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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第30課 できるものなら、と言うのか  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-07-25


読むみことば: マルコ9:21-29、エレミヤ33:3、ヘブル11:1-3
覚えるみことば: マルコ9:23

教育目標

神に喜ばれる全き信仰を持ち、人生のすべての問題が解決される聖徒になる。


1. 不信仰を責められたイエス様

[マルコ9章]には、口をきけなくする霊につかれた息子を持った父親の話が出て来ます。彼はある日、死んだ者を生かし、さまざまな病気にかかっている者をいやして、いろいろな奇蹟をなさるというイエス様の噂を聞きます。「こういう方なら、きっと息子の病気を治すこともできるのでは」というひと筋の希望をもってイエス様のところに出て来ます。
「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と、イエス様に息子をいやしてくださいと頼みます。ところが、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われて、彼の不信仰を責められます。イエス様の御力を聞いたけれど、心から信じられなくて、偶然にでもいやされることを願ったからです。彼が、まことにイエス様が神の御子であり、何でもおできになると信じたならば、「おできになるものなら」と条件をつけなかったでしょう。信仰がなくては、決して神に喜ばれることはできないし、答えられないので、イエス様は「できるものなら、と言うのか」と言われて、完全に信じるよう悟らせてくださいました。


2. 完全に信じる信仰になるには

信仰は大きく二つに分けられます。見えるものを信じる「肉の信仰」と、見えないものを信じる「霊の信仰」です。肉の信仰は「知識的な信仰」「行ないのない信仰」「死んだ信仰」と言い、神はこれを信仰と認められません。
神が認められる信仰とは、まさに見えないものを信じる「霊の信仰」です。このような信仰は「まことの信仰」「生きている信仰」「行ないのある信仰」と言い、無から有を創造する信仰です。[ヘブル11:1]には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と定義してあります。現在与えられていなくても、信仰の目で望めば現実になり、確かなものと信じるようになります。
したがって、完全に信じる信仰とは、イエス様を救い主として受け入れ、心からこの方がこの地上に人となって来られたことと死なれたこと、復活、昇天、再臨、創造、奇跡などを信じて、「信じます」と告白することです。また、心から信じてみことばどおり行なって義を実現し、救われて祈りに答えられることです。
ここで一つ気をつけなければならないことは、信じられないからといって、口で否定してはならないということです。信じられる時まで、休まず祈らなければなりません。その時はじめて、神が信じられる霊の信仰を上から与えてくださるのです。
それでは、私たちが完全に信じる信仰を持って答えられるには、どうするべきでしょうか?

第一に、神との間に罪の隔ての壁があってはなりません。
もし神との間に罪の隔ての壁があるなら、すみやかに悔い改めて、罪と血を流すまで戦って捨てなければなりません。罪を思っただけでもいやで、見るだけでも鳥肌が立つほど嫌いな人なら、どうして罪が犯せるでしょうか。そのような人は神と交われて、完全に信じる信仰が与えられます。

第二に、神のみこころを追い求める人にならなければなりません。
神のみこころを明らかにわきまえて、自分がいくら好きでも、神のみこころでなければ決してしてはいけません。一方、自分がいくらしたくなくても、神のみこころならばしなければなりません。神は心と思いと最善を尽くして神のみこころを追う人に、完全な信仰を与えてくださいます。

第三に、神を愛して、神に喜ばれるべきです。
私たちは食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすために生きなければなりません(第一コリント10:31)。自分自身を犠牲にしても神に喜ばれる人なら、不可能を可能にする信仰が与えられます。このように完全な信仰になれば、見えるものだけを信じたり、自分ができることだけをしたりするのではなく、見えなくて自分ができないことも、信じて聞き従うようになります。そうして信仰によって求めることはみな神に答えられます。


3. 信じる者には、どんなことでもできるのです。

全き信仰になれば、不可能がなく、どんな問題でも解決されます。それでは、人生の問題のうち三つの事例を取り上げて、どのように不可能が可能になるのか調べてみます。

1) 病気の問題
人の方法で治療できるささいな病気の場合は、聖霊に満たされているうちに聖霊の火を受けると、一瞬にして病原菌が焼かれていやされます。たとえば初心の者の場合、心の戸をあけてみことばを聞き、少しの信仰だけ見せてもいやされます。一方、信仰のある人が病気にかかったとすれば、徹底的に悔い改めて立ち返った後に祈りを受ければ、完全になります。また、医学で治せない体の不自由な人や奇形児などのわずらいの場合は、神の力でなければ治せないので、それほど誠意と大きい信仰を見せなければなりません。いくら重い病気であっても、神に喜ばれる信仰と行ないが伴うなら、神はいやしてくださいます。

2) 事業の問題
世の知識と方法、経験に頼って事業の問題を解決しようとすれば、自分を先立てたことになります。神にゆだねたのではないので、自分の能力で努力した分だけ問題が解決されます。しかし、罪を捨てて神のみこころを追い求め、すべてのことを神にゆだねれば、栄える道に導かれます。ヤコブがヤボクの渡しで自分の知恵を徹底的に捨てて、神に完全にゆだねて、もものつがいがはずれるような祈りをささげたとき、神の驚くべき祝福を受けました。このように全知全能の神にゆだねれば、すべての問題を解決してくださいます。

3) 神の力を受ける問題
神の国はことばにはなく、力にあるので、私たちが力を受けてこそ神の国が大いに実現されます(第一コリント4:20)。そのためには肉の思いを打ち砕いて、心を真理に変え、火のように祈って聖霊の明らかな声を聞いて導かれなければなりません。また、神にいろいろな賜物を求めなければなりません。
全き信仰になれば、[マルコ16:17,18]に「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」とあるように、神の力が現れるようになります。それで、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとします(マルコ16:20)。このような人は不可能が可能になり、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われたとおりになります。


4. 答えられる過程

1) 肯定的な告白がなければなりません
悪霊につかれた息子のためにいつも心の重荷を負って胸を痛めていた父親は、イエス様の噂を聞いて息子がいやされるという希望を持ちます。ついにイエス様にお目にかかりましたが、確かな信仰がなかったので、偶然にでもいやされたらという心で切に願いました。その時、イエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われます。するとその子の父親は「信じます。」と肯定的な告白をしました。たとえ彼に霊の信仰はなかったとしても、イエス様の言われたことにうなずいたのです。

2) 心に信じる信仰を持たなければなりません
その子の父親は、心に信じる信仰を切に望んで「不信仰な私をお助けください。」と叫んで言いました(マルコ9:24)。彼はイエス様の御力を人々から聞いて知ってはいましたが、心から信じなかったのです。それで、不信仰な私を助けてくださいとイエス様に切に願ったのです。肉の信仰、頭で知っている知識的な信仰は自分でも持てますが、心から信じる霊の信仰は上から神だけが与えてくださいます。結局、彼はイエス様に助けられて、心に信じる信仰を持ち、願いに答えられました。

3) 答えられるまで神を呼んで祈らなければなりません
神は私たちが呼んで祈ると答えてくださいます(エレミヤ33:3)。また、ある事を成し遂げようと神が言われても、自分のほうから求めなければなりません(エゼキエル36:37)。旧約時代の預言者たちや新約時代の信仰の人々も、神を呼んで祈って問題が解決されました。そのような祈りによって心に信じる信仰が与えられ、問題に答えられる資格を備えるからです。どんな劣悪な状況でも、切に呼んで祈れば、神が必ず答えてくださいます。悪霊につかれた子の父親も、あきらめないで最後までイエス様を呼んで求めたので、結局は答えられたのです。

愛する聖徒の皆さん、知ることで終わる知識的な信仰でなく、心から信じる霊の信仰を持って、求めることは全部答えられ、問題が解決されて神に栄光を帰しますように、主の御名によって祈ります。

 
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