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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第8課「義のために迫害されている者は幸いです」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2012-12-28


読むみことば: マタイ5:10_12
覚えるみことば: マタイ5:10
参考にするみことば:マルコ10:30
教育目標:主のために苦しんで迫害されても、喜んで喜びおどって、天の大きい報いを受ける聖徒になるようにする。


[マタイ5:10]に「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあります。この世で迫害されたい人は誰もいないでしょう。ところが、イエス様は迫害されることがまことで永遠の幸いだと言われます。私たちが主のために自分のすべてを捨てただけ、永遠のいのちの祝福とこの地上でも祝福を受けるようになるが、迫害の中で受けるということです。[マルコ10:30]には、主とその福音のために家や家族や畑を捨てた人について「その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」とあります。
それでは、私たちが義のために迫害されるとはどういう意味でしょうか?



1.義のために受ける迫害とは?

私たちがみことばどおり生きて、真理と善を追い求めて生きていく時に受ける迫害を「義のために受ける迫害」と言います。信仰生活をまともにしないで適当に妥協すれば、迫害されません。しかし、[第二テモテ3:12]に「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあるように、みことばに従って生きていると、困難にあったり、わけもなく迫害されたりもします。
それでは、なぜ主を信じれば苦しみを受けるのでしょうか? これは水と油が一つになれないようなものです。なぜなら「神は光である」とあるとおり、主を信じてみことばどおり生きることは、霊的に光に属します(第一ヨハネ1:5)。ところが、私たちが生きているこの世の主人は暗やみの支配者である敵である悪魔・サタンです(エペソ6:12)。ですから、敵である悪魔・サタンは光の子どもたちを嫌うのです。
光が臨めばやみは消えるように、光である主を信じる聖徒が多くなるほど、暗やみの支配者ある敵である悪魔・サタンの領域が縮むようになります。ですから、敵である悪魔・サタンは自分に属する世の人々を操って、光に属する聖徒を迫害することで、主を信じないようにするのです。



2.信仰生活をしながら迫害される場合

1)義のために迫害される場合
聖徒が信仰生活をまともにし始めれば、いろいろな姿で迫害されたりもします。世にいた時は、友だちに会えば酒も飲んで、真理でない言葉と行動で付き合っていました。ところが、主を受け入れてからは、酒もやめて聖なる生き方をしようとするので、友だちとの間が遠くなり、聞くに耐えない言葉を聞くようになります。
職場で主日に体育大会や親睦会があれば、主日を守る聖徒は行けません。ですから、「そんなふうに会社生活をしたら昇進しにくい」とプレッシャーをかけます。福音化されていない家庭では、先祖を祭るとき、その前で手を合わせないからと迫害します。また、他の人々は適当にだますのに、神の子どもたちはみことばどおり正直に行うので、だまして自分の利益を求めようとする人々は嫌うのです。
世の人々は目上の人がいる時は仕えて機嫌を取りながらも、席を空ければ悪口を言って、自分の利益に従ってよく変わります。しかし、聖徒は真実に行い、自分の利益に従って変わりません。
世ではこのようなことが迫害の種になることもありますが、過ぎてみれば、会社でも人との関係でも、認められて愛されるのが見られます。つまり、善と愛をもって勝利していくので、迫害が退くしかないのです。また、迫害に打ち勝っていくので、信仰がさらに成長していき、周りの人々から尊重されるので、霊肉ともに祝福なのです。

2)自分の過ちや知恵が欠けているところによって迫害される場合
義を行って迫害される場合の他に、知恵が欠けていたり、本人の過ちのゆえに迫害される場合がたまにあります。全家を通じて忠実でなくて、周りの徳を高められず、非難されたり、困難にあったりすることもあります。
たとえば、女性聖徒が怠けて家の掃除や食事の支度をしておかないで、教会の働きで忙しくしているなら、迫害されるようになります。この時、家庭を顧みなかったことが問題なのに、いざ当事者はというと、自分が神の働きのゆえ迫害されていると錯覚するのです。
職場でも、教会に行くからといって、自分がすべきことを他の人に押しつけ、ミスが多くて不誠実です。そうしながら同僚を伝道するなら、むしろ神の栄光を遮るのです。「教会に行く時間に自分のことでもちゃんとしたら」と言われたりもします。
ですから、義のために迫害されているなら、感謝して喜んで勝利しますが、ひょっとして自分の欠けているところによって迫害されているなら、すみやかに直していかなければならないでしょう。



3.義のために迫害されている者は幸いです

[マタイ5:10]の「義のために迫害されている者は幸いです。」というみことばの意味は何でしょうか? 悪や不法によって受ける迫害は幸いや報いになりえませんが、義のために受ける迫害は天の御国がその人のものになれるので、幸いだということです。義のために迫害されれば、信仰が成長して神に大いに祝福されるだけでなく、よりすばらしい天国を所有することができます。
それでは、八つの幸いの一つ目の幸いである「心の貧しい人の天の御国」と、八つ目の幸いである「義のために迫害されている人の天の御国」とは、どう違うでしょうか? 前者が救われた人なら誰でも行ける包括的な意味での天国のことなら、後者は各人が義を行うことで迫害されたほど入れる、よりすばらしい天国のこと、より狭い意味での天国のことを言っているのです。
聖徒は世で迫害されるようになれば、それによって信仰がさらに堅くなります。迫害されながら喜んで感謝し、真理によって耐え忍んで、小さい者の信仰からだんだん若い者の信仰へ、父の信仰へと成長していくからです。苦しみを受ける前は知らなかった、心の深いところにある真理でないものまでも発見して捨てるので、柔和になって平和をつくることができ、敵をも愛せる主の心に似せられていくのです。
[第一コリント15:41]に「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」とあります。このみことばは、どれほど義を行って心を変えさせたかによって、よりすばらしい天国に入れるかを教えてくれているのです。



4.主のために受けた迫害

私たちが神のみことばどおり行って義を完全に実践したからといっても、すべての迫害がなくなるのではありません。「主のために受けた迫害」すなわち、神の国のために働き人たちが受ける迫害があります。
[マタイ5:11_12]に「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」とあります。
昔から数多くの信仰の人々は神のみこころを実現するために喜んで苦しみを受けました。誰よりも神の御姿であるイエス様は傷もしみもない方でしたが、罪人たちの刑罰をご自身で受けられました。救いの摂理を成就するためにむちで打たれ、あらゆるあざけりとさげすみにあって、十字架につけられて死なれたのです。
主のために多くの苦しみを受けて命までささげた使徒パウロは「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。」と大胆に告白しました(第二テモテ4:7_8)。
神は主のために迫害されて殉教した人々の忠実と労苦を決してお忘れになりません。満ちあふれる栄光と報いをもって返してくださり、神がともにおられる証拠を確かに見せてくださいます。たましいに幸いを得ている祝福はもちろん、神と明らかに交り、伴う不思議としるしで神の生きておられることを現すのです。ひょっとして主のために迫害を受けるとしても、将来天国で受ける永遠の報いを期待して、喜んで喜びおどりますように。



* まとめと適用

1.「心の貧しい者の天の御国」と「義のために迫害されている人の天の御国」はどう違うでしょうか?

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2.信仰生活をまともにして迫害されたことや、自分の過ちや知恵が欠けていることによって迫害されたことがあるなら、分かち合ってみてください。

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* 今週の課題

八つの幸いの中で、今、自分にはどの幸いが臨んでいるか、どの幸いがまだなのか、次回までに考えてきて分かち合いましょう。



* 「用語」を知って力にしましょう!

「太陽の栄光、月の栄光、星の栄光、個々の星の栄光」(第一コリント15:41)
・太陽の栄光_父たちの信仰で、三天層または新しいエルサレムに入った人の栄光
・月の栄光_若い者たちの信仰で、二天層に入った人の栄光
・星の栄光、個々の星の栄光_小さい者たちの信仰で、一天層に入った人の栄光
このように太陽と月と星の栄光はそれぞれ大きい違いがある。また、夜空の数えきれない星の大きさや明るさが違うように、星によって栄光が違う。パラダイスに入る人は主のためにしたことがないので、報いがなく、栄光とも表現しない。

 
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