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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第44課 「エリヤの善(3)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-11-05


読むみことば: ヨハネ3:28-30
覚えるみことば: ヨハネ3:30
参考にするみことば: ルカ3:15-16


教育目標

主の道を整えて、自分の務めを果たしたバプテスマのヨハネのように、終わりの時、再び来られる主を待つ聖徒の務めについて悟るようにする。

エリヤはとてもへりくだった心を持っていて、自分の義がなくて、誰ともぶつかりませんでした。行ないと真実をもって神を愛したので、神を遠ざけて偶像礼拝に陥っているイスラエルの民を救うために、信仰によって大胆に行ないました。この地上で自分のすべての使命を果たした後は、死を見ないで天に上げられました。主への愛が燃えさかる炎のようになって、エリヤはこの地上に再び下りてきて、バプテスマのヨハネとして主の道を整える使命を完全に果たして、結局は殉教します。
主の道を整えたエリヤの善とは、はたしてどんなものでしょうか?


1. 自分の務めを変わらず果たしたエリヤの善

[ルカ1:13-17]では、御使いのかしらのガブリエルがザカリヤに将来、子どもを得ることを告げます。「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。……彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」とあります。
その後、エリサベツがみごもって子どもを産みました。その子どもがまさにバプテスマのヨハネです。[ルカ1:80]に「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」とあります。ヨハネが「荒野にいた。」とは「世と聖別された生き方をしたこと」を意味します。バプテスマのヨハネは世と聖別された生き方をしながら、いつも神と霊的に交わり、世に現れる時を正確に働きかけられました。
それでは、バプテスマのヨハネは自分がエリヤであることを知っていたでしょうか?
[ヨハネ1:21]でユダヤ人が「あなたはエリヤですか。」と聞いたとき、「そうではありません。」と答えたことから見ると、自分がエリヤであることを知りませんでした。バプテスマのヨハネはエリヤの心が入っている霊を受けましたが、親の気によって遮られていたからです。
イエス様は霊そのものが心であり、親の気を全く受け継がなかったので、幼い時から自分が誰なのか、なぜこの地上に来たかをご存じでした。これは、イエス様が十二歳の時にあったことを通してわかります。[ルカ2:49]で、宮におられたイエス様を見つけた肉の両親に、イエス様が「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と言われたのです。
ご自分について幼い時から知っておられたイエス様とは違って、バプテスマのヨハネは自分が誰なのか正確に知りませんでした。ですが、彼の霊の中にエリヤの心が入っていたので、ぼんやりと自分がどんな生き方をしなければならないのか、心に働きかけられました。自ら世と聖別されて自制する生き方をし、いつも神と交わって自分の使命について悟っていきました。つまり、自分が来られる方を待たなければならないことと、何を叫ばなければならないのか、何をしなければならないのかを一つ一つ働きかけられて、世に現れる時を待ちました。ついに時になると、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫んで、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説きました。
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、バプテスマを受けました(マタイ3:5-6)。民衆は心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていました。
この時、バプテスマのヨハネは「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました(ルカ3:16)。
バプテスマのヨハネは自分の務め、すなわち、自分は主の道を整える者であると明らかに知って、それ以上分を超えないでよく守りました。いつも「私よりもさらに力のある方がおいでになります。」と伝えるので、人々の心には、どれほど後に来られる方を慕う心が大きくなったでしょうか。
時になるとイエス様が働きを始められ、バプテスマのヨハネに従っていた多くの人々がイエス様のほうへ行きました。この時、ヨハネの弟子たちがヨハネに「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」と言います(ヨハネ3:26)。
ところが、ヨハネは「もう私の時代は終わったんだなあ!」と悲しみませんでした。「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。……あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言いました(ヨハネ3:28-30)。弟子たちに言い聞かせながら、主の道を整える者の務めを繰り返し心に刻み、主の現れをまことに喜びました。どんな私心も不正もなく、真理を喜ぶバプテスマのヨハネの、主への愛が感じられます。主への心は、獄につながれて殉教するまで、変わることがありませんでした。神は、バプテスマのヨハネが主の道を整える者としての務めを変わらず果たしたことを、まことの善とみなされました。


2. 再び来られる主を待つ聖徒の務め

 主が再び来られる日がはなはだ近づいている終わりの時に生きている私たちにも、主の道を整える使命があります。バプテスマのヨハネが、イエス様がキリストとして来られた方であることを人々に信じさせるためにその道を整えたように、私たちも、ひとりでも多くイエス・キリストを信じて、再び来られる主を一緒に迎えられるようにしなければならないのです。
このために神が本教会に与えられた使命を一つの心で実現することが、まさに私たちが主の道を整えることです。世界宣教と大聖殿建築を実現するまで、すべての過程が魂の救いと直結しているからです。この大きい課題を果たすために教会の各部署と組織があり、ひとりひとりが任せられた使命をよく果たすとき、結果的に教会の使命も果たすようになるのです。つまり、各自の使命を忠実に果たすことが、まさに主の道を整えることなのです。
たとえ特別な務めがなくても、主を信じる人には誰でも伝道の使命があり、世で光と塩になる使命があります。私たちがどんな使命を任せられても、バプテスマのヨハネのように変わらず自分の務めを果たせば、主の道をよく整えた働き人と言えます。
ところで、自分の務めをよく果たせない人は、心が高くなっていないのか顧みてみますように。自分の利益を求め、私心があって、初めの純粋な目的から外れることもあります。バプテスマのヨハネのように尊い器になろうとすれば、私心がなく、へりくだって自分を低くし、主だけを高めなければなりません。神に栄光を帰すとき、自分も栄光を受けようとする私心を持たず、ただ主の栄光だけのために、真実な心をもって行なわなければなりません。
また、主のわざに励んでいる同労者が自分より大いに栄光を帰せるなら、心から喜びと感謝をもって自分の既得権も渡せなければなりません。心から神を愛する人は「私がどれほどもっと多くの働きをしようか」より「どうすれば神様の栄光をもっと現そうか」を重要に思うからです。これがまさに「自分はなくて、ただ主の栄光だけを求める人」の大きい心です。
各分野で新しい働き人が立てられる時も、すべての人がバプテスマのヨハネと同じ心を持つなら、あらゆる分野で平和のうちに神の栄光を現すことができます。「自分がどんな使命を受けるだろうか」にこだわるより、父の国と主の栄光のために自分より優れた人がかしらとして立てられるように願う心にならなければなりません。
これは主のわざへの熱い心がないとか、冷めたりとかして、後ろに退くこととは違います。仮に自分より劣っている人がかしらとして立てられたとしても、その人が聖霊に満たされてよくやれるように、自分を目立たせないで助けられる心が善です。心が善で、成長した父の信仰を持っている人は、まだ信仰や力、経験が欠けている人が自分より目立った働きをするとしても、気を悪くしません。自分より愛されるとしても、ねたみません。父のような心なので、その人が愛されれば、ともに喜んで楽しみます。もしかして経験が足りなくてミスしないだろうかと、その欠けたところを神様が強くして満たしてくださいと、さらに切に頼る祈りをします。
本当に再び来られる主を慕って待っているなら、エリヤのように自分を完全に無にして、すべての人と平和を保ち、行ないと真実をもって神を愛し、自分の務めを変わらず果たしますように。そうしてバプテスマのヨハネのように主の道を完全に整えて、栄光のうちに主を迎えて、主のふところに喜んでいだかれますように。


まとめと適用

1. 次の説明の中で、間違っているものを選んでください。
①バプテスマのヨハネは自分がエリヤであることをすでに知っていた。
②バプテスマのヨハネのように、私たちにも主の道を整える使命がある。これは、多くの人が主を信じて、再び来られる主を迎えられるようにすることである。
③ヨハネは、従っていた多くの人がイエス様のほうへ行った時も悲しまなかったし、主の現われをまことに喜び、どんな私心も不正もなかった。
④バプテスマのヨハネはエリヤの心が入っている霊を与えられたが、親の気によって遮られて、自分がエリヤであることを知らなかった。

2. 皆さんはある使命を任されたとき、バプテスマのヨハネのように変わらず自分の務めを果たして、忠実に働いているでしょうか?


今週の課題

この地上には多くの教会がありますが、神に喜ばれる教会はどんな教会でしょうか? ヨハネの黙示録2章と3章に例として挙げられている教会を参考に、考えてきましょう。


「人物」を知って力にしましょう!

「ザカリヤ」とは?
バプテスマのヨハネの父で、ヘロデ王の時のアビヤの組の祭司である(ルカ1:5)。彼の妻はおとめマリヤの親戚のエリサベツであり、この夫婦はふたりとも律法をよく守った善良な人だった。

 
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