new commer 初めてお越しの方の登録 | ホームページ管理人に
hide
ManminCentralChurch

黙示録講解 | 信仰を測ると | 創世記講解

 
banner
on air
Sermon
Official Service
 
メッセージ(date)
主日礼拝
主日夕方礼拝
金曜徹夜礼拝
メッセージ(date)
主日礼拝
主日夕方礼拝
金曜徹夜礼拝
Lecture
ヨハネの手紙第一
黙示録講解
創世記講解
Theme Sermons
十字架のことば
信仰の量り
十戒
愛の章
天国
地獄
Columns
cell bible
隠れたマナ
2019年
六日間のマナ・上
六日間のマナ・下
神の良きみこころ
信仰の量り
愛の章
御霊の実
神の七つの御霊
祝福の秘訣
クリスチャンの基本
わたしはそれをしましょう
義人は信仰によって生きる
八つの幸い
2010年
2009年
2008年
column
counselor
mis_cross_jp
MIS_Spirit
MIS_HolySpirit
MIS_HolySpirit
 
主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   十字架のことば(8) - なぜ、イエスは私たちの救い主となられるのか③  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   Ⅰコリ 2:6-9
Date
   2005-05-08


「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

<序論>

愛する聖徒の皆さん
またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして、全世界と全国の2500余り支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆さん、
最初の人アダムが善悪の知識の木を取って食べ、罪を犯してからは、アダムはもちろん、アダムの子孫まで罪人になりました。罪人になったすべての人類は、「罪から来る報酬は死です。」という霊界の法則のとおり、この地では悲しみ、涙、苦しみの中で生き、肉の寿命が尽きると、永遠な死にあい、地獄に行かなければならなくなりました。永遠に消えない火の池と硫黄の池に落ちて、とこしえに刑罰を受けるようになります。
しかし、神様は罪を犯した人類を救うために、救い主となられるイエス様を世界の始まる前から備えておかれました。
<使徒の働き16:31>に;「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言われたように、主イエス・キリストを信じる人は、地獄の刑罰をまぬかれて、天国に入れるように、救いの道を開いてくださいました。
ところが皆さんが伝道してみると、時々このように聞かれることもあります。「他の宗教もたくさんあるのに、なぜ必ずキリスト教を信じなければならないのですか?」 「イエス・キリストを信じなくても、善良に生きればいいんじゃないですか?」と言ったり、「歴史上立派な人物は多いのに、なぜイエス様だけが救い主になれるんですか?」と聞いたりします。
では、皆さんはこの質問に答えられるでしょうか?
<ヨハネ14:6>を見ると、「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」とあります。 また<使徒の働き4:12>には、「 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあります。
人が自分なりには、いくら善良に生きてきたと言っても、結局は原罪と自犯罪のある罪人なので、罪の報いである死の刑罰をまぬかれることはできません。ただイエス・キリストを信じてこそ救われて、また、イエス・キリストだけが霊界の法則により、救い主にふさわしい資格を備えた方であります。
それでは、救い主になれるのに、ふさわしい条件は果たして何でしょうか?
今日は、「十字架の道」八番目の時間として、この間に続き、なぜイエスだけが私たちの救い主になれるのかを語ります。愛する聖徒の皆さんは、お聞きになるみことばを通し、堅いみことばの岩の上に、皆さんの信仰を建てるように願います。
また、皆さんが出会うすべての人々にも、イエス・キリストが救い主となられたことを、明らかに説明して、多くの魂たちを救いの道に導けるように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、また視聴者の皆さん。
罪に堕ちた人類を救うためには、誰でも救い主になれるのではありません。霊界の法則により、救い主としてふさわしい資格を備えなければなりません。救い主としてふさわしい資格は、神様がイスラエルの民に与えられた律法の中で、土地の買い戻しの法則から探すことができます。
その内容は、イスラエルの民に分けられた土地は、神様の物であるから、永遠に売ることはできず、もし、持ち主が貧しくなって土地を売ったら、その人の親類が代わりにその代価を支払って、その土地を買い戻せるように定めておかれたということです。
最初の人アダムが神様の命令に逆らって罪を犯した時、その報いとして人は敵である悪魔に売られてしまいました。しかし、土地と同じように、土で造られた人も、やはり神様のものですから、永遠に売ることはできません。誰か資格を備えた人が来て、罪の代価を代わりに支払ってくれると、敵である悪魔は、罪の代価として売られた人を、返さなければなりません。
その資格というのは、第一に人でなければなりません。
イスラエルの土地の買い戻しの法則でも、売られた土地を買い戻せる人は、土地を売った人の親類でなければなりません。同じように、人の罪の代価を代わりに支払うことも、霊・魂・肉を持った人の親類でなければなりません。すなわち、天使でもなく、獣でもなく、必ず人でなければいけません。それでイエス様は神様の御子でありながら、肉をまとった人間として、この地にお生まれになったのです。
救い主になるための第二の条件は、アダムの子孫であってはならないことです。
アダムの子孫は皆、原罪を持って生まれます。もし、貧しくて土地を売った人に、親類があるといっても、その人もやはり貧しくて、お金がなければ、売られた土地を買い戻すことはできません。
同じように、原罪を持って生まれたアダムの子孫は、自分が罪人として地獄に行かなければならないので、他の人々の罪を贖うことはできません。
しかし、ただお一人、イエス様だけは人でありながら、アダムの子孫ではありません。男の精子と女の卵子が結びつき身ごもられたのでなく、おとめマリアのからだに、聖霊によって宿られたからです。
第三に、救い主になるためには、敵である悪魔に勝てる力がなければなりません。
戦争で敵に捕えられた捕虜を救おうとしても、敵に勝って捕虜を取り戻せる力がなければなりません。
霊界の法則では、罪がないことが力です。アダム以後のすべての人が、原罪と自犯罪を持った罪人として、敵である悪魔・サタンに服従しなければならなかったのですが、ただお一人、原罪も自犯罪もないイエス様は、敵である悪魔・サタンの死の権勢を破って、人類を救い出す力がありました。ここまでは、すでに申し上げた内容です。

そして第四に、人類の救い主になるためには、命まで与えられる愛がなければなりません。
兄弟の中で弟が借金で刑務所に行くようになった時、豊かな兄がいて、弟の借金を返せば、弟は刑務所に行かずにすみます。
ところが、兄がいくら金持ちであっても、愛がなければ、何の力にもなれません。「私はこれまでお金を儲けるために、ずい分苦労してきたのに、なぜお前のために、損害をこうむらなければならないんだ?」と、知らないふりをするでしょう。しかし、兄が弟を愛するなら、たとえ大きい損になるとしても、弟の借金を返してあげようとするはずです。
土地の買い戻しの法則でも同じです。貧しい人が土地を売った時、富んだ親類がいるならば、その人は土地を買い戻す資格もあって、また力もあります。
しかし、その親類がいくら富んでいても、愛がないので、親類の土地を買い戻さない、と言うなら、土地を買い戻すことはできません。親類に愛があって、相手を助けてあげようとする時こそ、土地の買い戻しが成り立ちます。
<ルツ記4章>にもこういう事が書かれています。
ナオミという女性は貧しくて、畑を売るようになりました。しかし、その土地を買い戻せる最も近い親類は、自分が損害をこうむらないように、土地の買い戻しを拒みました。
しかし、次に近い親類のボアズは、愛があるので、その土地を買い戻してあげました。もし、ボアズにも、愛がなかったら、土地の買い戻しを拒んだかもしれません。
人類の罪を贖うことも同じです。
イエス様は先に説明したように、人類の罪を贖う救い主の三つの条件をすべて備えられました。人としてお生まれになりましたが、アダムの子孫ではなかったので、原罪がありませんでした。原罪も自犯罪(自ら犯した罪)ありませんので、十分に敵である悪魔から罪人たちを救い出す霊的な力がありました。
しかし、もしイエス様に愛がなかったら、人類の罪を贖ってくださらなかったはずです。救い主となって、人類の罪を贖うためには、大きな犠牲を払わなければならないからです。救い主になるためには、必ず罪人たちの代わりに、死の刑罰を受けなければなりません。しかも最も凶悪な罪人のように、さげすまれて 軽んじられ、木の十字架にかけられて、水と血をすべて注ぎ出して処刑されなければなりません。
世の中には罪人を処刑する方法がいろいろありますが、霊的には、罪人の罪を贖う救い主は、ただ代わりに死ぬばかりでは、贖うことができません。霊界の法則にしたがって、必ず「木」にかけられなければならず、「血」を注ぎ出して死ななければなりません。
<ガラテヤ3:13>を見ると、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」とあります。
ここで「律法ののろい」というのは、<ローマ6:23>にある、「罪から来る報酬は死です。」という、霊界の法則を意味します。 霊界の法則により、罪を犯した人に「死」という、律法の呪いが臨んだので、救い主が律法の呪いから、人類を解放させる方法も、霊界の法則にしたがわなければなりません。すなわち、呪われた人がかけられなければならない木に、救い主が代わりにかけられることが、霊界の法則であります。血を注ぎ出して死ななければならないことも同じです。<レビ17:14>には、「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」とあります。  <ヘブル9:22>にも、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。

人類は罪によって永遠の命を失いました。もちろん、この地に生きる間は、息もあって、肉の命はあるように見えますが、永遠に生きる真の命は失いました。霊的に、血は命そのものなので、救い主の血の注ぎ出しがあってこそ、罪人たちが罪の赦しを得て、命を得ることができるという意味です。もちろん誰でも木にかけられ、血を注ぎ出してくれるといって、人類の罪が赦されるのではありません。すでに説明したように、他の人の罪の報いを贖える血は、何の罪もない人の血でなければなりません。
罪の性質が全くなく、傷もしみもない清い血を注ぎ出さなければなりません。ところが罪のない人が、何のために他の人の代わりに、こうして残酷に殺されようとするのでしょうか。自分の命より相手をもっと愛する時、自分がどんな苦しみにあっても、相手を生かしたいと思う時でこそ、そのような犠牲を払うことができます。
私たちのイエス様は、私たちのためにこういう愛をくださいました。イエス様が受けられた十字架の処刑は、古代の処刑法の中でも最も残忍でむごいものであり、その苦しみは想像を超えるほどです。
もし、イエス様が私たちを愛されなかったら、不平を言ったり、恨んだりすることもありえます。「私に何の罪があって、あの悪い人々の代わりに、十字架にかけられなければならないのか? 私がなぜ罪人のために、その苦しみを受けなければならないのか?」と言って、十字架にかけられるのを拒んだかもしれません。
しかし、イエス様は私たちを愛されたので、黙々と苦難の道を歩まれ、残酷な木の十字架を背負って血を注ぎ出して亡くなりました。
また、父なる神様も、私たちをあまりにも愛されたので、ひとり子まで惜しまずに与えてくださいました。
<ローマ5:7- 8>を見ると、「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。
こういうたとえを一度考えてみましょう。ある国の王にとても愛しているひとり子がいるとします。ところがその民の中に凶悪な殺人者がいて、法によって死刑になるようになりました。この人が生きる方法は、罪のない人が代わりに死ぬことです。では、世の中のどんな王が、その殺人者を生かすために、罪のない自分のひとり子を死に差し出すでしょうか? 絶対にそうするはずがありません。ところが神様はそのようにされました。
この地の王たちとは比べられない、創造主なる神様が、罪人となった人類を救うために、罪のないひとり子を死の刑罰に差し出してくださいました。傷もしみもないひとり子イエス様を、私たちのために十字架に差し出してくださるので、私たちに対する大きい愛を明らかにしてくださいました。
イエス様が罪人の手に捕まり、むちに打たれて木の十字架にかけられて亡くなられた時、父なる神様の御心はどうだったでしょうか?極めて愛するひとり子が苦しむ時、これをご覧になる父なる神様もまた、心が裂けるような苦しみを受けられました。それにもかかわらず、罪人たちを救うために、ひとり子を与えてくださって、すべての悲しみと犠牲を耐え忍ばれたのです。
世の中に罪人のために、このような愛を与えられる人はいません。もちろん、めずらしいことですが、情け深い人のために、あるいは互いに愛する人のためには、命まで犠牲にする感動的な話が伝えられる場合はあります。
しかし、自分と全く関係のない、凶悪な罪人のために、何の条件もなく、命を与える愛は、世の中にありません。しかも自分は相手の病気を治してあげて、愛して善で応対したのに、自分を嫌って悪口を言って殺そうとするなら、そのような相手の代わりに、残酷な刑罰を受けようとする人はいません。
しかし、唯一イエス様だけはそうなさいました。とても大きい愛があったので、罪人たちのために、十字架の苦難の道を歩まれて、水と血をすべて注ぎ出して亡くなりました。
愛する聖徒の皆さん。<ヨハネ第一4:10>に、「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」と言われました。
私たちを救われた父なる神様の愛と主の愛は、世の中のどんな愛とも比べることが出来ません。私たちの命と持ち物をすべてささげると言っても、その恵みを十分に返せません。ですから、この愛を心から悟った人々は、いろいろ迫害されながらも、決して主の御名を否まず、結局、命をささげて殉教に至ったりもします。私たちがこの愛を悟るなら、世の中のどんな富と名誉を得るとしても、神様の愛を捨てることはできません。どんなに迫害されても、主の愛を捨てることはできず、両親・兄弟や子供、あるいは夫や妻を、神様と主よりもっと愛することはできません。
もちろん主を愛するといって、家族や他の人を愛さないわけではありません。主にあって以前よりさらに真実でさらに深い、霊的な愛を成し遂げるようになります。
世の中の愛は、いくら命を尽くして愛すると言っても、結局は自分の益を追って愛するので、時間が過ぎれば変わるのを見ます。
たとえば、恋愛の真っ最中は、「永遠にあなただけ愛します」、「私の命よりもっと愛します」と告白したりもします。しかし、このように熱く愛した人々も、時間が過ぎると、その愛が冷めて行き、変わるので、別れる場合がよくあります。別れた後には、また他の相手に会って、「あなただけを愛します」と告白します。長く付き合って愛して、ついに結婚までしたとしても、恋愛する時とは態度が変わります。
恋愛中は、一日中ずっと一緒にいて、家に帰ると、何時間も電話で話をしましたが、結婚してからは、「倦怠期」という言葉が出ます。結婚する前は、相手の益をまず求めましたが、今は自分の益をまず求め、何か問題があったら、互いに相手のせいにします。 そうするうちに結局は、敵のように仲が悪くなり、離婚に達する場合もよくあります。
両親と子供の間も同じです。子供たちが幼い時は、世の中で両親を第一に愛して、一生、親孝行して生きそうですが、大きくなって配偶者と自分の子供ができれば、両親は後になる場合がよくあります。貧しくて病気にかかった両親を養いたくなくて、兄弟どうし争うこともあり、いろいろ悲劇的な事件が起こったりもします。
両親の愛も、ある面では、自分の全てを犠牲にして、子供のために献身するようですが、これもまた自分の益に合わない時は変わります。子供が大きくなり、両親と子供の間に意見の衝突があって、子供が両親にはなはださびしい思いをさせると、縁を切るようなこともあります。
しかし神様の愛は変わる愛ではなく、自分の益を求める愛でもありません。神様に不順従で敵対する罪人たちのために、ひとり子まで与えてくださった愛であり、自分たちのために来られた救い主をからかって釘つけて殺す罪人たちに対しても、「彼らをお赦しください。」と求めながら、命まですべて与えられた真実な愛です。
主にあって信仰の兄弟どうしが愛しあう霊的な愛もまた、時間が経つにつれてさらに深くなって、さらに美しく昇華される愛です。自分の利益を求めず、相手のために命まで犠牲できる愛です。
ですから聖徒の皆さんは、主を愛すれば愛するほど、夫婦の間でもさらに相手の利益を求めて仕えて、ご両親にもさらに心を尽くして、霊・肉ともに仕え、ますます穏やかで幸せな家庭をつくらなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、
今までイエスが私たちの救い主になれる、四つの条件に関して説明しました。イエス様は人としてこの地にお生まれになり、アダムの子孫ではなく、罪がないので、敵の悪魔に勝つ力があります。そして命を与えられる愛を持って、十字架にかけられて血を注ぎ出して亡くなり、私たちの罪を贖ってくださいました。
それでは、私たちはどうすれば良いでしょうか?
イエス様が罪人たちの罪を贖うために亡くなられましたが、かと言って、すべての人々が救われるわけではありません。イエス様が救いの道を開いておかれても、人がその道を歩まずに続けて滅びの道を歩むなら、結局、滅びに至るようになります。
伝道する人の話を信じて、救いの道へと出てくる時こそ、救われます。イエス・キリストを救い主として信じる信仰が、私たちを救いの道に導きます。では、私たちがイエス・キリストを信じると言って、どのように救いの道に行けるのでしょうか?これについては、次の時間に語ります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、また視聴者の皆さん。
<ヨハネ3:16>に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。人類の歴史上、いくら優れて立派な人でも、イエス様の他には救い主の四つの条件を全部備えた人はいません。ただイエス様だけが救い主のすべての条件にふさわしく、罪人になった私と皆さんを愛されるので、私たちが受けなければならない死の刑罰を代わりに受けて亡くなられました。
神様は世界の始まる前、人間を創造される前から、すでに救い主イエス・キリストについての計画を持っておられました。
愛を分かち合う真の子供を得るために、神様の形にアダムをお造りなり、アダムに極めて大きい愛と恵みを与えようとされましたが、アダムが結局、神様の命令に逆らって滅びの道を行くことをご存知であったからです。
神様はこのように神様の愛を捨てて、滅びへ向かう人類を救うために、霊界の法則に完ぺきに適う救い主を、初めから備えられました。それで時が来ると、イエス様をこの地に遣わして、何の罪もないひとり子イエス様に、罪人たちの代わりに、十字架の刑罰を受けるようにされました。
私たちに救いの道を開いてくださるために、愛するひとり子の命をもって、私たちの命の代価を払ってくださいました。
私たちがこのような父なる神様の愛と主の愛を心から悟る時、私たちは世の中の誰よりも、神様と主を愛すべきことを悟るようになります。この愛を悟ると、どんな試み、艱難があっても、愛する主を離れることはできません。いかなる富と栄華と誘惑があっても、神様から離れることはできないのです。
皆さんがこのように恵みを悟って神様を愛する時、神様はより一層深い愛で共におられ、毎瞬間皆さんの人生の中で、生きておられる神様のみわざを体験するようにされます。また、終わりの日には天国に導き、永遠な幸せを受けるようにしてくださいます。
愛する聖徒の皆さんは、ただイエス・キリストだけが私たちの救い主になられるということを、確実に覚えるように願います。そして罪人たちのために、ひとり子を差し出してくださった父なる神様の愛と、私たちのために命を与えられたイエス・キリストの愛を、心に深く刻んでおかれるように願います。それで行く所ごとにキリストの香りを発して、多くの魂たちを救いの道に導けるように、主の御名で祈ります。

 
ManminCentralChurch
73, Yeouidaebang-ro 22-gil, Dongjak-gu, Seoul, Korea
- tel 82-2-818-7000 - fax 82-2-851-3846
COPYRIGHT MANMIN CENTRAL CHURCH, ALL RIGHTS RESERVED