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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第3課「真心と全き信仰」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2015-07-24


読むみことば: ヘブル10:22
覚えるみことば: ヘブル10:22
参考にするみことば: マタイ5:28
教育目標: 神に愛されて祝福されるように真心に変えられて全き信仰を持つ方法を学ぶ。

今日のように罪と悪がはびこった世で、人々は自分がどれほど悪いのかも知らずに生きていきます。「私は罪を犯さないで生きている。自分なりに善良に生きている」という人も多いですが、聖霊が働かれているうちにみことばで自分に光を照らせば、邪悪な良心が発見できます。
<ヘブル10:22>に「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。神が喜ばれる真心と全き信仰を持つには、邪悪な良心を悟ることが非常に大切です。自分の悪を発見して捨てるほど、真心に変えられて全き信仰を持てるからです。



1. 真心に変えられるには

1)邪悪な良心を悟らなければなりません
私たちが邪悪な良心とは何か悟ろうとするなら、欲と私心、姦淫と欲、移り変わる心など、いくつかの分野だけ調べてもわかります。罪の大きい根を引き抜けば、そのひげ根まで抜けるようになります。すなわち、欲と私心、姦淫、移り変わる心を捨てれば、これとつながっている多くの罪の性質が引き抜けるのです。
まず、欲と私心に関する分野を調べてみましょう。これには物質、名誉、権威への欲も含まれています。自尊心、自分が高くされて認められようとする心、自分に固執して、自分のことと自分の家族のほうを重要視する私心も同じです。
欲と私心によって派生する悪がどんなに多いでしょうか。欲を満たそうとしていて人を欺くことになり、思いのまま欲を満たせなければ、ねたみ、そねみ、憎しみ、殺人、憤り、争いが出て来ます。それで、<ヤコブ1:14_15>に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。とあるのです。
皆さんは欲と私心をどれだけ捨てたでしょうか。「正当な代価を払わないで努力なしに取ろうとする心、他人のものが自分のものになればいいという心」はなかったのか、「神の国より自分の利益を前面に出しはしなかったのか」チェックしてみますように。
次に、姦淫についての分野です。姦淫は神があまりにも嫌われる罪です。最近はコマーシャルやグラビアなどで恥ずかしいほど体を露わにした姿が簡単に見られます。テレビやインターネットも情欲的なものをあおり立てるので、特に未成年や子どもたちが良くない影響をかなり受けるようになります。
このように人の情欲を刺激して罪を犯すように引きずっていく世で、神の子どもたちはどう生きていくべきでしょうか。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とあります(マタイ5:28)。したがって、情欲の根の根まで引き抜いてしまわなければなりません。姦淫の属性があれば、いつかは罪を犯す可能性があるからです。
神は人の心を見通されるので、一瞬よぎる思いやまなざしに込められた心も知っておられます。ですから、「私の心と行いには恥ずかしいことが全くありません」と大胆に言えなければなりません。信仰の三段階だけになっても、行いで犯す姦淫はしません。しかし、心の罪の性質まで完全に捨ててこそ、神がきよいと認めることがおできになります。
<第一テモテ5:2>には「年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。」とあります。このように異性に対するとき、どんな情欲もなくきよい心で対するべきです。
最後に、移り変わる心です。サウル王はダビデをねたんで殺そうと執拗に追跡しました。何の罪もなく追われ続けていたダビデはサウルを殺せる状況でも「サウルを害する心がない」と感動的な告白をします。サウルはその言葉を聞いて感動の涙を流しながら「【主】があなたに幸いを与えられるように。」と言います(第一サムエル24:19)。しかし、あまり経たないうちに移り変わって、憎しみとねたみが火のようにおきて、またもやダビデを殺そうとします。良いことに感動したのですが、心を守れないのです。
このように肉の人には移り変わる心が多いのが特徴です。「もう肉が何の役にも立たないことを悟りました。御霊の歩みに入ろうと決断しました」と言いますが、少ししたら、決断が緩むことが多いです。さらに神の御前に「定めて祈ります。断食します」と言っておいても、心が変わってやめてしまいます。熱い心で誓願を立てても、時間が過ぎれば「私はなぜそんな誓願をしたのだろうか」と悩んだりもします。
このように移り変わる心はみな悪から出て来ます。自分の中にある悪が動くので、善をしたいと願う心を守ることができないのです。移り変われば、聖められることにも多くの支障があります。聞いたみことばを心に留められなくて、肉を追い求めようとする心を自制できないので、御霊の歩みにすみやかに入れません。
<箴言4:23>に「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いくら小さいことでも、心に決めて口から出したことはそのまま守る習慣を身につけますように。

2)からだをきよい水で洗わなければなりません
<ヘブル10:22>の「からだをきよい水で洗うこと」とは、すなわち、神のことばのとおり行って自分の悪を脱ぎ捨てる過程のことを意味します。霊的に、水は神のことばを意味します。したがって、神のことばに「避けなさい」とあれば避けて、「してはならない」とあればしなくて、「守りなさい」とあれば守って、「しなさい」とあればすることが、すなわちきよい水で洗うことです。
神の子どもとして信仰の量りが成長する過程とは何でしょうか。全き信仰に至るまで続いて邪悪な良心を悟って、神のことばどおり行いで自分を洗っていくことです。使徒パウロが「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。(第一コリント15:31)」と告白したように、毎日神のことばによって自分の悪を洗っていかなければなりません。
私たちは主を受け入れる前に遺伝によって親を通して受け継いだ原罪と、育ちながら聞いて見て学び、入力された罪と悪で「自分」を作ってきました。このような「自分」は何の役にも立ちません。真理でないもので作られた自分を捨てて、御霊によって霊を生みながら、自分の中にキリストだけがおられるように真理だけで満たさなければならないのです。
ところで、神を信じるからといって、皆がからだをきよい水で洗うのではありません。神のことばを教えながらも「人が聖められるのは不可能なことだ」と言う人もいます。「信仰によって義とされるのだ。罪を犯さないために努力するだけであって、罪の属性自体を脱ぎ捨てることはできない」と言ったりもします。
しかし、神は私たちに聖であって完全でありなさいと言われました(第一ペテロ1:16;マタイ5:48)。失った神のかたちを取り戻すためには、罪の属性を当然脱ぎ捨てるべきです。肉がどれほどむなしいものなのかを芯から悟ってこそ、ちりあくたのように捨てることができるのです。天国への希望の中でまめに邪悪な良心を悟り、心をきよい水で洗ってはまた洗い、きよく美しい真心をにすみやかに変えられますように。



2. 全き信仰を持つには

「全き信仰」とは、神の心と思いを推し量って従うことで、神に喜ばれる信仰です。私たちが邪悪な良心を悟って、からだをきよい水で洗うほど、真心に変えられて全き信仰を持つことができます。
もちろんこれは一日でなることではありません。切に慕う心で神のことばを聞いて、邪悪な良心を一つ一つ発見しなければなりません。また、発見して悟ったら、火のように祈りながら、心に留め、身を慎むことによって自分を変えさせていかなければなりません。
熱心に努めに努めてある程度悪を捨てたようですが、また再び悪の姿が出て来ることもあります。そうであっても気を落としてはいけません。タマネギの皮をむいてもむいても依然として残っているようですが、結局はみなむけるように、あきらめないで続けて悪を捨てていけば、聖められることができます。自分の悪を発見するたびにむしろ喜んで感謝し、聖めに向かって一歩近づく過程なんだと、肯定的に思わなければなりません。
悪の根を完全に引き抜く時まで、御霊の歩みに入る足取りを決して遅らせてはいけません。邪悪な良心を悟って、神のことばで毎日自分を清くしていくことによって真心に変えられ、全き信仰を持たれますように。



* まとめと適用

1. <ヘブル10:22>に「からだをきよい水で洗う」というみことばの意味は何でしょうか。
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2. 次の説明の中で間違っているものを選びなさい。
①私たちが邪悪な良心を悟ってからだをきよい水で洗うほど、真心に変えられ、全き信仰を持つことができる。
②肉の人には移り変わる心が多いのが特徴だ。
③全き信仰は神の心と思いを推し量って従うことで、神に喜ばれる信仰である。
④人が聖められるのは不可能なことだ。

3. 人が罪の属性を捨てて聖められるのは不可能でしょうか。<第一ペテロ1:16>と<マタイ5:48>を覚えて書いてみてください。

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* 今週の課題
<マタイ7:7_11>を読んで、霊的に「求める」「捜す」「たたく」とはどんなことなのか考えてきましょう。



* 「用語」を知って力にしましょう

「良心」とは
人が自分で作っておいた「善と悪を見分ける判断基準」である。これは持って生まれた根本の心とひとりひとりの成長した環境や学んだことによって、自分なりに「これが正しい」と基準を作っておいたものなので、人によって違うし、ほとんどが真理と真理でないものが混ざっている。

 
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