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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   御霊の実(3)- 平安  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-05-28


読むみことば: ガラテヤ5:22-23
覚えるみことば: ヘブル12:14
参考にするみことば: ローマ12:18
教育目標: 神が喜ばれる霊的な平安とその実を結ぶ方法について知るようにする。

神を信じると言いながら、自我が生きているなら、平安でいることができません。自分の考えのほうが正しいと判断されれば、相手の意見を無視して礼儀に反する行いをします。多くの人が賛成して決定したことでも、自分の利益と合わなければ、つぶやいて恨みます。また、人の短所を見て、引き降ろすことも言って、良くない話を伝えて、争いを引き起こします。このように平安を乱す人がいる所には問題が起こって、試練、患難がやって来ます。家庭、学校、職場、教会やどこででも、平安が乱されれば祝福の通路が詰まって、困難なことが起きるはずです。


1. どこの誰とも引っかからない平安の実

<ヘブル12:14>に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。ここで「平和を追い求める」とは、たとえ自分が正しいとしても、相手に合わせることができ、自分の信仰が大きくても、信仰が小さい人の心に余裕を与えることです。そのような人の心は、真理にあってあれもこれも正しいという融通のきく心であり、すべての人の利益を追い求める、偏らない心です。また、自分を目立たせたり相手の短所を見ないので、どこの誰とも引っかからない心です。
神の子どもたちならば、夫婦、兄弟、親子、隣人との間はもちろん、すべての人とも平和を追い求めることによって、平安の実を結ばなければなりません。自分を愛している人だけでなく、自分を憎んで苦しめる人とも同じです。平安が乱された所には神が働かれることができず、敵である悪魔・サタンに訴えられる種を渡すだけです。それで、神の国のために忠実に仕えて実を結んだとしても、平安のうちに行われたのでないなら、神に喜ばれません。


2. 平安の実を結ぶには

 1)神との間が平安でなければなりません。
神との間が平安であるには、何より罪の壁があってはなりません。最初の人アダムは神の命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べた後、神を避けて隠れました。前はあまりにも近くて親しかった神が、不従順の罪を犯したので、恐ろしくて遠く感じられるようになりました。罪によって神との間が平安でなくなったからです。
私たちも、真理にあって行う時は、神と平安であるので、何でも大胆に求めることができます。もちろん、完全に平安であるためには、心の罪と悪をすべて捨てて聖められなければなりません。しかし、まだ完全ではなくても、それぞれの信仰の量りに応じて熱心に真理を行うとき、神は平安を保っていると見てくださいます。
ところで、真理にあってでなければなりません。親子の間に、夫婦の間に、友だちとの間に、職場の同僚との間に平安をもたらすといって、肝心の神との平安を乱してはいけません。もし信仰のない家族と平安に過ごすために偶像を拝んだなら、しばらく平安を保ったようですが、これは神の御前に大きい罪の壁を作ることです。家族や友だちの結婚式のために主日を守らないことも同じです。人と平安を保つために神との平安を乱すことは決してあってはなりません。

2)自分と平安でなければなりません。
自分と平安であるためには、悪はどんな悪でも捨てて聖められなければなりません。心に真理に逆らうものがあれば、良くない環境に出くわしたとき、悪が動き出して、心の平安が乱れてしまいます。自分が願うように事がうまく進む時は心が平安であるようでも、何かの環境と条件が悪と結びつけば、すぐ平安が乱されてしまうのです。どんな環境と条件の中でも、私たちが真理を選ぶとき、心に平安をもたらすことができます。
ある人は熱心に真理を行っているというのに、心にまことの平安がありません。その理由は何でしょうか? 真理の中で間違って作られた自分の「義」と「枠」によって、自分と平安でないからです。「自分の義」とは、自分が見て正しいことを言い張ることで、「自分の枠」とは、自分が正しいと感じることがしっかり固まったものです。
たとえば、訓練を受ける前のヨブのように、熱心に祈りもして、みことばどおり生きようと努力しますが、神を愛する心でそうするのではなく、懲らしめられるのではないかと怖くて行うのです。こういう人たちは信仰の成長が停滞したり、顔から喜びが消えてしますのです。結局、自分の義と枠のためにつらくなります。
このような場合は、行いそのものに執着するよりは、神を愛する心になるためにさらに努力しなければなりません。神を心から愛してその愛を悟るほど、平安を味わうことができます。
また、ある人は真理のとおり行っているのに、否定的な思考の枠によって自分と平安でいられないのです。真理のとおり行いますが、満足するほどの結果がなければ、自分を責めるのです。「私はなんでこうなんだろう」と気を落として申し訳なく思います。
このような人は「霊的な子ども」にならなければなりません。親の愛を信じる子どもは、過ちを犯しても、怖がって隠れません。もっと愛嬌を振りまきながら、お母さんのふところに飛び込んできます。自分がまだ完全でなくても、変えられるために努力すれば、神が自分を愛して完全にされるということを信じなければなりません。
訓練を受けて徹底的に低くなる時も、もっと高めてくださる神により頼むのです。今すぐ人に認められようと焦る必要がありません。神の御前に真実の心と行いを積み続ければ、自分と平安であるので、霊的な大胆さが湧いて来るものです。

3)すべての人との間に平安をもたらさなければなりません。
すべての人との間に平安をもたらすには、自分を犠牲にしなければなりません。相手のために自分を犠牲にしますが、いのちまで与えるべきです。「私にとって毎日が死の連続です。」と言った使徒パウロのように、自分のもの、自分の立場、自分のスタイル、義と枠にこだわる自我がなくてこそ、すべての人との間に平安をもたらすことができます。
次には、自分の義と枠を押しつけてはなりません。人それぞれ持って生まれた性分と育った環境が違います。教育を受けた内容も、信仰の量りも違います。それで、人によって正しい正しくないの基準が違って、良い悪いの基準も違います。Aは正しいと言っても、Bは正しくないと思うこともあります。
互いに自分の立場だけ言い張っては、平安でいられません。自分の立場、自分の基準に合わせずに、相手の立場で考えて仕える時でこそ、平安をもたらせるのです。神と平安であって、自分とも平安である人なら、人とも平安を乱しません。すでに自分の欲と高ぶり、自尊心を捨てたはずで、自分の義と枠も打ち砕いたはずだから、誰かと引っかかることも、争うこともないでしょう。もし相手が悪くて、平安を乱そうとしても、仕えて犠牲になるので、平安をもたらすようになるでしょう。
ところで、平安をもたらす過程で悟るべきことがあります。「私のほうでは引っかかることもなくて平安なのに、あの人が平安を乱している」と思うとき、本当に相手のせいなのか、ということです。わざとではないけれど、自分が平安を乱す原因を提供しておいても、悟れないこともあるのです。知らないうちに相手に配慮できなくて、賢くない言葉や行いで相手の感情を傷つけたのです。
こんな時、自分の立場だけで考えて「私は相手に引っかかることがない」と言い張れば、結局、平安がもたらされないのです。自分を発見して変えられることもできません。相手の立場から見ても、自分が平安をもたらす人に見えるのか見極められてこそ、本当に平安な関係が作り上げられるのです。


3. 平安の実を結んだ人が受ける祝福

神と平安であって、自分自身とも平安であって、すべての人と平安でいられる人には、闇を退ける権威が伴います。それで、周りにも平安をもたらすことができます。<マタイ5:9>に「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」というみことばどおり、神の子どもとされた特権、光の権威が伴うのです。
ここで「神の子ども」とは、救われた人のことですが、さらに神が認められるまことの子どもを意味しています。私たちが神の御前になだめの供え物になられたイエス様を見ならって、自分を犠牲にして平和をつくるとき、神の子どもと呼ばれて、霊的な権威と力が臨むのが見られます。
したがって、すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めて、どこにでも平安をもたらす神のまことの子どもに変えられて、新しいエルサレムの栄光を思う存分味わいますように。


* まとめと適用

1.真理にあって平安であるとは、どんなことでしょうか?

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2.平安の実を結ぶための方法で間違っているものを選んでください。
①神との間が平安でなければならない。
②神を信じない家族と平安を保つために偶像を拝む。
③自分と平安でなければならない。
④すべての人との間に平安をもたらさなければならない。

3.平安の実を結んだ人に、どんな祝福が臨むでしょうか?

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* 今週の課題

次回は御霊の実の「寛容」を学びます。愛の章の「寛容」を復習してきましょう。


* 知って力にしましょう!

「善悪の知識の木の実 & いのちの木の実」
エデンの園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がある。この二本の木の実は形や色が違っていて、はっきり区別できるが、大きさは二つともメロンくらいの大きさである。善悪の知識の木は桃と似た形で、ピンク色を帯びている。そして、いのちの木の実はりんごと似た形に赤みを帯びている。真っ赤ではなく、やや赤みを帯びた美しい色である。神はエデンの園のすべての果物を食べるように許されたが、ただ善悪の知識の木からだけは取って食べないように命じられた。ところが、アダムとエバがこの命令に背いて食べたので呪われた。

 
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