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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第1課「心の貧しい者は幸いです」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2012-10-26


読むみことば: マタイ5:3
覚えるみことば: マタイ5:3
参考にするみことば:第一ヨハネ2:15-16
教育目標:「心が貧しい」というみことばの霊的な意味を知って、天国を所有する祝福をいただけるようにする。

世の人々は、富んでいて名誉と権勢があり、子どもたちが親孝行で、健康で、家族が仲むつまじければ幸いであると言います。ところが、このような「幸い」を全部味わう人がどれほどいるでしょうか。財産が多くても、健康を失って心配し、名誉と権勢があっても、家庭が不和で心が穏やかでありません。また、不慮の事故にあって惨めな生き方をしている人もいます。
仮に一生富と誉れを味わいながら生きたとしても、死ねば何も持って行けないのが私たちの人生なのです。永遠の天国に入る備えをしないで、この地上で食べて飲んで、良い暮らしをすることにだけ人生の目標を置くなら、恐ろしい地獄に落ちてしまうのです。ですから、この地上での「幸い」が何の役に立つでしょうか。
まことの幸いとははたして何でしょうか?マタイの福音書5章に記されている「八つの幸い」を中心に調べてみましょう。



1.心が貧しい者とは?

[マタイ5:3]に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあります。この世で貧しいことが好きな人はいないでしょう。当然豊かなことがいいと思うでしょう。ところが、なぜ神は貧しい者が幸いであると言われるのでしょうか?
ここで「貧しい」とは、お金がなくて貧しいという意味ではなく、心が貧しいことを意味しています。そして、心が貧しいとは「悪のない良い心で、何の欲もないので自分を捨てることのできる心の状態」のことです。
このように心が貧しい人は心を満たす御霊に属することを慕うので、福音をすぐに受け入れます。伝道してもすぐ受け入れて、みことばを聞けばそのとおり聞き従うので、救われやすいのです。
ところが、心が富んでいる人々は世の欲で心が満ちているので、伝道すれば断ります。「事業が忙しいです。勉強しなければなりません。お金を儲けなければなりません。後で暇になったら行きます」と言います。このように世の富、名誉、権勢でその目と心がぎっしりになっているので、神が生きておられる証拠を見せても信じようとしません。
ルカの福音書16章には、心が富んでいる金持ちと心が貧しい人ラザロが対照的に記されています。金持ちは良い衣服をまとい、良い物を食べて、毎日宴会を開くほど豊かに暮らしたので、心まで富んでしまい、神のことばのとおり生きませんでした。しかし、貧しい人ラザロは、たとえ金持ちの門前で物乞いをしながら、彼のおできを犬がなめるようなかわいそうな暮らしをしていても、心が貧しかったので神を信じました。
ところが、ふたりが死んだ後は立場が完全に変わりました。ラザロはアブラハムのふところに抱かれて、まことの平安と安息を味わいました。一方、金持ちは「下のよみ」に落ちて、熱い炎の中で苦しみを受けながら、ラザロの指先を水に浸して自分の舌を冷やしてほしいと哀願します。ですから、毎日宴会を楽しんでいた金持ちと、たとえ物乞いしながら生きていても神を恐れていたラザロのうち、まことに幸いな人はどちらでしょうか? 神を信じたラザロのほうなのです。
ある人は「心が貧しくなるには、ラザロのように貧しい暮らしをしなければならないのでしょうか」と質問するかもしれません。しかし、決してそうではありません。このたとえはラザロのように貧しい暮らしをしなさいという意味ではありません。永遠の後の世には、永遠のいのちと永遠の刑罰があるので、私たちが永遠のいのちを味わうためには、必ず貧しい心にならなければならないという意味です。
神は、貧しい心になってみことばどおり生きていく子どもたちに、この地上でも健康の祝福、物質の祝福、かしらとなる祝福など、すべてのことに栄える祝福を下さいます。また、どんな富と誉れとも替えられない、まことで永遠の祝福、すなわち、天国を下さるのです。



2.貧しい心になって天国を所有しようとするなら

1)肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を捨てなければなりません
[第一ヨハネ2:15-16]に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。私たちは世のものでいっぱいになっていた心を、父なる神の愛で、天国への望みで完全に満たさなければなりません。
そのためにはまず、肉の欲を捨てなければなりません。肉の欲とは、罪を犯そうとする心の属性です。すなわち「罪を犯したい心」です。心の中に憎しみ、憤り、欲、情欲、ねたみ、高ぶりなど、あらゆる悪があれば、罪を犯したくなります。
たとえば、初心の者がお酒をやめようと決心したとします。ところが、まだお酒を飲みたいという心を完全に捨てていないので、酒の席に行けば飲みたいという強い欲が起きます。このような肉の欲が人をあおって、お酒を飲もうとする心を持つようにして、お酒を飲むようにさせます。また、心にさばいて罪に定める罪の性質があれば、他人の噂を聞くのが好きで、他の人に伝えて陰口を言うのです。
次に、目の欲を遮断しなければなりません。目の欲とは、目で見て耳で聞くことを通して心が揺れ動き、肉に属するものを追求するようにさせる属性のことを言います。目があるから見て、耳があるから聞き、足があるから行くと言いますが、私たちが何を見て、何を聞いて、どこにいるのかが私たちの人生に多くの影響を及ぼすようになります。一度ふと見たものでも、何の意味もなく見て聞いたとしても、それが感じとともに入力されて、また思い浮かんだり、もう一度見たくなり、やりたくなったりします。問題は、このように見て聞いて接したものが罪に属するもの、闇に属するものであるということです。
たとえば、アダルトものを一度見たとしましょう。それが勉強を妨げて、もう一度見たくなります。このように目の欲は自分の中の真理に逆らうものを動かすので、肉の欲をかき立てる主犯になります。ですから、真理でなければ見たり聞いたりしてはいけないし、そんな所に行ってもいけません。
最後に、「暮らし向きの自慢」を捨てなければなりません。暮らし向きの自慢とは、現実のすべて享楽を追い、自分を目立たせるために誇る属性です。暮らし向きの自慢があれば、自分が持っているもの、富、名誉、権勢、才能、容貌、知識などを誇って、自分を目立たせたがります。
[ヤコブ4:16]に「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。」とあります。暮らし向きの自慢があれば、自分が持っているもので人を無視して侮る高ぶりが出てきます。これは貧しい心である仕え、犠牲、愛とはかけ離れた、心が富んでいる姿なのです。ですから、天国の美しさと望みはなく、この世のものがよりよく見えて、価値あるように感じられます。神の国のために忠実に仕えることもいやで、ただ教会にだけ行ったり来たりする「殻」の信者の信仰生活にとどまるのです。
もしかして、皆さんには自分を誇りたくて世のものへの欲はないのか、それとなく認められて高くされたがってはいないか、チェックしてみますように。神は、私たちが世の欲を捨てて心を無にするとき、天国の望みでぎっしり満たしてくださいます。

2)霊的な子どもにならなければなりません
[マタイ18:3]に「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とあります。霊的な子どもの姿は単純で純粋で、高ぶりません。良いことを教えてあげればすぐ受け入れて、自尊心や自分を言い張ることがなく、指摘されたり勧められてもすぐ認めます。間違ったことに対してすぐ悔い改めて、みことばどおり生きていこうと努めます。
しかし、世に染まって純粋さが消えてしまえば、罪を犯しながらも無感覚になり、指摘されて勧められても認めないし、ひどい場合は罪責感さえありません。主を受け入れた後も、神が嫌われる罪を犯して、救いの道から遠ざかったりもします。
また、霊的な子どもは善悪ともに敏感に反応します。良いことを見ればすぐ感動して涙を流しますが、悪は身震いするほど嫌います。神が悪と言われるなら心から嫌うようになり、何としてでも罪を犯さないように努めます。ですから、神が喜ばれて、聖霊を通してすみやかに変えられるように強くしてくださるのです。
このように貧しい心になるために、いつもへりくだって低くなり、みことばを通して自分の悪を発見し、火のような祈りで罪と悪を脱ぎ捨てなければなりません。そうする時でこそ、神に喜ばれるまことの子どもになって、よりすばらしい天国に入れるし、この地上でも富と名誉、健康、物質などの祝福をいただける主人公になれるのです。



*まとめと適用

1.「心が貧しい」というみことばの霊的な意味として、合っているものを選んでください。
①お金がなくて貧しいことを言う。
②心が貧しければ、福音を受け入れるのがやさしくない。
③「悪のない良い心で、何の欲もないので自分を捨てることのできる心」のことだ。
④心が富んでいる者が福音もよく受け入れる。

2.(     )の中に合う言葉を入れてください。
貧しい心になって天国を所有する祝福をいただこうとするなら、第一に(     )の欲、(     )の欲、(     )の自慢を捨てなければならない。
第二に、霊的な(     )にならなければならない。



*今週の課題

二つ目の幸いは「悲しむ者」への幸いです(マタイ5:4)。なぜ悲しむ者が幸いだと言われるのでしょうか? 次回までに祈りながら考えてきましょう。



* 知って力にしましょう!

地獄の待機場所である「下のよみ」
世の始めから救われないで死んだ人々が、地獄に落ちる前に刑罰を受けながらとどまる場所である。彼らは人間耕作が終わって、白い御座の大審判の後に、罪の重さに応じて、最後には地獄の火の池か硫黄の池に落ちる。

 
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