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| 万民ニュース   第 102 号 | HIT 7746 | DATE 2011-04-24
 
[企画特集] 口から出す言葉に気をつけていますか?



言葉には、口から出してよい言葉とよくない言葉がある。時と場所、それを聞く相手に合わせて、適切な言葉を口にしなければならない。[箴言10:19]に「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」とある。いくら良い言葉でも、自制しないで口に出せば、かえって恵み深くない。自分のほうは良い意図で言ったとしても、相手は良いと受け取れないこともある。
[マタイ15:18]に「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。」とあり、[マタイ12:35]には「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」とある。特に行いで罪を犯さなかったとしても、口から出る言葉に気をつけないことによって、答えと祝福を遅らせることもある。
[箴言13:2]に「人はその口の実によって良いものを食べ、」とある。自分の口から出す言葉をチェックして、口に見張りを置き、祈って求めるものなら何でも答えられますように。


あらゆるむだな言葉 No!

[マタイ12:36]に「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」とある。もちろん、悔い改めて立ち返るとき、すべての罪が赦されるが、問題は無神経に吐き出した言葉は自分も忘れてしまうということだ。これは私たちがむだな言葉を口に出してはならない重要な理由になる。
嘘はむだなだけでなく、自分と相手にとっても害になる。相手が嘘を事実と信じれば、物質的にも精神的にも被害をこうむることがある。嘘をつくこと自体が自分にとっては神の御前で罪になる。いくらささいなことといっても、嘘で言い逃れたり隠そうとしてはならない。
質問と全然関係ない的外れな答えをすることもある。特に信仰上の問題でアドバイスをするとき、相談に来た人を助けるためには、その人の問題の原因を把握しなければならない。ところが、的外れな答えをすれば、把握が難しくて、問題が円滑に解決できない。
的外れな答えには嘘もあって、他人のせいにする言葉、言い訳もある。自分に嘘をつく心が全くないならば、的外れな答えは出てこない。多くの場合、相手の話に集中しないで、自分の思いの中で聞いているので、的外れな答えをするようになる。したがって、相手の話に耳を傾けて聞くことだけでも、的外れな答えが減らせる。
冗談とは「遊びでいう言葉。ふざけた内容の話」のことだ。事実をふくらませた話と、全く理屈に合わないむだな言葉もある。冗談をよく言う人は軽く見られて、信頼されないので、秘密の話をしたり重要なことを任せにくい。[エペソ5:4]に、神に愛されている子どもたちには「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と勧めている。
世の流行語には世の風潮が含まれている。したがって、自分も知らない間に世の風潮に染まるようになる。たとえどんな悪意も含まれていない流行語でも、天国の新しいエルサレムを望んでいる聖徒ならば、使わないことが望ましい。特に教会の庭を含め聖殿の中では、世的な話を慎むべきである。


恵みと徳になる言葉 Yes!

[エペソ4:29]には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とある。
このように、聞く人に恵みを与えて、徳を養うのに役立つ言葉が益になる言葉である。また、神に栄光を帰す言葉、信仰を植えつける言葉、いのちを生かす言葉も益になる言葉だ。したがって、ある言葉を口に出すとき、はたしてその言葉が「自分と相手にとって益になるのか」を考える習慣を持たなければならない。


自分の分を越えた言葉 NO!

へりくだった人は自分の分を越えた言葉を口にしない。したがって、心が高くなった時に、自分の分を越えた言葉が出てきやすい。
たとえば、さばいて罪に定める言葉、誰かの悪口を言う言葉が出るのだ。これは自らさばく者になるようなものだ。ただ神だけがさばく者であられる(ヤコブ4:11-12)。まして神がともにおられて愛されるしもべをさばいて罪に定めれば、神にしたことと同じなので、もっと大きい罪になる。
また、不平、不満、恨みの言葉もある。神の子どもたちは神の恵みによって永遠に地獄の火から救われて、美しい天国に行くようになった。ところが、現実的に困難がやって来たからといって、環境を恨んだり誰かを恨んだら、これは救いの恵みを忘れたも同然である。自分の分をわきまえている人はどんな状況でもただ感謝が出てくるのだ。
神の働きを進める時も同じである。心がへりくだっていて、自分の分をわきまえている人は、どんなことを任せても感謝して受け入れて従う。神の働きができるということだけでも感謝するからだ。一方、「私がなんでこんな仕事をしなければならないのか」と言えば、それは自分の分を越える言葉だ。おとめマリヤは、御使いからおとめの身でみごもると言われても、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と言った。スロ・フェニキヤの女も、イエス様の前に徹底的に自分を低くして、変わらない信仰の告白で求めて答えられた(マタイ15:21-28)。


肯定的な言葉、信仰の告白 YES!

[箴言18:21]に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とある。日常生活で否定的な言葉はできるだけ使わないように努力して、肯定的な言葉、信仰の告白をする習慣を身につけなければならない。否定的な言葉は聞く人にも否定的な影響を与える。雰囲気を暗くして、頑張ろうという意欲を失わせる。反対に、肯定的な言葉は雰囲気を明るくする。できそうだと思う自信を持たせて、もう一度立ち上がれる力を与える。
少年ダビデはペリシテ人の代表戦士ゴリヤテと戦ったとき、目の前の現実を見たり、否定的な言葉は一切口にしなかった。ただ全能の神だけを仰いで、信仰の告白をしながら進んだ(第一サムエル17:45-47)。結局、ダビデは石投げと一つの石でゴリヤテを倒して、つらく苦しい戦争を勝利に導いた。
一方、カナンの地を探った十人の斥候の否定的な報告は、ほとんどの民に悪影響を及ぼした(民数記13:31-33)。否定的な言葉は信仰の弱い人々をつまずかせることもある。したがって、否定的な言葉が出ようとするとき、口にくつわをかけて、口の外に出さないようにする訓練をしてでも、いつも肯定的な信仰の告白をしなければならない。そうすれば、私たちの心も、周りの環境も変わるのだ。


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