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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第49課 「神が建てられた教会(4)」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-12-10


読むみことば: 黙示録3:7-13
覚えるみことば: 箴言8:17
参考にするみことば: マタイ7:7-8、箴言8:17


教育目標

神が建てられた教会は、神を見つけて体験できるようにする教会であることを学ぶ。

前回まで神が建てられた教会の基準のうち、三つについて調べました。第一の基準は「聖徒たちが救われるようにする教会」、第二の基準は「聖徒たちの信仰が成長して、聖められた神のまことの子どもになるようにする教会」、第三の基準は「またおいでになる主を宣べ伝える教会」だと言いました。今回は、神が建てられた教会の第四の基準について調べてみます。


1. 神を見つけて体験するようにする教会

主のからだなる教会は神が臨在されるところなので、当然、神を見つけて体験し、交わらなければなりません。ところが、教会に10年、20年通っても、神を一度も見つけた体験がないなら、自分はもちろん、その教会が本当に神がともにおられる教会なのか、顧みなければなりません。
神が望まれる教会の姿が記された<使徒の働き>には、使徒たちによって多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれて(使徒2:43)、足のきかない者が立って歩いてはねるなど、生ける神を見つけた記述があります。また、七人の執事たちを通してもしるしが現れて、汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者が直りました(使徒8:7)。
それでは、私たちの教会はどうでしょうか? いつもしるしと不思議があふれています。たとえば、神の力のハンカチ、虹、甘い水、トンボの出現、星の移動、天気と気候の調節など、想像できない神の力あるみわざを多方面で無数に体験しています。
ところが、ある人々は「なぜそんなにしるしと不思議を強調するのか? 聖書に『見ずに信じる者は幸いです』とあるのではないか!」と言います。それでは、その方たちは本当に信仰が大きくて、見ずに信じるのでしょうか?
たとえを一つ挙げてみましょう。ソウルに住んでいるある息子が盆か正月にチェジュド(済州島)にいる親に会いに行こうと電話をしたら、親が「○○、あんたは忙しいから、遠いここまで来ることはないよ」と言います。息子はその言葉を聞いて、10年も20年も親の家に足を向けることはもちろん、電話もしません。親はどれほど息子に会いたいでしょうか? ところが、息子は「自分の親孝行の心をお父さん、お母さんは知っているだろう」と思って、訪ねて行かないのです。それでは、この人は本当に孝行息子でしょうか? そうではありません。親子の間に強い絆がないし、人の踏み行なうべき道が何かもよくわからなくて、親を喜ばせない子どもなのです。本当に親を愛するなら、いつも会いたくて、気になって、何としてでも訪ねて行こうとするでしょう。
神との関係も同じです。信仰がないから、神を見つけて体験したいと求めるのではありません。かえって、信仰があるから、神を愛するから、求めて体験するのです。<マタイ7:7>に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とあり、<箴言8:17>には「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあります。
もし、求めて、捜して、たたいて、神を見つけて体験する必要がなく、熱心に捜すことは信仰が少ない人がすることなら、なぜ聖書にこのように記されているのでしょうか? ただ「見ずに信じなさい! それが幸いだ」とだけ記されているでしょう。しかし、信仰がある人々が神を見つけて体験することはごく正常なことですから、そうしなさいと言われたのです。むしろ神を体験できなかったら、「私の信仰が大きくないので、見つけられませんでした」と率直に告白することが、さらに神に助けられて憐れみを受ける道です。


2. 大小の神のみわざを体験しているマンミンの聖徒

私たちの教会で信仰生活をしながら、これといった大きい証しがないと言う人々がいます。他の人は重い病気がいやされて信仰がぐっと成長するのに、自分にはそのようなきっかけがないと言うのです。しかし、その人たちに本当に体験がないのではありません。たとえば、ナイフで指を切ったり、倒れて膝にけがをすれば、世の人々は「破傷風にかかる、細菌に感染する」と傷を消毒して軟膏を塗ります。しかし、聖徒の皆さんは、子どもといえども、傷に甘い水をつけたり、堂会長先生の「いやしの祈り」を受ければ治ります。このようなことがすべて神を体験することなのに、これを悟れなくて当たり前のことだと思ったら、本当にもどかしいことです。
最近、日本のある病院で、毒性と耐性が強いスーパー細菌による大規模の院内感染で多くの患者が感染し、数人が死亡したというニュースが報道されました。ところが、聖徒の皆さんはスーパー細菌が全国に広がるとしても心配しません。なぜなら、神がいつも守ってくださるからです。
この前、新型インフルエンザで全世界が恐怖に震えましたが、私たちの教会の聖徒は牧者の空間の中で守られて、安らかに生活できました。世の人々は新型インフルエンザに感染するかと戦々恐々で、マスクをかけて薬を飲んで予防注射を打ってもらって、もしもの事態に備えました。極端な場合は、隣の人が咳だけしてもその場を避けることが一、二度ではないとニュースで聞いたでしょう。それにもかかわらず、新型インフルエンザに感染した人がたくさんいました。
これとは対照的に、マンミンの聖徒の皆さんは、世の人のように薬を飲んだり注射を打ってもらったりしなかったし、いつも聖殿に集まって祈り、賛美し、礼拝をささげましたが、異常ありませんでした。このようなこと一つ一つが神を体験した証拠なのです。


3. 伴うしるしと不思議によって聖書がまことであることを確証する教会

イエス様は「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(ヨハネ4:48)と言われました。ところが、ある人々は私たちの教会で起こる驚くべき神の力を見ながらも信じません。自分が知っている知識や理論とは全く合わないから、事実を事実として受け入れにくいのです。それで、神は「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」(第二コリント10:5)と言われました。
人が信じようと思えば、100のうち一つだけ確かでも、残りの99は見なくても信じるそうです。反対に、信じようとしなければ、100のうち99が合っていて、一つだけ間違っていても、信じないそうです。これが人の持っている肉の属性です。
ところが、本教会では、心の戸さえ開けば神のみわざを簡単に体験できます。信仰生活は霊の世界に関わることなので、私たちの知識と一致しないことが多いです。霊の世界についてよく知らない人が、自分の知識と合わないから霊の世界がないと言ったら、その言葉は正しいでしょうか? 肉的な知識を持って霊の世界を判断したら、どれほど無謀なことなのか悟らなければなりません。
小学生が大学の数学のテキストを読んで、理解できないからでたらめだと言ったら、どれほどおかしいことでしょうか。信仰生活は、まず神のことばと神の力あるわざを心で信じることです。初めはよく理解できなくても、心で信じて行けば、自然に頭でも理解できて、いのちとなります。
罪と悪がはびこっているこの終わりの時は、いくら主を信じなさいと言っても信じないので、神の力がどうしても必要です。その神の力によって神が生きておられることを証しするとき、信仰を植えつけることができるからです。このように不思議としるしで神のみわざをいつも体験するようにする教会が、神が喜ばれる教会であると知らなければなりません。
堂会長先生は聖書66巻のみことばがまことであることを、不思議としるしを通して確かに見せておられます。それで、聖徒たちは霊の世界が信じられて、天国の望みがあふれる信仰生活をしています。また、これを通して霊的に強くされて、熱心に罪を捨てて走って来ることができました。
<ヨハネの黙示録>に出てくる七つの教会の中で、唯一称賛されるだけだったフィラデルフィヤ教会は、少しばかりの力があって、世に染まらないで、信仰を守って、みことばどおり行なっていきました。その結果、新しいエルサレムの柱となる祝福の契約を受けられました。
本教会も、開拓の時から少しばかりの力があって、ただ信仰によって行軍したので、今日、とどまらない神の力をもって世界宣教をする教会、新しいエルサレムを慕って神の栄光を宣べ伝える教会、神に喜ばれる教会になることができました。皆さんは神が建てられた教会の聖徒だということに感謝して、自負心と誇りを持ちますように。


●まとめと適用

1. 神様を見つけて体験しようとするなら、どうすべきでしょうか? 間違っているものを選んでください。
①神様を求めて、捜して、たたかなければならない。
②神様を愛して、熱心に捜しに捜さなければならない。
③見ずに信じることが幸いだから、神様を捜す必要はない。
④しるしと不思議を慕って、切に求めなければならない。

2. 神様を見つけて体験した証しを互いに分かち合ってみましょう。


●今週の課題

次回は「神が建てられた教会」の五回目です。自分の教会が神様ご自身が建てられた、神様に喜ばれる教会の聖徒であることがわかったら、次にどうすべきでしょうか? 考えてきましょう。


●「用語」を知って力にしましょう!

「七つの教会」とは?
主がよみがえられてから、使徒たちを中心に小アジアに建てられたエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ教会のことを言う。霊的に七つの教会とは、主の御名によってこの地上に建てられたすべて教会のことである。七つの教会に下さったみことばは、最後のさばきの日にすべての教会をさばく基準になる。

 
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