Select Language
Korean
English
Japanese
Chinese
French
Spanish
Russian
German
初めてお越しの方の登録
|
ホームページ管理人に
黙示録講解
|
信仰を測ると
|
創世記講解
私たちが待ち望むべきもの
主日礼拝
主日夕方礼拝
金曜徹夜礼拝
ヨハネの手紙第一講解
黙示録講解
創世記講解
新年祈祷課題 [32]
預言 [4]
信仰を測ると [24]
復活 [2]
主はキリスト [2]
神様を見つけるためには [2]
神の豊かな摂理 [2]
宝の中の宝は信仰 [2]
肉の欠如 [10]
罪の根と聖潔 [2]
正義とあわれみと誠実 [2]
勉強がよくできる秘訣 [10]
聖霊の声を聞いて働きかけられ、御霊に導かれるには [17]
宣教報告 [20]
時期が来て、刈り取ることになります [5]
蒔いて刈り取る法則 [5]
心の地を耕そう [7]
義と枠を打ち砕こう [2]
信仰生活をやさしくすること [2]
地獄 [21]
御霊の九つの実 [9]
いやしと答えの公義 [2]
聖書的な結婚観 [2]
答えと祝福の神様 [4]
安息日を聖なる日とせよ [4]
空間と次元 [7]
完全な十分の一献金と奉納物 [5]
上からの知恵 [9]
天国 [61]
愛の章 [20]
神様の公義と愛 [2]
主に感謝 [2]
空の空 [3]
死者のゆえのバプテスマ [1]
十戒 [11]
聖霊のみわざ [3]
愛 [5]
信仰の量り [27]
伝道 [2]
全き心 [2]
善 [14]
変わらない心 [4]
十字架のことば [23]
霊魂肉 [30]
神様を喜ばせるためには [3]
神の義 [2]
変わる心 [3]
霊の波に乗ろう [3]
信仰 [2]
私の喜ぶ断食は [3]
空間と次元 [7]
空の空 [3]
答えと祝福の神様 [4]
勉強がよくできる秘訣 [10]
復活 [2]
死者のゆえのバプテスマ [1]
私の喜ぶ断食は [3]
上からの知恵 [9]
善 [14]
宣教報告 [20]
聖書的な結婚観 [2]
聖霊の声を聞いて働きかけられ、御霊に導かれるには [17]
聖霊のみわざ [3]
時期が来て、刈り取ることになります [5]
蒔いて刈り取る法則 [5]
新年祈祷課題 [32]
信仰 [2]
信仰生活をやさしくすること [2]
信仰の量り [27]
信仰を測ると [24]
神様の公義と愛 [2]
神様を見つけるためには [2]
神様を喜ばせるためには [3]
神の義 [2]
神の豊かな摂理 [2]
心の地を耕そう [7]
十戒 [11]
十字架のことば [23]
安息日を聖なる日とせよ [4]
愛 [5]
愛の章 [20]
御霊の九つの実 [9]
預言 [4]
完全な十分の一献金と奉納物 [5]
肉の欠如 [10]
義と枠を打ち砕こう [2]
全き心 [2]
正義とあわれみと誠実 [2]
罪の根と聖潔 [2]
主に感謝 [2]
主はキリスト [2]
地獄 [21]
伝道 [2]
天国 [61]
変わらない心 [4]
変わる心 [3]
宝の中の宝は信仰 [2]
霊魂肉 [30]
霊の波に乗ろう [3]
いやしと答えの公義 [2]
result
メッセージ(date)
主日礼拝
主日夕方礼拝
金曜徹夜礼拝
ヨハネの手紙第一
黙示録講解
創世記講解
十字架のことば
信仰の量り
十戒
愛の章
天国
地獄
隠れたマナ
2019年
六日間のマナ・上
六日間のマナ・下
神の良きみこころ
善
信仰の量り
愛の章
御霊の実
神の七つの御霊
祝福の秘訣
クリスチャンの基本
わたしはそれをしましょう
義人は信仰によって生きる
八つの幸い
2010年
2009年
2008年
隠れたマナ
2019年
六日間のマナ・上
六日間のマナ・下
神の良きみこころ
善
信仰の量り
愛の章
御霊の実
神の七つの御霊
祝福の秘訣
クリスチャンの基本
わたしはそれをしましょう
義人は信仰によって生きる
八つの幸い
2010年
2009年
2008年
メッセージ >
聖書の学び
Title
第8課「食卓から落ちるパンくずはいただきます」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2014-10-24
読むみことば: マタイ15:21_28
覚えるみことば: 箴言18:12
参考にするみことば: マルコ7:24_30
教育目標: スロ・フェニキヤの女のように、自尊心を捨ててへりくだった心と信仰の告白で、どんな問題でも解決される聖徒になるようにする。
一言が相手に感動を与えるとき、その実は想像できないほど大きい祝福として帰ってきます。良い感動的な言葉はどんな宝より尊く、幸せをもたらすので、宴会場の陽気な音楽より楽しいと言えるでしょう。世には良い言葉で感動を与える人もいますが、悪くて愚かな言葉を口にして相手の心を傷つける人もいます。軽率で無責任な言葉で他人に害を及ぼしたり、その言葉によって自分も災いにあったりする場合もあります。
それでは、スロ・フェニキヤの女を通して、どれほど善なる信仰の告白が感動を与えて、答えと祝福を受ける問題解決の鍵になるのか調べてみましょう。
1. 多くの人の前で無視されるスロ・フェニキヤの女
イエス様がツロとシドンの地方にとどまっておられた時のことでした。イエス様についてのうわさはその地方にもあまねく広まっていたので、あっという間に多くの人が詰めかけて来ました。他の誰からも聞けなかった権威のあるみことばが語られ、悪霊が出て行き、目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、死人が生き返るといううわさを聞いて、多くの人が集まって来ました。
スロ・フェニキヤの女もうわさを聞いて、イエス様を切に慕っていましたが、会うようになったのです。女は悪霊に取りつかれている娘がいやされるという喜びと、恐れで震えながらイエス様の前に出て来て、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげて言いました。ところが、イエス様が知らないふりをして顔を背けられるので、どうしてよいか困っていました。
当時としては、スロ・フェニキヤの女の行動には大変な勇気が必要でした。女性が知らない男性の前に出られなかったうえに、ユダヤ人は異邦人を嫌っていたからです。それでもスロ・フェニキヤの女は自尊心や恐れをものともせずイエス様に切に求めたのに、多くの人々の前で完全に無視されたのです。
弟子たちは彼女がかわいそうになったのか、見ていられなくてイエス様に「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と願います。弟子たちまで出て来たので、イエス様が「では、わたしが行って直してあげよう」と言われたのではありません。しかも「そんなに切に頼んでいるのに、答えてあげられなくてすまない」と慰めてくださるのでもありませんでした。
イエス様は意外にも「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われました。つまり、「わたしはイスラエルの民のために来たのであって、異邦人のあなたのために来たのではない」という意味なのです。
もし皆さんがこのような状況に置かれているなら、どうするでしょうか? たとえば、皆さんの両親が他の教会に通っていますが、不治の病にかかって、いやされようと「堂会長先生、祈ってください」と依頼しました。ところが、堂会長先生が「うちの教会の聖徒でないから、祈ってあげられません」と言われたなら、どうするでしょうか?
この時、「おやおや!愛が豊かな方だと思っていたのに・・・」と失望してあきらめてしまったり、「聞いたうわさとは違うね。何とまあ、うちの教会、あなたの教会と言えるんだろうか。それでも訪ねて来た誠意があるのに、祈ってくださるべきではないか」とさびしく思って帰ってしまう人もいるでしょう。
本当に心の良い人は「堂会長先生、私も神様の子どもです。信仰を持って出て来ましたから、祈ってくださればよくなると信じます」と最後まですがるでしょう。堂会長先生がそのように冷たくされるはずもありませんが、たとえそうなさるとしても、本当に良い心で信仰を持って出て来た人なら、悪い感情を抱かないで、むしろ良い言葉で感動的な答えをするのではありませんか?
スロ・フェニキヤの女はこのような良い心を持っていたので、イエス様のおことばを聞いて失望したのではなく、むしろひれ伏して、「主よ。私をお助けください」とさらに切にすがったのです。
2. 侮辱的な言葉を聞いても、最後までへりくだって信仰を見せたスロ・フェニキヤの女
イエス様は自尊心を捨てて切に願う彼女にお答えになったでしょうか? かえって「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と断固として断ります。イスラエルの民に与える恵みを異邦人に与えることは、子どもにあげるパンを小犬にやるようなものだということなのです。これは「女よ、あなたは小犬と同じだ」ということです。
聖書で犬は忌むべきもので、良くないものをたとえる時に使われます。「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。」(箴言26:11)とあり、「聖なるものを犬に与えてはいけません。」(マタイ7:6)とあります。
もしわずかでも自尊心がある人なら、自分を小犬にたとえる言葉を聞いたとき、「どうしてこんなふうに無視できるのだろうか」と思って帰ってしまうこともあるでしょう。ところが、スロ・フェニキヤの女はどうだったでしょうか?「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」とへりくだって告白しました。そんな侮辱的な言葉を聞いても、まず「そのとおりです。」とイエス様のおことばに肯定からしています。その後、「主よ、私が小犬のような存在だとしても、小犬が主人の食卓から落ちるパンくずはいただくように、私にも恵みをお与えください」と再び切に頼みました。
最後までへりくだった姿で信仰を見せた女の善なる言葉はイエス様を感動させて、結局答えていただくようになります。つまり、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われると、その時、彼女の娘から悪霊が出て行ったのです。
それでは、スロ・フェニキヤの女から見いだせる善は何でしょうか?
3. 答えられるしかないスロ・フェニキヤの女の善
スロ・フェニキヤの女にとって最も大きい苦しみは、愛する娘が悪霊に取りつかれていることでした。娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるのを見るとき、母としてどれほど心が痛かったでしょうか。自分が代わってやりたいほど、娘の苦しみを見るに忍びない心情だったでしょう。
ところで、うわさにだけ聞いていたイエス様が自分の村に来られたということを聞きました。この機会を逃せば、いつまたイエス様に会えるかわからないので、イエス様のみもとに出て来て、切に叫び声をあげて願いを申し上げたのです。しかし、彼女に返ってきたのは答えではなく、イエス様の沈黙であり、そのあとは小犬扱いされる侮辱でした。
それでは、真理そのものであるイエス様がなぜ彼女にそれほど冷たくされたのでしょうか? それは、彼女の信仰を確かめて、また、これを通してまことの信仰とはどのようなものなのかを私たちに見せられるためでした。
スロ・フェニキヤの女がイエス様に小犬扱いされても、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」とへりくだって告白したということは、彼女の心がそれほど良いということを示しているのです。娘がいやされさえすれば、小犬扱いされても関係ないし、それよりもっと低くなってもかまわないという心だったのです。
同じように、私たちにまことに心に切なる願いがあり、神の全知全能であることを信じるなら、どうして自尊心を前に押し立てて、どうして恥ずかしく思うでしょうか。
ところが、ある人は、心はへりくだっていないのに、一瞬悪知恵をめぐらして、「こういう時はこんなへりくだった答えをしてイエス様の心を買おう」と、それと似た答えをすることもあるでしょう。しかし、スロ・フェニキヤの女のように真心から出たものでないなら、イエス様があれほど繰り返して無視する態度を見せられた時は、結局わかってしまうはずです。スロ・フェニキヤの女は良い心にへりくだった心が臨んでいたので、最後までイエス様が望んでおられる霊的な答えができたのです。
私たちの心が彼女のようなら、相手からどんな悔しい言葉を聞いたとしても、腹が立ったり争ったりしないでしょう。しかも自分のほうが先に言葉で相手を傷つけることは想像もできないでしょう。もし自分に悪い言葉を言う人がいても、スロ・フェニキヤの女のようにへりくだった心で知恵を働かせれば、むしろ相手の心に感動を与えて、「私が本当に悪かった」と悟らせることもできます。
ですから、スロ・フェニキヤの女のように、むなしい自尊心を捨てて、神の御前にへりくだって頭を下げられる良い心を持つことがまさに祝福の道だということを必ず心に刻んで行いますように。
* まとめと適用
1. スロ・フェニキヤの女がイエス様に答えていただこうとする問題は何でしたか?
____________________________________________________________________________
2. スロ・フェニキヤの女が小犬にたとえられて侮辱的な言葉を聞いたとき、どんな告白をイエス様にしたでしょうか?
____________________________________________________________________________
3. 聖書で犬は忌むべきもので、良くないもののたとえに使われます。どの聖句か探して書いてください。
____________________________________________________________________________
____________________________________________________________________________
4. もし皆さんがたくさんの人の前で無視されたり、侮辱的な言葉を聞いたりしたとすれば、どんな反応が出て来るでしょうか?
____________________________________________________________________________
* 今週の課題
マタイの福音書8章に記されている百人隊長はどんな信仰を持っていたので、イエス様に中風のしもべをいやしていただいたのでしょうか? 次回までに読んで考えてきましょう。
* 知って力にしましょう!
「死体を葬らないで、犬に食らわせることは最高の侮辱」
聖書時代のユダヤ人は、死体を葬らないで、犬に食らわせるように放置することを最高の侮辱であり恥と思った。北イスラエルのアハブの王妃イゼベルは国民がバアルとアシェラの外国の神々を拝むようにした。これによって国民はひどく堕落した。その懲らしめとして、イゼベルは窓の外に突き落とされて、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか見つけられないほど惨めな死に方をした。神がエリヤに「犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。」と言われたが(第一列王21:23)、そのとおりになった(第二列王9:30_37)。
73, Yeouidaebang-ro 22-gil, Dongjak-gu, Seoul, Korea
- tel 82-2-818-7000 - fax 82-2-851-3846
COPYRIGHT MANMIN CENTRAL CHURCH, ALL RIGHTS RESERVED
Family site
Rev.Dr.Jae-rock Lee
GCN tv
WCDN
Manminnews.com
MMTC
Seminary
URIM BOOKS