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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   信仰の量り(10)「信仰の岩から御霊の歩みに入るまで」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-05-14


読むみことば: ローマ12:3
覚えるみことば: 箴言18:12
参考にするみことば: マタイ7:24-25
教育目標: 信仰の三段階の60%を過ぎて、信仰の四段階、御霊の歩みに入れない理由を発見して、御霊の人になれるようにする。


信仰の三段階の入り口になるだけでも、ささいな肉の行い、すなわち、行いで犯す罪はもう犯しません。信仰の三段階の60%になれば、信仰の岩の上に立ったということで、肉的なことをもっぱら考えること、すなわち、心と思いで犯すほとんどの罪はすべて捨てた状態になります。憤り、悪い感情、憎しみ、ねたみ、そねみ、偽り、欺く心、さばく心、移り変わる心、姦淫、欲、私心、むさぼり、裏切る心がほとんど出てきません。
したがって、信仰の岩を越えると、わざわざ悪を行ったり、みこころに逆らおうとしたりしません。ただ、自分で悟れなかったり、悟っても簡単に捨てられない肉の分野が残っています。それでは、信仰の岩を過ぎて、御霊の歩みにすみやかに入ろうとするなら、どうすべきでしょうか?


第一、自分が正しいと思う「錯覚」を捨てて、自分の義と枠を打ち砕かなければなりません。

信仰の岩の上に立つと、うわべで見る時は、特に指摘するほどの悪が現れません。祈りをやめるのでもなく、目立つほどの真理に逆らう行いをしないのです。みことばに目につくほど聞き従わなかったり、使命を果たすことがつらいと思ったりもしません。みことばに引っかかるほどのことをあまり発見できないので、「これくらいなら、私も御霊の歩みに入ってきたのでは」と思うこともあります。
しかし、これはどこまでも自分の思いです。自分は聞き従っていると思っていても、神がご覧になる時はそうでないこともあるし、「善」でない姿もあります。肉の思いも100%捨てられた状態ではありません。かといって、悪い思いをするのではありませんが、自分が見てもっと正しいと見えるものが残っています。ですから「自分」を主張したりもします。
たとえば、まだ信仰が弱くて熱心にできない人に、かしらの人が「なんで忠実に仕えないんですか。なんで祈らないんですか」と指摘して責めます。そうしながら、自分は当然教えることを教えて、真理に照らして正しいことを言ったと思います。しかし、責められた人がつらくなって気を落とすということに問題があるのです。「アーメン」と受け入れられるならよいでしょうが、そうできなくて、むしろつらくなって気を落とします。
ところが、かしらの人が「なんで喜びと感謝をもって受け入れられないんですか」とまた指摘します。目上の人は真理に照らして間違ったことを言ったのでないので、自分の勧めを受け入れられない相手にすべての問題があると思います。自分は間違っていると全然思えなくて、正しいと思います。
これがまさに「自分の義と枠」と言えますが、これを信仰の三段階で集中的に打ち砕いてこそ、御霊の歩みに入れるのです。自分の義と枠は自分が見て確かに正しいと思うものなので、何が間違っているのかを発見するのがやさしくありません。さらに真理で作った義と枠は、みことばに照らしてみても間違っていないので、もっと悟りにくいのです。それで「錯覚」するのです。問題は、自分をありのまま認めないということです。もし「私に当たるみことばではないだろう」と思ったなら、相変わらず錯覚の中にとどまっているしかないのです。


第二は、長い間習慣のように固まった「肉の欠如」を悟って、満たさなければなりません。

肉の欠如は範囲も広くて、形態も多様です。軽い肉の欠如もありますが、死に至る罪にまで発展するほど深刻な肉の欠如もあります。しかし、ここで扱おうとするのは、長い間習慣のように固まって、自分でよく悟れないし、悟れても直しにくい肉の欠如です。
たとえば、ドアをバタンと閉めたり、ドアを開けっ放しにして出ます。人と一緒に食事をする時や目上の人の前で食事をするとき、クチャクチャと音を立てて食べたり、こぼしたりします。足音を大きく立てながら荒っぽく歩いたり、他の人が見ても見苦しいほど、おかしな歩き方をする人もいます。
団体生活をする時も、他の人に先に仕えたり、気を配ったりする行いが欠けています。どこに行こうと、いつも散らかして片づけません。物を使ってから元の場所に置かないで、どこにでも置きます。約束をよく破ったり、習慣のように遅刻します。
相手の話に耳を傾けない態度や、目上の人が話をしているのに、とぼけて他のところを見ていること、相手の話をさえぎって自分の話だけしたり、相手に譲らないで相手の立場を理解してあげられないことも、すべて肉の欠如です。
ある人は育った環境の中でいつも「自己中心的」に生きてきたので、自分の立場から話をして行動しても悟れません。意図的にやろうとしているのではないのですが、言葉や行動には欠けている姿が出てきます。
この他にも、立ち居振る舞いや態度、話の仕方や姿勢などに、いろいろな肉の欠如が現れます。このようなものが御霊の歩みに入るのに障害物になります。主の教育をうんぬんする前に、世でも基本的な教養に属することですが、意外に多くの人に基本的な素養が欠けています。
それでは、肉の欠如はなぜ起こるのでしょうか?
まず「知識の欠如」のため起こります。育ちながら当然学ぶべきことを知識として学べなかったからです。家庭でしつけをちゃんと受けられなかったか、人としてすべきことや礼儀に関する知識を学べなかったのです。自分が持っている知識の限界の中で、自分のものだけが最高だと主張することも、知識の欠如から来る肉の欠如です。このように知識そのものがないので、当然、行いでも欠けている姿が出てきます。このような場合は、欠けている姿を見つけて、それに関する知識を一つ一つ学びながら行えばよいのです。
次に「行いの欠如」のため起こります。聞いて学んだけれど、行いはしなかった結果なのです。たとえば、寝る前には必ず歯を磨かなければならないと教わりました。それでも数年間行わなかったとすれば、寝る前に歯を磨かないことが習慣のように固まってしまうのです。同じように、聞いて学んだのに、自分の好きなように行ってきたことが積み重なって、結局、肉の欠如を生んでしまったのです。
肉の欠如が個人の問題で終わるなら、御霊の歩みに入れない理由の一つとしてあえて挙げる必要がないでしょう。ところが問題は、肉の欠如が周りの人を困らせて苦しめ、多くの人の徳を高めないし、恵みを与えないということにあります。肉の欠如があって相手に礼儀に反することをしたり、つまずかせてはいけないでしょう。また、神の働きをもっとうるわしく進めていけるのに、肉の欠如によって制限されたりもするのです。


第三は、さばいて罪に定めることがないように、霊的な「高ぶり」を捨てなければなりません。

これは表に現れる肉的な高ぶりではなく、「霊的な高ぶり」のことです。知識としてたくさん知っているから起きる高ぶりなのです。
たとえば、みことばと霊的な公義について多くのことを聞いて、あまりにもよく知っています。また、牧者についても、自分なりに長い歳月見て聞いて学んだので、よく知っていると思います。教会の働きを処理していくことにおいても、どうすべきかノウハウを知っていて、それによって「てきぱき」処理していきます。教会の秩序も知っているので、どんなルートを通して働くべきで、あることは誰を通してすべきかもよく知っています。このくらいになれば、教会の働きであれ、個人のことであれ、いくらでも見分けられると思いますが、それがたまにさばいて罪に定めることになることがあります。
こんなことがしょっちゅうあるのではありませんが、結局は高ぶりから始まるのです。知識としてだけたくさん知っているから問題なのです。自分なりに熱心に忠実に仕えて、神と牧者を愛して走って行きますが、知識として知っているのに比べて行いが伴わず、欠けている姿が出たりもします。
たとえば、自分がしたいことは熱心にしますが、自分がやりたくないことはやらないようにします。自分が言いたくなければ言わないで、自分がしたくないことは犠牲になって献身するよりは、避けようとします。これは秩序に従う心ではないので、すべて高ぶりから出る姿と言えます。<箴言18:12>に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。それほど高ぶりは自ら戒めに戒めなければなりません。
もちろん、信仰の四段階に近いほど、深い悪の根をほとんど引き抜いて捨てたので、高ぶりが大きい悪として出てきません。しかし、いくらささいで小さいことでも、その根が残っていれば、結局再び育ちます。ですから、いつも自らを戒めて、ほんのわずかな高ぶりでも、完全に引き抜かなければなりません。秩序に完全に従うことはもちろん、自分が知っていることで簡単に見分けようとしてもいけません。謙遜と仕えと犠牲、配慮の心にならなければなりません。自分の心にある細かい肉の分野まで発見して、完全に引き抜いて捨てて、すみやかに御霊の人になりますように。


* まとめと適用

1. 信仰の岩の上に立っても、すみやかに御霊の歩みに入れない理由は何でしょうか?

第一、----------------------------------------------------------

第二、----------------------------------------------------------

第三、----------------------------------------------------------

2. 肉の欠如はなぜ起こるのでしょうか?

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* 今週の課題

次回からは信仰の四段階について学びます。四段階に入れば、どんなことが違ってくるでしょうか? 今までに聞いたメッセージを思い出してみましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!

「肉の欠如」とは?
人が成長しながら経るべき過程をまともに経なかったことによって、普遍的に備えているべき力が足りない状態をひっくるめて言う。人は生まれて成人になるまでは、幼児期、児童期、青少年期などを経ながら、普遍的に体得していく過程がある。この過程を正常に経られなければ、知的な能力、行動能力が欠如したり、情緒的に他の人と非常にかけ離れた感情を持つようになる。

 
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