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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第33課 「従順の祝福」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2009-08-14


読むみことば: 第一サムエル15:22-23
覚えるみことば: マルコ9:23
参考にするみことば: ヘブル11:8


教育目標

従順の人アブラハムについて学び、神が望まれる従順とその祝福を知る。

ある組織と団体で認められて愛される人になるためには、そこの秩序と規則をよく守って従わなければなりません。これと同じように、私たちが神に愛されて祝福されるためには、そのみことばに聞き従うことが最優先です。


1. 神が望まれる従順

ほとんどの人は自分の知識や経験に照らして、とんでもないことには従おうとしません。ところが、信仰にあっては、現在の状況でとうていできないことに従う時に、それを「まことの従順」と言います。神は聞き従えないことを行なうとき、義と認められて、従順の祝福を下さり、不思議としるしが伴うように働かれます。たとえば、イスラエルの民はエリコの城を落とすために、七日の間、エリコの城の周囲を回りました。これは人間の常識や知識にはとうてい合わないことです。どうして城の周囲を回りながら、大きい声で叫ぶからといって、城がくずれ落ちるでしょうか。神のことばだから、信じて従ったので、神がその従順をご覧になって、くずれ落くるようにしてくださったのです。このように、信仰をもって従えば、神の驚くべきみわざが現れます。
このような従順の結果を通して信仰が成長し、さらに大胆な信仰が持てます。実は、聞き従えないことだというのも、人のほうでそう思うのであって、神のほうでは決して聞き従えないことではありません。それでも聞き従えないのは、人にできることについての思いと経験、考え方が世から入力されて、その限界が頭に入っているからです。
一般に私たちは、人にできないことは自分もできないと信じています。しかし、<マルコ9:23>に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 とあるように、神には限界がありません。したがって、聞き従えないのはただ信仰が薄いからであり、思いの中にある人と科学の限界、医学的な限界を打ち砕けば、十分に聞き従えるのです。


2. 従順の人アブラハム

アブラハムは神を信じたので、移り変わることなく、どんなことでも神に聞き従いました。神がアブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられたとき、どうしたでしょうか? <ヘブル11:8>に「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」とあるように、アブラハムはどこに行くのかを知らなかったが、そのとおり従いました。このように聞き従って、アブラハムは神が約束されたあらゆる祝福を受けました。
ハガルが産んだ子イシュマエルを追い出した時もそうです。そばめハガルが産んだ子イシュマエルが本妻サラから生まれた子イサクをからかったので、サラはイシュマエルを追い出してくださいと言いました。このことでアブラハムが悩むと、神はサラの言うとおりしなさいと言われ、アブラハムはそのとおり聞き従います。それで、神の摂理がイサクを通して実現されて、イシュマエルも一つの民族となりました。
このようなアブラハムに、神が大変な従順を要求されます。百歳で生んで、大切に育てていた約束の子イサクを、山に連れて行って、動物のようにほふって、たきぎの上に置いて、火で焼いて全焼のいけにえとしてささげなさいというのです(創世記22:1-2)。実に人間の思いを働かせたら、とうてい聞き従えないことです。神は「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」(創世記21:12)、「あなたの子孫をおびただしくふやし、あなた幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」(創世記17:6)と仰せられました。ところが、今になってイサクを殺して、全焼のいけにえとして捧げるなら、神の約束はどうなるのでしょうか?
しかし、アブラハムは何の言い訳もしないで聞き従いました。朝早く起きて、ろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行きました。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割り、神がお告げになった場所へ出かけて行きました(創世記22:3)。
このようにアブラハムが神のおことばに少しもためらわないで、すみやかに行なえた理由は何でしょうか? 神にはイサクを死者の中からよみがえらせることもできると考え(ヘブル11:17-19)、決して良くないことを指示されるはずがないと、確かに信じたからです。


3. 従順の祝福と不従順の苦しみ

アブラハムはこのような信仰をもって従ったので、信仰の父になり、神の友と呼ばれ、彼の名は祝福となることができました。アブラハムが受けた祝福はまことに大きかったのです。その権威は、王たちが彼を出迎えるほどでした。エジプトの王パロがそうだったし、ペリシテの山岳都市、ゲラルの王アビメレクもそうでした。家畜と銀と金とに非常に富んでいて、周りに水がない時にも、彼には水がありました。ソドムに住んでいたロトがとりこになったとき、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、行って彼を取り戻すほど多くのしもべがいたし、子どもの祝福と健康、長寿の祝福も受けました。その他にも、神が彼にご自分が今後しようとしていることを詳しく説明してくださるほど、霊的な祝福まで受けました(創世記18:17)。アブラハムが受けた祝福を見ると、神は聞き従う人をどれほど喜ばれて、その人を祝福されるか、よくわかります。
ある人は、神のみことばに聞き従うことは難しくてつらいと言います。しかし、それは決して難しいことではありません。人が聞き従えないのは、自分の思いと心、自分の計算に従って行なうからです。ただ聞き従う心を持った人は、自分の利益や今の状況を計算しないで、「私はどうすれば聞き従えるか」と考えるだけです。このように思いを打ち砕いて聞き従うと、驚くべき神のみわざが体験できます。
反対に、神が不従順をどれほど嫌われるか、それによって私たちにどれほど苦しみをもたらすのか、悟らなければなりません。アダムの子カインは、血のいけにえをささげなければならないことを知っていながらも、自分の思いどおり地の作物から主へのささげ物を持って来ました。しかし、弟アベルは羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持って来ました。神はアベルとそのささげ物だけに目を留められました。カインはこれをねたんで弟に襲いかかり、彼を殺してしまいました。不従順が殺人を生み、呪われた人生が始まったのです。
サウル王はどうだったでしょうか? イスラエルがペリシテと戦争をしなければならないのに、預言者サムエルが定めた日まで来ないので、彼の代わりに自分が全焼のいけにえをささげました。このことでサムエルはサウル王を責めましたが、それでもサウルは悟れなくて、再び不従順の罪を犯します。神がアマレクを聖絶せよと仰せられましたが、良いものは残して、すべてを聖絶しなかったのです。サムエルは再びサウル王を責めて、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル15:22-23)と言いました。このように、聞き従わない人々は、サウル王のように自分の地位を失って滅びに向かったり、さまざまな災いにあったりするのが見られます。
しかし、ツァレファテのやもめやナアマン将軍のように、預言者の言葉に聞き従った人々は、生きるか死ぬかの峠を越えて、心の願いに答えられます。食べる物がなくて死のうとしていたツァレファテのやもめは、預言者エリヤの言葉に聞き従って、日照りが終わる日まで何の心配もなく生きました。ハンセン病にかかったナアマン将軍は、預言者エリシャの言葉に聞き従って、完全にいやされました。この他にも、神は聞き従うところではどこでも、驚くべき祝福をもって働かれます。
したがって、アブラハムのように、ただ信仰によってさまざまの思弁とすべてのはかりごとを打ち砕いて、みことばに聞き従い、神に喜ばれれば、たましいに幸いを得ている祝福はもちろん、子どもの祝福、物質の祝福、健康の祝福など、求めるものは何でもいただくことができます。


* まとめと適用

1. <マルコ9:23>をみんなで覚えてみましょう。

2. まことの従順とは何であり、聞き従えない理由は何でしょうか?

3. 信仰生活をしながら、みことばに聞き従った時と、聞き従わなかった時の実がどうだったのか、分かち合ってみましょう。

4. 私たちの人生で、自分の力が及ばないからといって、やってみさえしなかったことがなかったでしょうか? 今からでも神にゆだねて行なえるように努力してみましょう。


* 今週の課題
私たちの生死禍福をつかさどられる神について考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「全焼のいけにえ」とは?
旧約時代のいけにえの一つで、ささげる動物を火に焼いて、そのなだめのかおりを神の御前にささげるいけにえである(レビ1:6-9)。いけにえになる動物は傷のない雄にだけ限り、おもに牛、羊、やぎなどをささげた。貧しい者たちは山鳩、家鳩などをささげることもあった(レビ5:7)。動物をほふって全焼のいけにえとしてささげることは、私たちのいのちそのものを神にささげるという意味である。したがって、全焼のいけにえの霊的な意味は、みことばの中に完全にとどまり、聖められた生き方をして、すべての人生を神の御前にささげることである。今日の全焼のいけにえは、私たちが神の御前にささげる主日礼拝のことである。

 
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