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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第39課 死ぬ一粒の麦になろう  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-09-26


読むみことば: ヨハネ12:24-26
覚えるみことば: ヨハネ12:24

教育目標

イエス様のように死ぬ一粒の麦になって豊かな実を結び、神に栄光をささげる聖徒になる。


1. 死ぬ一粒の麦になられたイエス・キリスト

イエス様は自然の摂理を通して、神の深くて妙なる真理を教えてくださいました。一粒の麦が死んで実を結ぶ過程を見れば、種は芽が出て根を下ろすために自ら死んで、すべての部分を養分として与えます。それで、たとえ自分の形はなくなるとしても、新しい生命体を誕生させて豊かな実を結びます。一方、芽が出る条件がそろっても、種が死ななければ何の実も結べません。このような自然の法則は霊の世界でも同じように適用されます。

それでは、イエス様はどのようにして朽ちる一粒の麦になられたのでしょうか?
[イザヤ53:5-9]でよくわかります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」
イエス様は創造主なる神のひとり子ですが、被造物にはずかしめられ、多くの苦しみを受けられました。それでもイエス様がこのはずかしめをものともせずに、十字架を負って徹底的に死なれたのは、一粒の麦が地に落ちて死ねば豊かな実を結ぶように、数えきれない魂を救うと信じられたからです。
[ヘブル12:2]には「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。「ご自分の前に置かれた喜び」とは、永遠の死の道に向かうしかなかった罪人たちを救うことができるという愛と、神のみこころが成就されるという喜びを意味します。また、王の王、主の主になれるという喜びを言っています。モーセや使徒パウロのような昔の信仰の人々も、このような天の希望があったので、はずかしめをものともせずに、ただ神の国のために徹底的に死にました。信仰があれば、神の国と義のために、信仰の兄弟たちのために徹底的に死んで、たとえはずかしめられてもものともせずに、むしろ喜んで感謝できます。


2. 死ぬ一粒の麦になるには

第一に、自分が死ななければなりません。
なぜ「自分」がまず死ななければならないのでしょうか? 人はこの地上に生まれてから、親、兄弟、学校、友だち、隣人など、さまざまな環境で見て、聞いて、経験して、知識と教養を積んでいきます。このように積んだ知識と教養によって自我を形成するようになります。私たちが世から受け入れて形成されたものは、ほとんど真理に逆らうものに属しています。ところが、世の中に属していた私たちがイエス・キリストを受け入れれば、真理が私たちの思いと心をたたくようになります。自分が心の戸をあけるほど、真理が心の中に入るようになり、その時から罪との戦いが始まります。
なぜなら、これまで自我を形成していたものは真理であるみことばに背くものなので、そこからぶつかるようになるからです。「私の思いと理論より神のみことばのほうが正しいです」と自分を否認するとき、自分が死に始めます。つまり、みことばに背く自分のはかりごとと思弁(第二コリント10:5)が発見されれば、それを捨てて真理に変えるために戦うのです。
[ヘブル12:4]で、心の真理に逆らうものを捨てる罪との戦いがどれほど熾烈なのかがわかります。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」とあります。真理に逆らうものは適当に悔い改めるのではなく、熱心に汗を流して主を呼んで祈る時に捨てられます。神がその努力を見て恵みを施され、火のバプテスマを下して罪の性質を焼き尽くしたり、罪を捨てる力を下さったりなさいます。聖霊に助けられて自分の中にあった罪の属性を捨てて、主の心に似せられていくようになります。このようにからだと結びついた罪の性質が焼き尽くされるほど、御霊の人になることができます。
麦が死ぬとき、その中のものが養分として供給されて、皮も朽ちてなくなるように、自我を形成するものが真理に変えられて、自我という枠自体もなくならなければなりません。世から入力されて作られた自分の義と枠はすべて「以前の生活」(エペソ4:22)なので、これを脱ぎ捨てて、神にかたどり造り出された新しい人に生まれ変わって、真理で満たさなければなりません。それで、心から「私というものはありません」という告白が出てくるとき、ついに御霊の人になったと言えるのです。

第二に、家庭で死ななければなりません。
家族が一緒に神を信じて教会に通う場合もありますが、ほとんどの場合、ひとりが教会に通いながら次第に福音化されていきます。[使徒16:31]に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあり、[第一コリント7:14]には「信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。」とあります。妻が犠牲になって、よく仕えて夫が救われるようにするなら、夫も真理を求めて聖められます。夫も、信者でない妻によくするなら、真理で変えさせていけます。
このように、家族を完全に福音化させるキーポイントは、初めに主を受け入れた人が家庭でどのように死ぬかということです。信仰は聞くことから始まるので、家族が福音化されるためには、御国の福音と、神は生きておられるという証拠をもって、いつも伝道しなければなりません。そして、その伝える人が家族から信頼されなければなりません。家族は一番近くで自分を見ているので、神を信じなかった時と変わらずに模範とならないで、口だけで福音を伝えても、信頼してもらえません。一方、家族が見ても「教会に通ってからまじめになった、まめになった」と認められたら、伝道しても受け入れやすいのです。
家庭で死ぬ方法はたくさんありますが、そのうち自分の「以前の生活」を脱ぎ捨てるとき、家族はその変化をすぐ感じます。「以前の生活」とは、神を見つける前、「古い人」の時、自分の身についていた良くない習慣です。たとえば、育った環境で悪口が日常の言葉になっていたり、憤りが多くて、小さいことにも怒ってすぐ暴力をふるったりします。また、自分の部屋がいくら汚くても、お母さんが片づけるまでそのままにしておくとか、忙しいと言い訳して、起きた後に布団をたたまない、服は脱いだまま放っておくことなどです。この他にも、良くない以前の生活に属する古い人を脱ぎ捨てて、家族の中で仕えて死んだら、いつも笑いが絶えない和やかな家庭になるでしょう。

第三に、教会の中で死ななければなりません。
聖徒たちは血肉で結ばれている兄弟より近い神の息子、娘である、この地上でだけでなく、天国でも永遠に一緒にいる間柄です。ところが、ある兄弟の過ちをあばき出して他の人に伝えたら、兄弟としてふさわしくありません。神は、互いに愛して赦し、他人のそむきの罪をおおい、良いことはほめなさいと言われました。[箴言17:9]には「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる。」とあります。「自分」が生きている人は、相手のそむきの罪を見ると、それが赦せません。自分の義を基準に相手を指摘したり、そむきの罪を伝えたりします。相手のために被害をこうむった時は、いっそう赦せないのです。
教会の中でどれほど朽ちる麦になったのかは、どれほど平和をつくっているかによってもよくわかります。自分が生きていて、自分の義を主張し、自分の枠にこだわる人は、他の人たちと平和がつくりにくいのです。枠というものは、硬くてぶつかりやすいし、ぶつかれば音がして平和が壊れます。たとえば、誰かとは仲良くしているのに、誰かとはぶつかるなら、本当に平和なのではありません。自分によくしてくれる人だけでなく、そうでない人とも、みな平和でなければなりません。また、上下関係があるところで、秩序によって従って仕え、平和を追い求めたのか、属しているところで愛で一つになったのかを調べてみなければなりません。死ぬ麦のような人は、どこに行こうが平和をつくります。神は必ず平和を追い求める人を用いて実を結ばれます。

第四に、神の国のために死ななければなりません。
神の国が実現されるために最も重要なことは、魂の救いです。イエス様が十字架につけられて死なれたのも、数多くの人々を救うためでした。それで、主はよみがえって昇天された時も、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われました(使徒1:8)。このように主の証人になって福音を伝え、多くの人を救いに導くとき、神の国が大いに実現するのです。
私たちが神を信じない人々を伝道するのにも、多くの愛の労苦が伴います。彼らに良い行ないによって光を照らしてこそ、彼らが光であられる神を捜すようになります。ひとりを伝道するためにも、多くの時間と物質と誠意を投資しなければなりません。伝道した人を顧みることも同じです。私たちが献身と愛の労苦を惜しまないとき、その人が霊の信仰を持つよう成長して、教会がリバイバルするのです。しかし、一タラントを預かった者のように、何の労苦もしないでただ持っているだけならば、実が結べません。主の愛を本当に悟った人は、主の愛に対して借りがあるという心で、伝道と魂を顧みることを苦労と思いません。自分のものを全部渡しても喜んで感謝し、自分から進んでそうするのです。これがまさに、神の国のために死ぬことです。
[ローマ8:17]に「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とあります。このようにキリストとともに栄光を受けたいと願うなら、これからもさらに信仰によって神の国のために死にますように。それで、多くの魂を救いに導き、また、御霊の歩みへと導いて、天国で太陽のような栄光の座に至りますように。

 
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