new commer 初めてお越しの方の登録 | ホームページ管理人に
hide
ManminCentralChurch

黙示録講解 | 信仰を測ると | 創世記講解

 
banner
on air
Sermon
Official Service
メッセージ(date)
主日礼拝
主日夕方礼拝
金曜徹夜礼拝
Lecture
ヨハネの手紙第一
黙示録講解
創世記講解
Theme Sermons
十字架のことば
信仰の量り
十戒
愛の章
天国
地獄
Columns
cell bible
 
隠れたマナ
2019年
六日間のマナ・上
六日間のマナ・下
神の良きみこころ

信仰の量り
愛の章
御霊の実
神の七つの御霊
祝福の秘訣
クリスチャンの基本
わたしはそれをしましょう
義人は信仰によって生きる
八つの幸い
2010年
2009年
2008年
隠れたマナ
2019年
六日間のマナ・上
六日間のマナ・下
神の良きみこころ
信仰の量り
愛の章
御霊の実
神の七つの御霊
祝福の秘訣
クリスチャンの基本
わたしはそれをしましょう
義人は信仰によって生きる
八つの幸い
2010年
2009年
2008年
column
counselor
mis_cross_jp
MIS_Spirit
MIS_HolySpirit
MIS_HolySpirit
 
聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第45課 「神が建てられた教会(1)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-11-12


読むみことば: 黙示録3:7-13
覚えるみことば: 黙示録3:12
参考にするみことば: ヨハネ3:5、6:53


教育目標

神が建てられた教会とは、聖徒たちが罪を捨てて救われるようにする教会だと悟るようにする。

今日、とてもたくさん教会があります。その中で、神が建てられた教会とはどんな教会でしょうか? 黙示録2章と3章には、すべての教会を代表する七つの教会についてのみことばがありますが、ただ一つ称賛だけ受けた教会がフィラデルフィヤ教会です。
[マタイ7:16]に「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」とあるように、神が喜ばれる教会は実を見ればわかります。それでは、神ご自身が建てられた教会とはどんな教会のことを言うのか、聖書に記されたみことばを通して、五回にわたって調べてみます。


1. 聖徒たちが救われるようにする教会

神が建てられた教会は、主の血の代価で買われた聖徒たちが集まった所なので、キリストがかしらになって、ともにおられます(エペソ1:22)。ところで、ある人々は教会に来る目的が違います。交わりのために、または良いメッセージを聞くために、教会に行けば祝福されると言うから来るのです。もちろんこのような場合も、教会に来る目的の一つになることはありますが、最も重要な目的は救われることです。
それでは、聖徒たちが救われるようにするためには、どうしなければならないでしょうか? まさに、教会で罪についてのみことばが宣べ伝えられなければなりません。教会は、イエス様の尊い血によって私たちが罪を赦されて聖霊を受け、神の子どもになるようにする所です。したがって、なぜ罪が恐ろしいものなのか、なぜ罪のために救われないのか、罪をなぜ捨てなければならないかを伝えるのが教会の第一の目的です。
理解しやすく、たとえを一つ挙げてみます。あるがん患者が病院に行ったら、医師がうわべだけを一度ざっと見て「家に帰って、来週来てください」と言います。それで、次の週に行きましたが、医師が大ざっぱに見て、また「来週来てください」と帰します。1か月、2か月、1年と病院だけ行ったり来たりしたあげくの果てに、命を失うようになってしまいました。このように、自分ががんであることも知らないまま病院に通っている人がいるなら、どんなにもどかしいでしょうか。ところで、今は自分ががんだと知りました。それなら、治療できない病院に通い続ける人がいるでしょうか。いないでしょう。
教会も同じです。教会の使命は罪を指摘して、罪を捨てることによって救われるように導くことです。ところが、罪がどれほど恐ろしくて、罪の結果がどれほど惨めなのか、なぜ罪を捨てなければならないのか、教えない教会があるならば、本来の使命を果たしていないのです。ある牧会者は、聖徒たちが嫌うから罪を指摘しないと言います。
それなら、がん患者自身ががんにかかっているという事実を知らないまま死ぬほうがよいでしょうか? 単に聖徒たちが嫌うからと、罪について教えないなら、どうなるでしょうか? まるで末期のがん患者を治療しないで、家で休んで人生を終えなさいと言うようなものです。今日、多くの教会が罪についての指摘をおざなりにしているので、救いという使命をおろそかにしていないか、一度顧みなければなりません。


2. 罪を指摘して、救いが維持されるようにする教会

 ある人は、イエス・キリストを受け入れて、自分の過去、現在、未来の罪をすべて赦されたのに、また何を悔い改めて、繰り返し罪についてのメッセージを聞かなければならないかと言います。
たとえを一つ挙げてみます。肝臓がんの手術を終えた患者がいます。ところで、医師が「もう手術を受けたから完全に治りました。これからはお酒も飲んでタバコも吸ってください」と言うでしょうか? そうではないでしょう。「お酒とタバコは絶対やらないで、無理をしたらいけないし、食べる物も選ばなければいけません」など注意を与えて忠告するでしょう。
同じように教会も、イエス・キリストを受け入れて聖霊を受け、神の子どもになるようにするところでその役割が終わるのではなく、救いが維持されるようにしなければなりません。つまり、病院でがん患者を治療したら、再発しないようにアフターケアをしてくれるのと同じです。
しかし、今日の教会は、イエス・キリストを受け入れて救われる道については教えていますが、救いを維持する道についてはまともに伝えていません。
たとえば、プサンに行くためにキョンブ高速道路に入ったとしましょう。それでは、目的地のプサンまで行ったということでしょうか? そうではありません。しばらく行ってみると脇道もあり、他の所に抜ける道もあります。
このように、教会が聖徒たちに地獄へ行ってしまう道もあることを知らせ、天国への道にだけまっすぐ行きなさいと教えなければなりません。ところで、主を信じさえすれば天国に行くと教わった人が、自分勝手に他の道に行ったあと、「私はなぜ天国に行けなかったのですか?」と聞くなら、教会がどう答えるでしょうか?
イエス様は[ヨハネ3:5]で「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われました。救いに至ろうとするなら、水と御霊によって新しく生まれなければなりません。また、[ヨハネ6:53]では「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と言われました。これは、水と御霊によって新しく生まれるところで終わるのではなく、その後、人の子の肉を食べ、またその血を飲む過程があってこそ、私たちの中に永遠のいのちが維持されて主に会えるということです。
ここで「人の子の肉」とは真理である神のことばを意味し、「人の子の肉を食べる」とは「神のことばを糧とする」という意味です。「人の子の血を飲む」とは「糧とした神のことばを信仰によって行なう」ことを言います。イエス・キリストを受け入れて聖霊を受け、天国のいのちの書に名が記されれば、それは救いの始まりです。救いの完成は主に会う、その瞬間です。
盆や正月が近くなれば、多くの人が故郷に行くために汽車の切符を前もって買います。それでは、その人たちがみんな汽車に乗るでしょうか? 切符を失くす人もいて、気が変わったり、事情があって行けない人もいます。
救いも同じです。救いのチケットをもらったからといって、何が何でもみんな天国に行くのではありません。途中でそのチケットを失くしてしまう人たちもいます。教会は通っているというのに、天国行きのチケットがない人は、聖霊を受けなかったのです。また、チケットをもらっても、世へ向かった人たちは、御霊を消してしまったのです。
私たちは「救いのチケットを得た」ということで満足するのでなく、主が来られる時まで、救いのチケットをちゃんと持っていなければなりません。それで、牧者は私たちが救いの枠をはみ出さないで、死に至る罪を犯さないように、繰り返して教えておられるのです。


3. 少しばかりの力があって、神のことばを守る教会

ある団体で「教会を選ぶ基準の第一は何でしょうか?」というアンケート調査をしましたが、ほとんどが「メッセージが良い教会」だったそうです。それでは、メッセージが良い教会の基準とは何でしょうか? おもしろくて幸せなメッセージでしょうか? 聞きやすいメッセージでしょうか? 何よりも罪を指摘して救われるようにするメッセージでしょう。食べる時は苦くても、腹の中に入っては甘いみことばが伝えられてこそ、メッセージが良い教会と言えます。
もしかして、本教会で伝えられる聖潔のメッセージ、罪についてのメッセージを聞くのがつらいなら、「これがまさに教会で伝えなければならないメッセージだ!」と悟りますように。医師ががん患者に「今から私がしなさいと言うとおりにしますか?」と聞けば、患者は「何でもします」と言うでしょう。なぜでしょうか? 生きなければならないからです。同じように教会も、私たちが罪を捨てて救われなければならないから、そのようなみことばを宣べ伝えるのであり、このように救われるように導く教会が、神が建てられた教会です。
本教会は開拓してから今まで、主に称賛されるだけだったフィラデルフィヤ教会をモデルとして、そうなるために走ってきました。フィラデルフィヤ教会が、少しばかりの力があって、すなわち、信仰の量りが少しであっても、主のみことばを守って熱心に信仰を育てたように、私たちの教会も、熱心に罪を捨ててみことばどおりに生きたので、信仰の成長を止めないでいることができました。
実は、少しばかりの力があって、みことばを守っていくことはやさしくありません。世に打ち勝つ力がそれだけ少ないので、真理を知っても、実際に現実では行ないにくいのです。しかし、信仰が成長していく過程でも、信仰や行ないが衰えなかったので、今日、驚くべき神の力を現して、数多くの魂を救う、すべての名にまさる主の教会になることができました。
したがって、皆さんは神が喜ばれる教会で信仰生活ができることにいつも感謝して、きのうよりはきょう、きょうよりは明日と信仰が成長して、御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされますように。


まとめと適用

1.ヨハネの黙示録に出てくる七つの教会の中で、ただ一つ称賛だけ受けた教会は?
a.エペソ教会 b.スミルナ教会 c.ペルガモ教会 d.テアテラ教会
e.サルデス教会 f.フィラデルフィヤ教会 g.ラオデキヤ教会

2.次の説明の中で、間違っているものは?
①神が建てられた教会とは、聖徒たちが救われるようにする教会である。
②罪を指摘して罪を捨てるようにし、罪の結果がどれほど惨めなのか教えるのが、教会の本来の使命である。
③いのちの書に自分の名が記されたあと、勝手に信仰生活をしても救われる。
④教会は、主が来られる時まで救いが維持されるように、その道を教えなければならない。


今週の課題

次回は「神が建てられた教会」の二回目です。「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」という聖句はどこにあるでしょうか? 捜してきましょう。


「用語」を知って力にしましょう!

「フィラデルフィヤ教会」とは?
七つの教会の中でただ一つ称賛だけ受けた教会であり、今日、牧会者と聖徒たちが少しばかりの力があって、世に染まらないで、信仰を守ってみことばどおり行なう教会を代表している。それで、すべての祝福の門を開けるダビデのかぎを受け、神に愛されている証拠が現れ、新しいエルサレムの柱となる祝福の契約をいただいた。

 
ManminCentralChurch
73, Yeouidaebang-ro 22-gil, Dongjak-gu, Seoul, Korea
- tel 82-2-818-7000 - fax 82-2-851-3846
COPYRIGHT MANMIN CENTRAL CHURCH, ALL RIGHTS RESERVED