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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第42課「エリヤの善(1)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-10-22


読むみことば: 第二列王2:11
覚えるみことば: 第二列王2:11
参考にするみことば: 第二コリント4:7


教育目標

エリヤのようにいつもへりくだって自分を低くし、神の恵みを受けて強くされる聖徒になるようにする。

エリヤは、エノクのように死を見ないで天に上げられた預言者です。[第二列王2:11]には「こうして、彼ら(注・エリヤ、エリシャ)がなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」とエリヤが天に上げられた場面が出てきます。
このように「死を見ないで天に上げられた」ということは、霊的にとても重要な意味を持っています。[ローマ6:23]に「罪から来る報酬は死」とあるように、死は罪を犯した報いとして臨むものです。ですから、「死を見ないで天に上げられた」とは「何の罪もない」という意味です。エリヤは死を見ないで天に上げられるほど、神がご覧になって罪のない完全な神の預言者でした。それで、この地上で耕作された被造物として、天国で最高の序列に上れたのです。
はたしてエリヤはどんな善の心を持っていたので、神が「天の御国で偉大な者」と認められ、驚くべき神の力を与えてくださったのでしょうか?


1. 非常にへりくだった心で、誰ともぶつからなかったエリヤの善

エリヤに神の力が与えられる前は、とても弱くておとなしい性分でした。自分は欠けたところの多い者で、自慢するようなこともないので、自信のない姿でした。どんな状況でも自分を主張しなかったし、自分の意見を通そうもしませんでした。また、誰ともぶつからなかったので、彼がいる所では平和が破られることがありませんでした。
このような姿が肉的には優柔不断に見えることもありますが、御霊の人に変えられれば、偉大な預言者に成長できる基本的な土台になる心でした。心をご覧になる神はエリヤのこのような心の善を大いに認められて、訓練を通して偉大な預言者として用いられました。聖書に出てくるモーセ、ペテロ、使徒パウロは、変えられる前、肉的にとても大胆で能力のある人でしたが、神の働き人として用いられるまで、自分を徹底的に捨てる訓練の過程が必要でした。
ところが、エリヤは訓練を通して心が低くなったのではなく、もともと性分がはなはだ弱くておとなしく、自尊心や自分を叫ぶ心がありませんでした。神が召された時も、エリヤは「私は欠けた者なのに、どうして神様の働きをやり遂げられるだろうか」という恐れがありました。
自分を完全に無にしてへりくだるのは良いことですが、一時代の偉大な預言者として用いられるためには、その弱さとおとなしさが御霊に属するものに変えられなければならなかったので、神は彼が訓練を受けることを許されました。
当時、北イスラエルの悪い王アハブが、バアルに仕えるシドンの王の娘イゼベルを妻にめとったので、彼もバアルに仕えて、全国に偶像礼拝がはびこっていました。どれほど神の怒りを引き起こしたのか、ついに神のさばきが臨むようになります。神はエリヤに、二、三年の間は露も雨も降らないことをアハブ王に伝えさせます。
ところが、アハブ王はその言葉を聞いて悔い改めるどころか、むしろエリヤを殺そうとしました。神はエリヤがケリテ川のほとりに身を隠すようにされ、烏がパンと肉を運ぶようにしてくださいます。また、日照りで川が枯れると、エリヤをシドンのツァレファテのやもめのところに行かせて、養われるようにされます。エリヤはやもめから一口のパンで養われ、日照りが終わる時まで糧が尽きない祝福を受けるようにし、死んだ子どもを生き返らせました。
三年が過ぎて、神はエリヤに、雨を降らせるからアハブ王に会いに行けと言われます。アハブはイスラエルに臨んだ日照りがエリヤのせいだと思ったので、彼を捕らえるために全国が血眼になっていました。捕まったら命も失うことがあるのに、神はアハブに会いに行けと言われたのです。心が弱くおとなしいエリヤとしては、その命令に従うのがとても難しいことでしたが、アハブ王のところに進み出て、神のみこころを伝えます。
さらに、カルメル山でバアルの預言者四百五十人と対決して火の答えを引き下ろし、エリヤの仕えている神だけがまことの神であることを現し、バアルの預言者たちを全部殺します。また、エリヤが祈って、三年六か月の間、露も雨も降らなかったイスラエルに大雨が降りました(ヤコブ5:17-18)。この他にも、エリヤはヨルダン川を分け、先の事について明らかに預言するなど、霊的に暗いイスラエルの民を目ざめさせて神に導く、神の力を現す預言者でした。


2. エリヤのように自分の弱さを克服して大胆に従おうとするなら

 それでは、エリヤがどのように自分の弱さを克服して、大胆に従えたのでしょうか? それは、いつも神と交わることをやめなかったからです。エリヤは自分が欠けていることを知っていたので、神といつも交わることに努めて、みこころが何か正確に悟ろうとしました。また、自分は何もできないので、へりくだった心で神に求めました。すべてを可能にする神の力を授かるために、神と交わることに努めました。
これを通してエリヤは自分の弱さを克服し、神が下さる大胆さと力を受けて、信仰によって勝利できました。エリヤはこのような体験を通して、「人の思いではできないことでも、神がしなさいと言われれば十分にできる」という信仰が固くなりました。
かといって、一気に弱さがなくなったのではありません。訓練を受けながらも神と交わり続けたので勝利できたし、神の力によって強くされたのです。それからは、信仰によってどんな事もやり遂げられるという確信を持って、神の栄光を大いに現すことができました。つまり、エリヤが大きい神の力を現せたことも、肉の限界の中にいる自分にはできなくても、神である主にはおできになるという確固たる信仰を持って、みこころに従うだけだったからです。ただ信仰によって聞き従ったエリヤに、神は霊の空間で可能なことを肉の空間に現されました。
神は全知全能なので、人を用いようとされるとき、肉的に能力が高い人を選ばれるのではありません。自分を目立たせないで、ただ神のみこころを伝えて、神の力をそのまま現す人を用いられます。「自分」がぎっしり詰まっている人は、神の力がたくさん入れられないだけでなく、神が力を注いでくださっても、「自分」と混ざれば、純粋な神の力が発揮されないからです。
それでは、神が探しておられる器とはどんな人でしょうか?「自分」が完全に捨てられていて清い器です。そして、自分を無にして、ふところが深い器です。器が深くてこそたくさん入れられるように、へりくだって自分を低くするほど、神の力が大いに臨むことができます。
エリヤはこの二つの条件をどちらも備えていました。神は肉的には能力がなくて弱く見える人を選んで、神の力を授けられ、神の働きを大いに成し遂げて、ご自身の栄光を現されたのです(第一コリント1:27-29)。
ところが、「自分」を完全に無にしないで、欲と自分を叫ぶ悪がありながらも、まるで神に選ばれて用いられているように言う人もいます。また、神に切に求めて賜物が現れれば、すぐ高ぶって間違った道に落ちたりもします。
したがって、「私にとって、毎日が死の連続です。」と告白した使徒パウロのように、毎日自分の心の器をあけますように。肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢をすみやかに捨て去り、自分の義と枠を徹底的に打ち砕くとき、神の力と豊かな恵みが臨むのです。エリヤは、神に召される前も自分を全く主張しなかったので、誰ともぶつかりませんでした。
今日、聖霊を受けて神の働きを実現していく働き人たちの間で、自分の義を主張するから互いにぶつかって、気まずくなることが見られます。これは、自分は真理だと思って作った枠が、他の人を苦しめるからです。
神は、罪人が悔い改めて立ち返れば、そのすべての罪と咎を主の尊い血によって赦して、恵みを与えてくださいました。このような恵みを受けた私たちは、真理のみことばによって罪と義について明らかに見分けても、神がそうされたように愛でいだかなければなりません。また、罪人に仕えたイエス様のように、仮に自分が見て正しくない相手でも、仕えることができなければなりません。これが神がご覧になってまことの義だからです。また、これがまことの義と信じて、自分を捨てて低くする心の姿が、まさに神が認められる善だと言えます。
[第二コリント4:7]に「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。土の器のような私たちを選んで、宝を入れる器になるようにされた恵みに感謝し、へりくだって自分を低くして、神に尊く用いられる働き人になりますように。


まとめと適用

1. 次の中で、死を見ないで天に上げられた預言者でない人を選んでください。
①エノク ②エリヤ ③モーセ ④アブラハム

2. 預言者エリヤに関する説明の中で、正しくないものを選んでください。
①イスラエルの王の中で、最も悪い王のアハブの時代に活動した預言者である。
②三年六か月の間、雨が降らなかったイスラエルに雨を降らせた。
③神と交わり続けて、自分の弱さを克服した。
④もともと性格が大胆な上に、神の力が授けられて、もっと大いに用いられた。


今週の課題

次回はエリヤの善の二回目を学びます。エリヤが行ないと真実をもって神を愛したことが現れている聖書の箇所を探してきましょう。


「人物」を知って力にしましょう!

「アハブ王」とは?
北イスラエルで最も悪い王として指折り数えられる。バアルを拝むシドン王の娘のイゼベルと政略結婚して、イスラエルにバアルの宮を建て、アシェラ像を造り、神の怒りを引き起こした。 また、ナボテを殺して彼のぶどう畑を奪ったし、その血を犬がなめるという悲惨な最期を迎えた。

 
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