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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第28課 「どんな願いですか」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2009-07-10


読むみことば: マタイ20:20-23
覚えるみことば: マルコ11:24
参考にするみことば: ヤコブ1:6-8


教育目標

神に答えられる場合と、答えられない場合を調べて、みこころにふさわしいことを求めて答えられる。

全知全能の神は子どもたちの願いに答えて、愛を分かち合うことを願われます。それで、「どんな願いですか」と聞かれて、それに答えて祝福を下さるのです。ですから、神の子どもたちはいくら困難にあっても、恐ろしいことがありません。
ところが、何をどのように求めるかによって、答えられることもあり、答えられないこともあります。私たちが何を求めようが神に答えられるには、どうしなければならないでしょうか?


1. 神のみこころのとおり行なってこそ答えられる

<マタイ20:20-21>で、弟子のヨハネとヤコブの母が何かを求めるために子どもたちと一緒にイエス様のもとに来ました。するとイエス様は「どんな願いですか。」と聞かれました。すると母は「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」と願います。それほどの権威を持っている方だと信じたので、高い座を求めているのです。
それでは、彼らはイエス様の何を見たので、このような要求をしたのでしょうか? それは、イエス様の驚くべき教えと真実の行ないを見たからであり、また、イエス様が行なわれた不思議としるしは、人としてはできないことだったからです。
聖書を見れば、イエス様はまことに驚くべき不思議としるしをたくさん行なわれました。ガリラヤのカナの婚礼の宴会では、水でぶどう酒をお作りになったし(ヨハネ2章)、生まれつきの盲人の目をあけられて(ヨハネ9章)、口をきけなくする霊につかれた子どもをいやしてくださいました(マルコ9章)。また、死んでから四日にもなって、墓に葬られているラザロを生かされたりもしました(ヨハネ11章)。五つのパンと二匹の魚の奇蹟を行なったり、水の上を歩いたりもなさいました(マタイ14章)。
それなら、イエス様がこのような事を行なわれた本当の目的は何でしょうか? それは、すべての人を永遠のいのち、すなわち、永遠の国、天国に導くためでした。弟子たちはイエス様について行きながら、何度も天国について聞いて学び、神の御子であるイエス様の権威が天国でどれほど大きいかも知っていました。それで、イエス様に求めれば何でも答えられることも信じました。それで、イエス様のところに来て、天国で偉い人になれるように求め、約束をもらおうとしました。
この時、イエス様は「わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」と言われます。つまり、イエス様がある人をすわらせるのではなく、誰でも父のみこころのとおり行なって、ふさわしい資格を備えてこそすわれるということです。
今日も、多くの人がいろいろな理由で神を捜しています。自分ではどうしようもない問題にぶつかったとき、神に頼ろうと神の御前に出てくる人がいて、「この方がまことの神のようだ」と認めて出てくる人もいます。また、病気で死ぬしかないとき、いやされようと神の御前に出てきたり、ただ伝道されて良いと思われて来る場合もあります。はたして、自分はどの場合に当たるでしょうか? そして、どうしたら願いに答えられるでしょうか?


2. 信仰によって求めてこそ答えられる

<士師記6章>では、カナンの地に入ってきたイスラエルの民がミデヤン人に略奪されて苦しむと、神はギデオンにイスラエルを救う使命を与えられます。ギデオンはミデヤン人が怖くて、こっそりと小麦を打っていた人だったので、自分がそのような使命を引き受ける資格があるのか疑わしくて、神に二つのしるしを求めます。
まず「私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」と祈りました。朝早く起きてみると、はたして羊の毛の上にだけ露が降りていました。
ギデオンはさらに確かめるために、もう一度神に求めます。今度は、その反対にしてくださいと祈りました。はたして、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていました。このように、神は求めるとおり答えて、ご自分がまことの神であることを証しされます。
人としてはどうしようもないさまざまな問題で、神を捜す場合があります。エジプトから出てきて、葦の海を前にしたモーセは、完全武装したエジプト軍がイスラエルの民に向かって突撃してくると、主を呼んで祈ります。そして、神が命じられたとおり、杖を上げ、手を海の上に差し伸ばしたら、葦の海が分けられてかわいた地になり、イスラエルの民は無事に渡れました。
このように神は全知全能の方なので、ご自分の子どもたちが信仰を見せて祈れば、何でも働いてくださいます。病気がいやされるためにイエス様の御前に出てきた例としては、次のような人々がいます。自分のしもべの中風がいやされるために、イエス様の御前に出てきた百人隊長(マタイ8章)、十二年の間、長血で苦しんでイエス様を訪ねてきた女(マタイ9章)、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエス様を捜してやって来たスロ・フェニキヤの女(マルコ7章)などです。彼らは信仰を行ないで見せて、その時すぐ願いに答えられました。
百人隊長は信仰の告白だけでも答えられました。イエス様がしもべを愛する百人隊長の美しい心を見て、「行って、直してあげよう。」と言われると、百人隊長は驚くべき信仰の告白をします。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(マタイ8:8-9)
このようにイエス様を徹底的に信頼して、その前で従おうとする信仰を持った百人隊長の告白を聞いたイエス様は「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われ、ちょうどその時、しもべはいやされました。このように、信仰によって神の御前に出てくれば、何を求めようが神を見つけて、願いに答えられます。


3. 願っても答えられない理由

全知全能の神の御前に出てきたのに、答えられない理由は何でしょうか? 最も大きい理由は、完全に信じられなくて疑うこと、すなわち、二心があるからです。<ヤコブ1:6-8>に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」とあります。したがって、神に答えられようとするなら、疑わない信仰を見せなければならないし、どんな事にあっても、ただみこころのとおり喜んで感謝し、祈ることができなければなりません。
神が信じられなくて疑う人は、何かの試練や患難がやって来れば、神を恨んだり、否認して嘆きながら、最後まで信じる信仰を見せることができません。そして、「私が祈って断食しても、神が答えてくださらないから、不平を言うし恨むのです。答えてくだされば、恨んで、嘆いて、不平を言うでしょうか」と弁解します。
エジプトから出てきたイスラエルの民がそうでした。恨んで不平を言った出エジプト第一世代は、信仰が見せられなくてカナンの地に入れずに、結局、荒野で死んでしまいました。
ある人はそれほど信仰があるようでもなく、愚かに見えるのに、答えられます。それは、答えを与えても、その人の心が変わらないことを神がご存じだからです。ある場合は、神を裏切ることをご存じであっても、答えを与えたりもなさいます。それは、後日、その人が神の御前で弁解できないようになさるためです。神がさばきの日に「わたしはあなたにこのように答えを与えたが、あなたはこのような答えを見てもわたしを否認したので、どうして救われることができるだろうか」と、公義に従ってその人をさばかれるためです。
また、神が人によって答えを与える方法は違います。ある人には一度で答えられて、ある人には少しずつ答えられます。そのような過程を通して、信仰の岩に立てるようにしてくださるためです。一度で答えを与えれば、その人の心が変わることもあるので、その人が悟れるように真理に変えられただけ、少しずつ答えを下さるのです。それで、信仰が育っていくほど、信仰のとおり答えられるのです。
神は私たちに何でもおできになる全知全能の方であります。ただし、答えられるか、答えられないかという問題は、私たちの心にかかっています。したがって、私たちは神を信じ、まことの信仰をもって行ないを見せなければなりません。


* まとめと適用

1. <マルコ11:24>をみんなで覚えてみましょう。

2. 神に答えられようとするなら、どうしなければならないでしょうか?

3. □の中にふさわしい単語を書き込んでください。
「ただし、少しも□□ずに、□□て願いなさい。□□人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、□□のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1:6-8)

4. 甘い水や録音されたいやしの祈り、神の力の込められたハンカチの祈りを信仰によって受けて、あるいは自分で使って、答えられた体験を互いに証して、恵みを分かち合ってみましょう。


* 今週の課題
自分が不当な扱いを受けたとき、思い出すべきみことばにはどんなものがあるでしょうか? 探してみましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「長血」とは?
子宮から慢性的に下血がある症状で、子宮の中にポリープができたり、何かの異常が生じたりして起こる症状である。イエス様の時代の人々はこの病気をハンセン病とともに天罰のように考えて、患者たちを不正に扱ったので、患者たちは社会から疎外されていた。

 
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