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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第24課 「天国の場所と冠(4)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-06-18


読むみことば: ヨハネ14:21
覚えるみことば: 黙示録2:10
参考にするみことば: ヤコブ1:12
教育目標: 神をこの上なく愛する信仰の四段階の人が入る場所と冠について調べる。

農夫が種を蒔いて耕作するのは、中身の詰まった実を刈り取る希望があるからです。神もそのような希望を持って、この地上で人間が生まれて生きていけるように天地万物を創造され、人類の歴史をつかさどっておられます。それで、麦は天国に、殻は地獄に入るようになります。神がご覧になって「麦」とはどんな人でしょうか? イエス・キリストを信じて救われるだけでなく、心を尽くして神を愛するまことの子どものことを言います。このように全き信仰と真心を持つ御霊の人を得ようと、神はこの地上に人間という種を蒔いて耕作されているのです。


1. 神をこの上なく愛する信仰の四段階

信仰の四段階に入れば、神は御霊の人だと認めてくださり、この時からこの上なく神を愛するまことの子どもと言えます。もちろん、信仰の三段階でも命令を守るので、神を愛すると言えます。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:21)とあるとおりです。
しかし、信仰の三段階ではまだ心の罪の性質まですべて捨てなかったので、「主よ、愛しています」と告白することが少しは申し訳ありません。みことばどおり行なえる信仰の三段階を過ぎて、神をこの上なく愛して完全に命令を守り、罪の性質を捨ててこそ、大胆に神を愛すると告白できるのです。
それで、信仰の四段階に入った人には、神に愛される証拠がいつも現れます。この地上で健康で栄える祝福を味わうだけでなく、天国でも、まことの神の子どもとして多くの栄光と権威を味わうようになります。
それでは、信仰の一、二、三段階とはどんな違いがあるでしょうか?「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(第一テサロニケ5:16-18)というみことばを通して調べてみます。
もし、ある人が身に覚えのない話で皆さんをはかりごとにかけようしたら、信仰の一段階や二段階の入り口の場合、相手のところに行って、是非を問い詰めようとすることもあります。相手に会えば感情的になって議論して、語調が高くなったりけんかしたりもします。しかし、二段階の中盤にだけなっても、悪を捨て去るために努力してきたので、ひどく憤ったり悪を現したりすることは、ある程度自制できます。
信仰の三段階に入って、信仰の岩の上に立つ前なら、このようなことにあったとき、揺れ動いたりもします。真理を知っているので「感謝しよう、喜ぼう」と心を治めて我慢しますが、心の底から感謝が出てくるのではありません。
一方、信仰の四段階に入った人は、そのようなことにも全く揺れ動きません。神の御前に罪を犯さず、はばかることがないので、そんなことで感謝と喜びが消えることはありません。イエス様のように、敵であっても祝福し、相手が罪を犯さないように憐れんで祈れる心なのです。このように、同じ状況とはいえ、信仰の量りによって反応が違い、神の御前に立ち上る心の香が違います。
また別の例を挙げましょう。親が危篤で、急に手術をしなければなりませんが、お金がありません。この時、お金が入っているバッグを拾ったとすれば、信仰の一段階や二段階では、そのお金を自分のものにすることもあります。信仰の二段階では、善を追い求める御霊に属する心と、自分の欲望を追い求める肉の心が戦います。そうするうちに「このお金はどうしても必要だ」と肉の願うことが勝てば、良心の呵責は感じるけれど、自分が使ってしまうことがあります。しかし、信仰の三段階では「このお金さえあれば、問題が解決できる」という真理に逆らう思いがしばらくよぎることはあるが、結局、正しい良心に従って持ち主を探します。
信仰の四段階は次元が違います。いくら物質が必要だとしても、他人のものを自分のものにしようとする心そのものがないので悩みません。「お金を失くした持ち主がどんなにやきもきしているだろうか」と心配して、一刻も早く持ち主を探してあげようとする心があるだけです。
このような心になれば、神の御前でも人の前でも少しも恥ずかしいことがなく、大胆でいられます。心に悪があるから、人との問題やある環境によってつらく心が苦しいのですが、悪がないから、いつも聖霊に満たされて幸せで安らかなのです。


2. 信仰の四段階に与えられる天国の場所と冠

天国のすべての場所は、この地上とは比べられないほど幸せな所です。闇は少しもなく、愛と喜びだけがある所です。天国のあちこちには御使いがいて、甘い賛美が流れ、うっとりするほど美しい環境の中で、愛する人々と永遠に生きていきます。
このような天国の栄光も、信仰の段階によって大きい違いがあります。パラダイスや一、二天層には多くの御使いがいて、天国を管理し、時に応じて神の子どもたちを助ける働きをします。しかし、個人的に仕える御使いはついていません。三天層以上の天国に入ってこそ、ひとりひとりに個人的に仕える御使いがいて、その中でも、どれほどさらに聖められて、神に喜ばれたかによって、御使いの数が変わります。
御使いが仕えることも、天国の場所によって違うことが見られます。三天層では、御使いが主人の心を読んで従います。主人が果物を食べたいと思えば、その心を読んで、果物をもいで持っていきます。しかし、二天層の御使いは、果物を持ってきてと命じて、はじめて動きます。
また、三天層以上に入る人には雲の自動車が与えられます。新しいエルサレムに入った人は個人所有の雲の自動車に、三天層に入った人は共有の雲の自動車に乗れます。天国の雲はこの世の雲とは違います。天国の栄光と美しさを加えるために造られた一つの飾り物のようです。
エジプトから出た当時、神がモーセに現れたとき、雲の中に降りてこられたし、ソロモン王が聖殿を奉献するとき、聖殿の中に雲が満ちて、神の栄光が臨みました。また、イエス様は「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26:64)と言われました。
このように神の栄光を表す天国の雲で造られた雲の自動車に乗ろうとするなら、三天層以上の天国に入らなければなりません。それで、三天層以上に入った人は外見だけ見ても、二天層の人々と大きい違いがあります。人によって栄光の光が違い、服と服の模様、つけられている飾り、ヘアスタイルなどが違って、その人がどれほど主に似せられて聖められた人なのか、どれほど神に愛されている人なのか、すぐ見分けられます。
それでは、三天層の家はどのように建てられているでしょうか? 二天層の建物は一階建てですが、三天層からは二階建ての建物です。この地上では、土地が狭いから高いビルが必要ですが、天国は限りなく広いので、建物を高くする必要がありません。家は純金と宝石で飾られていて、美しくかぐわしい花と木で華麗に整えられた庭園と湖があります。二天層では湖やゴルフ場、プールなど、一つの付属施設が持てますが、三天層は願うものを何でも持てます。三天層の邸宅はこの世の億万長者でもまねできないほど、うっとりするように飾られています。
二天層と違うところは、家に表札がないということです。家そのものから主人の心が感じられる独特の霊の香りが流れ出て、主人が誰なのかわかるからです。各人の霊の香りが違うように、その家から流れてくる香りと光も違います。主人が聖められて神に似せられたほど、もっと美しい光と香りが出てきます。天国には、この地上の動物とは比べられないほど美しくて、華麗で、賢くてやさしい動物と鳥がいて、人々を楽しませてくれます。
それでは、三天層ではどんな冠を受けるようになるでしょうか? <ヤコブ1:12>に「神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあるように、いのちの冠を受けます。<黙示録2:10>に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とありますが、ここで「死に至るまで忠実である」とは、霊的な忠実のことを言います。つまり、殉教の信仰を持って、神の国のために使命を果たしただけでなく、世の真理に逆らうものと妥協しないで、罪と戦って血を流すまで抵抗して捨てた人、完全に聖められた人になってこそ、死に至るまで忠実であったと言えます。このように聖められて、いのちを尽くして死に至るまで忠実であった人が三天層に入り、それに応じる報いとして、いのちの冠を受けます。
また、たとえ完全に聖められなかったとしても、主の御名によって殉教した人は三天層に入り、いのちの冠を受けます。もちろん、まことの信仰と愛でいのちをささげた場合のことです。
したがって、私たちは世の富と誉れを慕うのでなく、ただ聖潔を慕って、罪を捨てていかなければなりません。必ず御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされようと慕う心と希望を持って、決して世を見つめないで、毎瞬よりすばらしい天国を激しく攻めて入って行きますように。


* まとめと適用

1. <黙示録2:10>をみんなで覚えてみましょう。
2. 信仰の四段階の人が入る三天層についての説明として、間違っているものを選びなさい。
1. 二天層の家は多世帯住宅やアパートのかたちだが、三天層の家は一階建てである。
2. 聖められて死に至るまで忠実であった人が入り、いのちの冠を受ける。
3. 二天層と違うところは、表札がなく、家自体から主人の香りが流れてくる。
4. 三天層では御使いが主人の心を読んで従うが、二天層では御使いに命じてこそ動く。

* 今週の課題

『信仰の量り』第十章の三、新しいエルサレムの部分に目を通してきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「雲の自動車」とは?
天国の交通手段で、三天層に入った人々は共同で使うことができ、新しいエルサレムではひとりひとりに自家用として与えられる。雲の自動車はそれ自体だけでも、持っている人の栄光と威厳と権威を表してくれる。おもに御使いが運転し、ひとりで乗れる個人用と何人かの人と一緒に乗れるものがある。

 
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