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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第10課「主よ。私をお助けください」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2014-07-18


読むみことば: マタイ15:24-28
覚えるみことば: ローマ1:17
参考にするみことば:第一サムエル21章、第二列王25章
教育目標:自尊心のない正しくへりくだった心になって、何でも答えられる幸いな聖徒になるようにする。

自尊心とは「自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。プライド。」という意味です。神は私たちがへりくだった心で相手に仕えて愛することを望んでおられます。ところで、自尊心を押し出して滅びる人がいるかと思えば、かえって自尊心を捨てて尊く思われる人もいます。ダビデ王は神の御前や人の前でへりくだった人だったので、この地上ではもちろん、天国でも偉い人になることができました。



1.自尊心を捨てることでいのちを救ったダビデ

ダビデはペリシテの最高の勇士ゴリヤテを倒してイスラエルの英雄になり、戦えば百戦百勝でした。ですから民に大いに愛されていたのです。これをねたんだサウル王は兵士を動員して、ダビデを殺そうとまでしました。するとダビデは非常に恐れて切羽詰まり、ペリシテのガテの王アキシュのところへのがれます(第一サムエル21章)。
ペリシテはイスラエルの敵国であり、「ガテ」という町はダビデが殺したゴリヤテの故郷でもありました。アキシュ王の家来たちは自分の国の最高の戦士を殺して、兵士たちを数えきれないほど殺したダビデをその場で片づけるべきだと言います。事態の深刻性に気づいたダビデは彼らの前で捕らえられて気が違ったふりをして、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりまでしました。
ダビデのこのような行動を見て、アキシュ王は「なぜ、私のところに連れて来たのか。私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。」と追い出してしまいます。まかり間違えば死ぬかもしれないところで、ダビデは自尊心を捨てて、いのちを救いました。後日、ダビデは王になって、ペリシテを完全に屈服させてみつぎものを納めるようにし、堅固な統一王国を作りました。
もし皆さんがダビデのような状況にあったなら、どう行動したでしょうか? 自尊心の強い人は「死んでもそうはできない」と言うかもしれません。ダビデは自尊心を捨てていのちを救い、後日を期しました。これを通して、はたして自尊心が価値あるものなのか、自尊心を押し出すことが本当に正しいことなのか、よく悟りますように。



2.自尊心を押し出して惨めに死んだゼデキヤ

南ユダ王国、最後の王ゼデキヤはどうだったでしょうか? バビロンに支配されていたユダは二度にわたって強大国バビロンに侵略されて、風前の灯火でした。反乱を起こす可能性のある賢い身分の高い人たちはすべてバビロンへと捕らえられて行き、平凡で無力な民だけがユダに残りました。この時、ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に呼び出され、国政を報告し、みつぎものを納めて戻ったこともあります。
ところが、ゼデキヤ王はエジプト王パロと秘密のうちに同盟関係を結んで、バビロンを裏切るまでになってしまいます。すると、預言者エレミヤがバビロンに降伏することが神のみこころだと伝えますが、ゼデキヤ王はこれを恥として、預言者を監視の庭に監禁してしまいます。ゼデキヤ王は何の力もないのに自尊心だけを押し出して、結局バビロンの三度目の侵略にあってしまいます。
エルサレムはバビロンに何と一年七か月の間包囲されて、町の中の補給物資が完全に途切れて、食糧も尽き、人々は飢えて死んでいきました。その上、バビロン軍が町を破って入ってきて、ゼデキヤとすべての戦士は夜の間に逃げて、結局捕えられてしまいます。ついにエルサレム神殿は火で焼かれ、完全に陥落してしまいました。
バビロン王は裏切ったゼデキヤの子たちをその目の前で虐殺し、ゼデキヤの目をつぶしました。そしてバビロンへ連れて行って、死ぬ日まで牢に閉じ込めました。ゼデキヤ王は自尊心を押し出して、自分だけでなく国も滅びるという悲惨な結果を招きました。ですから、自尊心のゆえに自分を低くできないことがどれほど愚かで自分を滅ぼすことなのか、悟るべきでしょう。



3.へりくだった心で答えられたスロ・フェニキヤの女

イエス様がスロ・フェニキヤの地方に行かれた時のことです(マタイ15:21-28)。汚れた霊につかれた娘のいる外国の女がイエス様のみもとに来て、自分の娘から悪霊を追い出してくださるように願いました。女は「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげて言いました。
この時、イエス様は意外な反応を見せられました。一言もお答えにならないで、黙っておられるのでした。女が叫び声をあげ続けると、弟子たちがみもとに来て「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言うほどでした。
その時はじめてイエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われるのでした。女はイエス様の前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と願います。ところが、イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言って、外国の女を小犬にたとえられるのでした。
他の人なら、小犬扱いされたと自尊心が傷ついて、帰ってしまったでしょう。しかし、女はあんまりだと思わなかったし、自尊心が傷つけられたという心そのものもありませんでした。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言って、へりくだった心で最後までイエス様に求めたのです。すると、イエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われ、彼女の娘はその時からいやされました。スロ・フェニキヤの女は自分を徹底的に低くして、信仰のテストに立派に通って、心の願いがかなえられたのです。



4.正しい心から出てくる信仰の告白

スロ・フェニキヤの女が「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言ったのは、ひたすら娘をいやそうという一念からであって、無理に憤りを抑えたり、自分に有利なほうに計算したのではありません。女の心が正しくてへりくだっていたので、イエス様が予想もしないことを言われた時も、善なる信仰の告白ができたのです。一瞬知恵を働かせて「こう答えてイエス様の心を買おう」と思ったのではありません。心にある善と謙遜がそのまま出て来ただけなのです。
私たちも神に答えられようとするなら、高ぶりを捨てて、心を無にして、仕える者の姿をとったキリストの心に似せられなければなりません。悪に悪を報いることをせず、善をもって報いて、肉の心を完全に捨てて御霊に属する心、正しい心を持たなければなりません。そうすればどんな問題でも答えられることができて、信仰によって行うすべてのことに邪魔するものがありません。
(ローマ1:17)に「義人は信仰によって生きる。」とあるように、スロ・フェニキヤの女はその心がへりくだっていて正しかったので、最後まで信仰の告白をして答えられることができました。そのような心になれば、どんな問題にぶつかっても信仰の行いが出てくるので、神の驚くべきみわざによって心の願いに答えられるようになります。
信仰とは信頼することであり、その信頼に変わることがなく、また聞き従うことです。スロ・フェニキヤの女はイエス様について聞いたとき、それを信じてイエス様を信頼しました。また、イエス様がどんなことをされても言われても揺るがず、変わらない心で信じました。
それでは、従順はどのように現れたでしょうか? イエス様が「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われると、女は「主よ。そのとおりです。」と答えました。イエス様を信頼しているので、あんまりだと思ったり自尊心が傷つけられたりしないで、へりくだって肯定の告白をしました。それとともにイエス様を感動させる言葉を口に出したので、神の驚くべきみわざを体験できました。
このように正しくてへりくだった心で神に喜ばれる信仰を見せれば、何でも答えられることができます。多くの人がこの世の富と名誉、権威などを得るために汗を流して苦労しています。まして神の子どもたちは永遠のいのちと美しい天国を所有するために、どう生きるべきでしょうか? 自尊心を徹底的に捨てて低くなり、へりくだった者になって労苦して忍耐しなければなりません。高くなって仕えられようとする心、自慢したい心、自分の利益を求める心、さばいて罪に定める心、比べる心などを完全に捨ててこそ、神に求めるものはみんな答えられて、思いきり神の子どもとされた祝福を味わうようになるのです。




* まとめと適用

1.ダビデをねたんで兵士を動員して殺そうとするサウル王を避けて、ダビデが逃げた国はどこでしょうか?(         )

2.ダビデは自尊心を捨てて、王の前でどんな行動をしたでしょうか?

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3.私は誰でしょう?(         )
「南ユダ、最後の王であって、預言者エレミヤがバビロンに降伏しなさいという神のみこころを伝えたのに、自尊心を押し出して滅びました。」

4.イエス様がスロ・フェニキヤの女を小犬扱いされたとき、女はどんな心と行いでイエス様のみもとに出てきたでしょうか?

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* 今週の課題

目の前に衣食住の問題が立ちはだかっているとき、思い起こすべき聖句は何でしょうか? どこの何章何節にありますか? 次回までに調べてきましょう。



* 「知って力にしましょう!

「スロ・フェニキヤ」
フェニキヤは北アフリカにもあったが、ここではパレスチナの北部シリヤ地域のフェニキヤを指している。スロ・フェニキヤとはローマに支配されている「シリヤのフェニキヤ」という意味である(マルコ7:26)。<マタイ15:22>には、スロ・フェニキヤの女が「カナン人の女」と記されているが、これはカナンがフェニキヤの過去の名前だったからだと思われる。

 
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