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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第13課「潔白」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2014-04-14


読むみことば: マタイ12:18_21
覚えるみことば: マタイ12:20
参考にするみことば: ヨブ1:20_21
教育目標: いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともないイエス様のように潔白な心になって、すべてに栄える祝福を受けるようにする。


私たちがこの世の中を生きていると、いろいろな困難にあったりもします。その中には、心が潔白でなくてつらいことにあう場合が多いです。ところが、心が潔白な人はむなしいことを追い求めないで、自分の心を守り、聖であることを追い求めて、自分のすべきことを忠実に果たします。したがって、潔白な者になれば、天から知恵を授かるだけでなく、すべてのことに栄える祝福を味わえます。



1. 「潔白」の霊的な意味

人はうわべの姿を見て判断しますが、神は人の心を探られる方なので、誰の心が良いか悪いかを正確に知っておられます。このような神がヨブの心をご覧になると、潔白でした(ヨブ1:1)。
「潔白」の辞書の意味は「心や行いがきれいなこと。後ろ暗いところがないこと。また、そのさま。」です。潔白な人は温和でやわらかくて、言葉や行いに徳があります。たとえ害になることにあっても、悪をもって悪に報いないで、すべてを善をもって受け入れます。したがって、「潔白」の霊的な意味は「行いで柔和を現すこと」だと言えます。
ヨブは東の人々の中で一番の富豪と言われるほど、物質と名誉、子どもと健康など、多くの祝福を味わっていました。ところが、ある日、災難によってすべての財産と子どもを失ってしまいました。このような状況でもヨブは神を恨まないで、むしろ立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝します(ヨブ1:20)。
このようにヨブはすべてのことに罪を犯さないで、神に向かって愚かなことに恨まないで、潔白を堅く守りました。そんなヨブだったので、神も彼を認めて「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。」(ヨブ2:3)と言われたのです。
ところが、ヨブ記を読んでみると、ヨブが悪性の腫物で激しい苦しみを受けると、自分の生まれた日をのろって、友だちと論じるのが見られます。それでは、なぜ神は悪があるヨブを潔白だと言われたのでしょうか? 当時は聖霊が来られる前の旧約時代なので、律法にはずれる行動をしなければ、罪とみなしませんでした。ヨブは行為で罪を犯さなかったし、孤児とやもめを顧みる善行をたくさん積んだので、「潔白だ」と言われたのです。
しかし、神は、行為でだけ罪を犯さないことで終わるのではなく、心の中にある罪の性質まで完全に捨てることを望んでおられます。つまり、心に割礼をして、本性の中の悪まで捨ててこそ、霊的な意味の潔白な人になれるからです。



2. 潔白な人になろうとすれば

[マタイ12:19_20〉から、イエス様がどれほど潔白な心を持っておられたのかわかります。「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」とあります。
私たちもイエス様のように潔白な人になろうとすれば、どうすべきでしょうか?

第一、いたんだ葦を折ってはいけません。
木や草花を育てるとき、いたんだ葉や枝があれば、切って捨ててしまいます。このように人々も、自分にとって益にならないで害を及ぼす人がいれば、無視したり折ってしまおうとしたりします。しかし、イエス様はいくらいたんだ葦のような人だとしても、折らないで、いのちを与えようとされました。
それでは、いたんだ葦とはどんな人のことを言うでしょうか? それは「世の罪と悪で満ちている人」のことです。イエス様の行う善を見ても、悪をもって立ち向かう人々なのです。イエス様はこのような人も捨てないで、真理をもって悟らせてくださり、変えられるまで耐え忍ばれました。また、病気にかかったかわいそうな人々も捨てないで、最後まで愛して救おうとされました。潔白な人は、悪で満ちている人だとしても憐れんで、何としてでもいのちを与えようとするのです。

第二、くすぶる燈心を消してはいけません。
くすぶる燈心を人にたとえるなら、「心が悪でひどく染まっていて、そのたましいの明かりが消えていく人」のことです。このように霊的に生き返る可能性がなく、すべてをあきらめる状態になった人であっても、イエス様はあきらめないで、最後までいのちを与えようとされました。イスカリオテ・ユダがイエス様を売ることを知っておられながらも、最後までともにおられ、変えられるように寛容を尽くして待ってくださいました。
また、イエス様を十字架につけてあざけった人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と代わりに赦しの求めをささげられました。とうてい赦されない悪い人々であっても、あきらめなかったのです。
私たちにもイエス様のように最後まで愛をもって導ける寛容の心が必要です。くすぶる燈心を消さない心とは、すなわち、御霊の九つの実の中の寛容の実と同じです。霊の愛で希望をもって信じて期待し、最後まで寛容を尽くして導くからです。
一般に人は、親や子どもであっても、自分に大きい害を加えて恥をかかせれば、くすぶる燈心のように消してしまいます。しかし、最後まであきらめないで、彼らのために祈っていくことが潔白な心であり、神がご覧になって全き心なのです。

第三、争うこともなく、叫ぶこともしてはいけません。
イエス様はとうてい赦せないことにあっても、争ったり叫んだりされませんでした。悪い者たちはイエス様をねたんで、あらゆることで謀略して殺そうとしましたが、対抗して争われませんでした。ただ善の知恵をもって彼らを悟らせてくださり、避けるべき場は避けられました。また、十字架の救いの摂理を成し遂げるために、裁判を受けられる時も黙っておられました。
私たちが信仰の少ない時は、自分の思いと心に合わないことが起きれば、憤ったり語気を強めたりもします。もし争いが起きたとすれば、その原因は自分にあるのです。自分が相手をいだけない小さい器であり、ぶつかれば音がするしかない自分の義と枠があるからです。ですから、心の悪を早く脱ぎ捨てなければなりません。
イエス様は叫ぶこともせず、すべての行いがまことに聖であり、きよいものでした。イエス様は人としてはできない驚くべきことを施されたので、いくらでもご自分を叫んで、自慢できました。しかし、イエス様は誰かが認めてほしいと思われませんでした。ご自分を叫ばないで、ただへりくだって行われて、神に栄光を帰されました。
私たちも自分がしたことを誰かが認めてほしいと思って、自分を叫びたがるのではなく、ただ神に栄光を帰さなければなりません。そうすれば、すべてのことをご存じの神が善の行い、良いことが現れるように働かれます。



3. 潔白な人が受ける祝福

アブラハムは心が潔白で、すべての行いが完全で、神に愛されていました。誰にも害を及ぼしたり悪によって報いたりしませんでした。すべてを善をもって解決しながら耐え忍んだので、神が喜んで祝福されたのです。
アブラハムとおいのロトの持ち物が多くなって、彼らの牧者たちが互いに争った時も、アブラハムはどうしたでしょうか? おじなのにおいに譲って、自分の利益を求めてより良いほうを選んだおいに、むなしい心やわだかまりを持ちませんでした。また、ロトが捕虜としてとらえられて行くと、むしろ危険をおかして救ってくるのが見られます。
このようにアブラハムは争ったり叫んだりせず、自分の利益を求めないで、神の御前で潔白に行ったので、損をするどころか大きい祝福を受けました。結局、アブラハムは神から信仰の父、神の友と呼ばれたのです。
私たちも心が潔白で、いたんだ葦を折らないで、くすぶる燈心を消さず、争ったり叫んだりしないなら、多くの人を心にいだけて救いの道に導くことができます。そうする時でこそ、信仰の父アブラハムのようにすべてに栄える生き方ができ、天国で偉い人と言われるということを覚えておかれますように。



*まとめと適用

1. 霊的に「いたんだ葦」とはどんな意味でしょうか?

____________________________________________________________________________

2. 霊的に「くすぶる燈心」とはどんな意味でしょうか?

____________________________________________________________________________

3.潔白な人になろうとすれば、どんな心を持たなければならないでしょうか?
第一、(     )を折ってはいけない。
第二、(     )を消してはいけない。
第三、争ったり(     )してはならない。


* 今週の課題

今までにみことばに聞き従って祝福されたことがあるでしょうか? 逆に、聞き従わないで苦労したことがあるでしょうか? 互いに分かち合えるように考えてきましょう。



*「用語」を知って力にしましょう!

「寛容」
霊的な寛容は、悪をもって我慢するのではなく、善をもってすべてを受け入れることである。寛容の実を結べば、どんな人も理解して抱いて何のわだかまりもないので、「寛容である」とか「赦す」とかいう言葉そのものが必要ない。善をもって寛容であろうとする時は、つらいことも希望をもって感謝して勝ち抜き、結果的にさらに広くて大きい心になる。一方、悪をもって寛容であろうとする時は、恨みが積もって病気になったり、ますます性格が荒っぽくなったりする。
第一コリント13章の愛の章に記されている「寛容」は「愛を心に耕すための寛容」のことを言う。ガラテヤ5章の御霊の実として記されている「寛容」は「すべてに対して寛容を尽くすこと」で、第一コリント13章の「寛容」より次元がさらに高い。

 
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