彼らは婚宴にも入れなくて、殉教した時からさばきの時まで、第二の天の区別された場所で待機しています。そしてさばきの後は、パラダイスの端にいるようになります。次に、救われずに下のよみで刑罰を受けている魂がいます。
このように、上のよみと下のよみ、第二の天など、それぞれの場所に散らばっていた魂が、神の御座の前でさばきを受けるようになります。彼らがみな第一の天の空間に移ってくるのではなく、空間が一つに開かれて、まるで一つの空間にいるように感じられるのです。
たとえば、下のよみの場合、下のよみの天がはがれるように空間が開かれます。するとその瞬間、下のよみの人々も、第一の天にある神の御座のすぐ前に立っているように感じます。
このように、上のよみと下のよみだけでなく、第二の天にあるエデンの園の人々も、生き生きとこのさばきが見られます。まるで同じ空間で見ているように、この驚くべき光景を一つ一つ目撃するのです。もちろん、彼らは耕作を受けてもいないし、大審判を受ける対象でもありません。しかし、この地上で耕作を受けてさばかれる人々は、彼らと全く関係のない人々でなく、自分の先祖であるアダムとその子孫です。
しかも、エデンの人々のうちの多くがアダムとエバの子であり、あるいは孫として一緒に暮らしていたし、アダムの栄光と呪いを見た人々です。したがって、この地上の人々に彼らはいつも関心を持っているのです。これからこの大審判を目撃することは、エデンの園の人々にも耕作について良い悟りを与えてくれるのです。
そして、さばきの時は第三の天も開かれます。第三の天、天国の神の御座の前は、水晶に似たガラスの海のようです。さばきの時は、ここに各人の行ないが詳しく映るのです。第三の天の空間が開かれると、このガラスの海のような神の御座の前も、第一の天に移されて、すべての人の前に現れます。
このように、いろいろな空間が一つのように開かれるので、さばきの時、神の御座の前で第一の天の地と天は、もはや意味がありません。それで「その御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」と表現したのです。
もう一つ、このように表現した理由は、このさばきの後からは、第一の天の地と天がこれ以上何の役割もしないからです。第一の天の地球はもちろん、太陽系も全宇宙も、初めから人間耕作のために造られた空間です。これからさばきの後、天国に入った人々が再びこの地球を訪ねて来ることもなく、エデンの園の人々が来ることもありません。地球に生命力があって動いたり、四季が変わったりすることもありません。
しかし、この空間がなくなってしまうのではありません。空間そのものは存在しますが、神様がその空間に通じる門を閉めてしまわれる、という意味です。それで、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」と表現しているのです。

[12節]に「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」とあります。
ここで「死んだ人々」とは、霊が死んだ人、すなわち、救いと関係のない人々のことです。この地上で生きた時の地位や富、栄華に関係なく、大きい者や小さい者、年齢、性別にかかわらず、皆が神の御座の前に立つようになります。誰も例外はありません。
神様を信じないで、主を受け入れなかった人々は、みな地獄に行くようになります。その中でも、それぞれの行ないによって火の池に行くか、それより七倍も熱い硫黄の池に行くかが決まります。
本文を見ると「数々の書物」と「いのちの書」が出て来ます。「いのちの書」とは、救われた聖徒の名が書き記されている書物です。そして他の書物には、すべての救われた人と救われなかった人の行ないが一つ一つ書き記されています。
この書物は誰が記したのでしょうか? これを担当した御使いがいます。ひとりひとりに担当する御使いがつけられて、各人がこの地上で生まれてから死ぬ時まで、すべての心と思い、行ないを書き記すのです。
[マタイ12:36]に「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」とあります。このように、ひと言まで書き記されて、さばきの根拠になります。誰かを憎んだり、にらんだ目つき、悪口のひと言、憤って殴ってけんかしたこと、殺人、姦淫、盗んだこと、唾を吐いたことまでも、御使いたちは見逃しません。もちろん、良い行ないも全部記します。
救われた子どもたちの行ないも全部記されますが、心配する必要はありません。彼らが主を受け入れる前に犯した罪は、主を受け入れたとき、全部赦されるからです。
[詩篇103:12]に「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあるように、主を信じて罪を悔い改めたとき、尊い血によって罪が赦されるのです。また、主を受け入れてから犯した罪も、心から悔い改めて立ち返り、光の中を歩むなら、再び赦されることができます。
だからといって、罪を悔い改めさえすれば何が何でも赦される、と思ってはいけません。神様が受けられる、まことの悔い改めでなければなりません。
[ヘブル10:26]に「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあります。まことに悔い改めたなら、その後からは変えられて、悔い改めの実を結んでいかなければなりません。そうしなくて「悔い改めれば赦されるから」と言いながら罪を犯し続けるなら、これは信仰でもなく、赦されることもできません。
また、「主を信じている」と言いながら、聖霊を冒とくして逆らい、汚した場合も、赦されない死に至る罪だと聖書にあります。これは、神様が悔い改めの霊を下さらないので、悔い改めることさえできません。さばかれた後は、火と硫黄の池のうち、硫黄の池に入るのです。
書物に書き記された内容に基づいてさばかれるとき、ひょっとして「私はそんなことをしませんでした」と否認する人がいても、何の役にも立ちません。この時、神様は書物に記された内容のほかに、さらに確かな証拠を見せてくださいます。それは、ガラスに似た海のような神の御座の前に映る場面です。ここに書物に記されている内容が、まるで映画のようにそのまま再現されます。当時の言葉や行ないだけでなく、心と思い、意図までも全部見せてくれるのです。
このように、神のさばきは心と思い、考え、言葉と行ない、すべてを総合して、正確な証拠に基づいて行なわれます。ですから、どこの誰も「悔しい」と言えないのです。

次に、本文[13節]に「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」とあります。死者、すなわち、救われなかった人々はさばかれますが、「海」と「死」、「ハデス」が「死者を出した」とあります。これはどういう意味でしょうか?
まず「海」とは、霊的に人が耕作を受けた場所である、この世を意味します。海が、つまり、世が死者を出した、とは、さばかれる人々がこの世で耕作を受けた、という事実を語っています。
また、世はさばきのために死者のからだを出します。人が救われずに死を迎えると、その霊と魂はハデス(下のよみとも言う)に閉じ込められ、肉は朽ちて世のどこかで土と変わっています。ところが、大審判の時になると、ハデスにいた死者の霊と魂も、審判にふさわしいからだが与えられます。
もちろん、彼らの霊・魂・からだは、救われた人々の霊・魂・からだとは違います。ここで表現上「霊」と言いますが、彼らの「霊」は神様と交わることができない霊、本来の役割ができない死んだ霊です。単に霊のからだだけが残っていて、永遠不滅の属性を持っているだけなのです。
彼らのからだは、救われた聖徒の復活したからだとは違って、御霊に属するからだではありません。単に、永遠に消えないからだです。救われた聖徒は、完全な霊のからだに変わると、天国という空間で味わう喜びと幸せを、さらに生き生きと感じられます。それと似た意味で、死者もさばきのためにからだが与えられると、地獄の刑罰がさらに生々しく感じられます。
本当はハデスの刑罰より、地獄の刑罰が比べられないほど苦しみが大きいのです。そのうえ、地獄ではからだが与えられるので、ハデスよりその苦しみがもっとはっきりと感じられるのです。
次に「死も、その中にいる死者を出した。」とあります。このみことばは、死者がさばかれるのは自分たちの行ないに応じてだ、という意味です。[ローマ6:23]に「罪から来る報酬は死」とあるように、すべてのさばきが徹底的に公義に従って行なわれていることを知らせてくれるのです。
耕作を受けている間に犯したそれぞれの罪によって、死んだ後はハデスに落ちて、その後は、火の池と硫黄の池に行くようになります。さばきのために死が死者を出すと、彼らは刑罰を受けていたハデスから、しばらくの間、解き放されます。このように死者がしばらく、死から解き放されることが、まさに「第二の復活」です。
それでは、第一の復活はいつ起きたのでしょうか? [黙示録20:6]の千年王国の説明として、「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」とあります。
主を信じていた聖徒は、主が空中に降りて来られるとき、引き上げられて「第一の復活」にあずかりました。復活したからだに変わって、七年の空中婚宴にあずかった後、千年王国に降りて来て王となります。
ところで、このメッセージを聞いて「ただの『復活』ではなく『第一の復活』と言うなら、第二の復活もあるのでは?」と、気になった方がおられるでしょうか? 当時は説明しませんでしたが、もし、皆さんが関心をもって本文を読まれたなら、当然、気になったでしょう。
聖書には、はっきりと「第二の復活」という表現は出て来ません。しかし、きょうの本文に「死が死者を出した」というみことばが、まさに、第二の復活に当たります。第二の死、すなわち、火の池と硫黄の池のさばきの先に、死が死者を出すのです。
しかし、この復活はいのちと救いの復活でなく、救われなかった者だけの恐れとさばきの復活です。このように、第二の復活は、救われた聖徒には関係ないことなので、聖書にはあえて復活だと表現しなかったのです。
死が死者を出すと、彼らはハデスの刑罰からしばらくの間、解き放されます。といっても、これはほんの少しの休みであり、安らぎも望みも全くありません。すなわち、さばかれると前よりさらに残酷な地獄の刑罰があることがわかるので、恐れに震えて待っているだけなのです。
また「ハデスも死者を出した」とあります。これは、先に説明したように、死が死者を出すと彼らにからだが与えられて、御座の前に立つことを言います。ですから、彼らはハデスにとどまってはいるものの、空間が一つに開かれるので、第一の天の御座の前にいるように生き生きとその威厳と権威を感じるのです。
このように海と死とハデスがみな死者を出すので、誰ひとり避けられず、神様の審判台の前に立つようになるのです。それで、自分の行ないに応じてさばかれるのです。
ところで、ここで覚えるべきことは、すでに白い御座の大審判の前にさばかれて、地獄に落ちた者もいる、ということです。七年患難が終る時、神様のさばきが臨み、獣とにせ預言者が生きたまま硫黄の池に投げ込まれます。また、千年王国が終るとき、裏切った肉の人々は火で滅ぼされて、火と硫黄の池に投げ込まれます。
彼らはすでにさばかれて地獄に入ったので、大審判の時にもう一度さばかれるのではありません。ただし、すべての空間が一つに開かれるとき、地獄の空間も開かれるので、彼らも火と硫黄の池で苦しみながら、大審判を見ることはできるのです。

[14節-15節]に「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とあります。ここで「火の池」とは、火と硫黄の池すべてを含む、地獄を代表する表現です。死も、ハデスも、その役割をみな果たして、救われなかった者、つまり、ハデスにいた者は、これから地獄に投げ込まれます。
「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。」とありますが、この世、すなわち、海は、火の池に投げ込まれるのではありません。肉の空間である第一の天は地獄に投げ込む必要はないので、先に説明したように、ただ閉じられるだけです。ハデスの中でも、例外は今度、また説明します。
[第一テモテ5:24-25]に「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」とあります。
救われなかった人々も、おのおの罪の軽重が違います。ですから、罪がより重い人は硫黄の池に入って、それより軽い人は火の池に入ります。大審判の時は、誰の目にも明らかな罪、すなわち、罪の重いほうからさばかれます。しかし、さばかれた順番に従ってひとりずつ地獄に落ちるのではなく、全体がさばかれたら、いっぺんに地獄の各場所に落ちるのです。
最後の大審判について、本文の説明はだいたい終わりました。しかし、皆さんがここまでよく理解したとしても、大審判に関する全体的なことはまだよくわからないでしょう。それで、本文にない内容をもう少し補って、次の時間に説明します。

結論

愛する聖徒の皆さん、天国と地獄は確かにあります。救われていのちの書に名が書き記されないなら、誰も天国に入ることはできません。厳粛な裁判長の前でさばかれて、永遠の地獄の刑罰を受けるようになります。
しかし、正しい良心を持って神様を信じて、主を受け入れた皆さんは、さばきについて聞いても、かえって天国の望みがもっと加わります。自分の信仰の行ないと良い行ない、忠実だったことが、はたしてどんな報いになるのだろうかと期待できるからです。
ところが、「私は主を信じたので、聖霊を受けたので感謝だ」という人も、必ず覚えなければならないみことばがあります。[黙示録3:5]で主が「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」と約束されました。[出エジプト32:32]にも「あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」と言う表現があります。一度救われていのちの書に名が記されていても、場合によってはその名が消されることもあることが、これらのみことばでわかるのです。
また、[第一テサロニケ5:19]には「御霊を消してはなりません。」とあります。一度聖霊を受けた人であっても、神様のみこころに逆らい続けるなら、聖霊が消されてしまうこともある、という意味です。
このように「神様を信じている」と言いながら、罪の中に生きて聖霊が消された人は、結局、信じない人と変わりません。厳粛な審判台の前に立つ時に初めて、どれほど後悔するでしょうか? 「どうしてみことばどおり生きなかったんだろう? 神様のみこころが何か、確かに学んだのに、むなしい情欲と世のものを追い求めていて、このように恐ろしい場に立ったんだな。私はどうしてそうしたんだろう? どうしてあんなに愚かだったんだろう? もう一度だけ機会が与えられたら、どんなにいいだろう」と胸が張り裂けるほど嘆きます。
皆さんの中には決してこのような方がいないよう、お願いします。皆が恐れるのではなく、大胆に神様の審判台の前に立って、よりすばらしい場所と報いを受けなければなりません。きょうもこのような望みで、一日一日を満たしていかれますように。それで、さばきが終わるその瞬間、皆さんは喜びと感謝の賛美で天国の門に入れますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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