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Title
   十字架のことば(17) - 架上の七言(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハ 19:26-27, マタ 27:46
Date
   2005-08-07


<本文>

<ヨハネ19:26 -27>
 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

<マタイ27:46>
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして、全世界と全国の2600余りの支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、全世界でインターネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆様、<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様、

今日は、本文のみことばに入る前に、昔話を一つ紹介いたします。
昔、昔、アマガエルの母と子がいました。
ところが、このアマガエルの息子がお母さんの言うことにどんなに不順従なのか、すべてを逆に行いました。「しなさい」と言うと、しなくて、「してはいけない」と言うと、して、「東へ行きなさい」と言うなら、西の方へ行くのでした。
この息子のゆえに、一生苦労をした母さんアマガエルがついに臨終を迎えて、遺言を残しました。その内容は、「母さんの墓を絶対山に作らずに、川岸に作りなさい」というものでした。墓を山に作らずに川岸に作るなら、梅雨の時期、洪水で流されやすいです。
しかし、お母さんの言うことに逆だけをする息子なので、今回も、「墓を川岸に作りなさい」と言うなら山に作るだろう、と思ったので、このように遺言を逆に言ったのです。
ところが、母さんアマガエルが死んだ後、息子のアマガエルは、遅ればせながら後悔します。「私が一生お母さんに不順従だったので、どうしたらこの罪を洗えるのだろう」と嘆きながら、最後の遺言だけでも従おうと思い、川岸にお母さんを丁重に葬りました。
そして、梅雨になると、「お母さんの墓が流されればどうしよう」と心配で、「ゲロゲロ、ケロケロ!」と騒がしく鳴くのだということです。
もちろん、これは人が作り出した話ですが、この中でも教訓が得られます。人は一生のうちたくさんの話をしながら生きますが、その中でも、人生の最後に残す遺言は、世の人々も大変重要に思います。
親不孝で放蕩に生きた子供たちも、両親の遺言には何としても従おうとする場合が多く、両親も子供に遺言を残す時は、子供に絶対に必要で、益になるようなものを残そうとします。
ところが、肉の親とは比べられないほど私たちを愛される方が、私たちの神様であり、また主イエス様であります。そのイエス様が、十字架を背負って亡くなられる前に、最後の力を尽くして私たちに残されたみことばが、まさに架上の七言です。
今日は、「十字架の道」十六番目のみことばで、架上の七言のうち、三番目のみことばから語ります。愛する聖徒の皆さんは、語られるみことばを通し、イエス様が残された大切なみことばを、一つ一つ心に深く刻むようお願いします。
それで、私たちのために命を与えられたイエス様の愛の中に、完全に留まる皆様になられることを、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、架上の七言の三番目のみことばは、<ヨハネ19:26- 27>にあります。
「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
ここで、「そこに、あなたの息子がいます。」と言われた時、「息子」とは、イエス様ご自身ではなく、そばに立っていた弟子ヨハネのことを言われたのであり、マリアにヨハネを息子のように思うように頼まれたということです。
そしてヨハネには、マリアについて、「あなたの母がいます。」と言われました。ヨハネはその時から、マリアを自分の家に引き取って、母のように仕えました。
ここでまず私たちが覚えなければならないことは、イエス様がマリアを「お母さん」ではなく、「女の方」と呼ばれたということです。
本文<26節>に、「母と、そばに立っている愛する弟子とを見て」とあるのは、イエス様がおとめマリアを「母」と呼ばれた、という意味ではありません。これは弟子のヨハネの立場で記録したものです。
聖書には、イエス様がおとめマリアを「お母さん」と呼ばれた記録がありません。
例えば<ヨハネ2章>に、水でぶどう酒を作られた時も、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と言われ、マリアに向かって「女の方」と呼ばれました。
これはおとめマリアが、決してイエス様の母になれないからです。イエス様は父なる神様と根本一つであり、三位一体の神様のお一人であります。創造主なる神様には、母親がありえません。
<出エジプト3:14>に、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」とおっしゃいました。誰かが神様を生んだのでもなく、神様を作り出したのでもないのです。神様は永遠の前から永遠の後まで、「わたしはある。」という方です。
したがって、 神の御姿であられるイエス様が、被造物であるおとめマリアを「お母さん」と呼ぶことはできません。
遺伝的にも、おとめマリアはイエス様の母になれないのです。人が母の胎内に宿る時は、父の精子と母の卵子が結合して宿ります。その精子と卵子の中に、両親のすべての「気」が集約されています。
ところが、イエス様の場合は、マリアがイエス様を生んだとしても、マリアの卵子を通して、イエス様が宿られたのではありません。イエス様は、マリアのからだを借りて生まれただけで、宿られる時は、聖霊の御力によって宿られました。
たとえば、赤ちゃんが保育器の中で育ったからといって、保育器が赤ちゃんの両親になることはできません。
同じように、マリアが神様の御子であるイエス様の母になることはできません。神様は、神様の子供たちが「わたしはある。」という方、御父、御子、御霊の神だけに仕えて崇めることを願われます。
それで<出エジプト20:3- 5節前半節>に、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」とあります。
「私はある。」と言われる方である神様のほかには、どんな被造物も、その形を作り、拝み仕えてはならないのです。

次に、イエス様がおとめマリアに、「そこに、あなたの息子がいます。」と言われたことは、マリアを慰めておられるみことばです。
愛するイエス様が苦難を受けられるのを見る時、マリアはまるで剣で心が刺し貫かれるような苦しみを受けていました。心細やかなイエス様は、こういうマリアを覚えて、最後の瞬間までマリアを慰められ、弟子のヨハネを本当の息子のように頼るように、と言われたのであります。
そしてヨハネには、「そこに、あなたの母がいます。」と言われ、母のようにマリアに仕えるように頼みました。
マリアはおとめとしてイエス様を生んだ後、夫であるヨセフと一緒になり、子供たちを生みました。しかし、イエス様はマリアの子供たちでなく、弟子ヨハネに、「あなたの母がいます。」と頼まれました。
ここで私たちは、「私たちの真の所属」がどこなのかを悟らなければなりません。
<ピリピ3:20>に、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。このように、救われた私たちは、国籍が天にある、天国の民です。
人が主を迎え入れる瞬間、あたかも赤ちゃんが生まれて出生届けを出すように、その名前が天国のいのちの書に記録されます。
いのちの書に記された天国の民のお父さまは、神様であり、天国の民たちの真の兄弟・姉妹は、主を信じる神様の子供たちであります。
それでは、確かに肉の両親が私たちを生んだのに、なぜ神様を私たちの「お父さま」というのでしょうか?これは、私たちの命の根源が、神様から来たためです。
私たちのからだを生んだのは肉の両親ですが、根本的に、両親の精子と卵子も神様が与えられたものです。
お父さんのお父さん、そのお父さん、このように遡っていくなら、結局、私たちの先祖はアダムであります。人類の先祖であるアダムの命は、神様から与えられました。神様が直接アダムのからだをお造りになり、その中にいのちの息を吹き込まれました。ですから結局は、根本的に私たちの生命は、神様から与えられたのです。
また、人が結婚して子供を生むといっても、神様が許されなければ、命を身ごもることはできません。また、胎に宿った子供に霊と魂を与えられるのも、神様の主管によります。
(今日科学が発達するにつれ、遺伝工学で人類を複製する技術に対して、多くの論議があるのも見ます。→バイオテクノロジーでクローン人間を作る)
しかし、今後、いくら遺伝工学が発達しても、人の霊と魂を作り出すことは、永遠にできません。仮に、人の形、つまり、からだは複製できるとしても、神様がその中に霊を与えられないから、その複製された形は獣にすぎないのであり、真の人とはいえません。)
また、身ごもった子供の性別や性質、容貌も両親の願うままにできるのではありません。ただお一人、神様だけが人の命をつかさどることができます。
本教会では、子供ができなかった夫婦が、神様の御力で子供を授かった例が、とてもたくさんあります。
この方々は、結婚して3年、5年、7年、はなはだしきは10年以上も子供ができないので、病院に行くなど、あらゆる方法を使ってみましたが、結局子供ができなかった方々でした。
ところが、私に現れる神様の御力を聞いて、信仰を持って出てきて祈りを受けた時、神様の御わざで身ごもるようになりました。
特に、1993年のリバイバル聖会の時は、神様が私に働きかけられて、参加した聖徒たちに「身ごもりの祝福」を宣言して祈るように働かれ、数十組の夫婦がほぼ同じ時期に身ごもるようになりました。
それで4、5年後、本教会の付属幼稚園、万民宣教院には、そのリバイバル聖会を通して生まれた子供たちが、一度に入学する恵みがあふれたこともありました。

このように神様に頼り、子供を授かる祝福を受けた、一組の夫婦の証を紹介いたします。
本教会のイ・ジェション、ショル・ヒスク執事夫妻は、本教会に来る前、結婚して7年も子供ができなかったのです。そうするうちに、彼らは本教会のリバイバル聖会に参加して、生きておられる神様に出会う体験をしました。奥さんは5年間苦しんだ「蓄膿症」がいやされて、ご主人も長く病んでいた「十二指腸潰瘍」がいやされました。
このような体験を通し、信仰が成長した?夫婦は、今度は神様の御わざで子供を授かることを願い、私の前に来て、祈りを受けました。神様は答えられて、結婚して7年目に、可愛い娘を与えられました。
こういう過程を通して得た大切な赤ちゃんが、11ケ月になった時のことです。お母さんがしばらく目を離したすきに、何と赤ちゃんは、2センチもある押しピンをつかんで、飲み込んでしまいました。
鋭い押しピンが食道に入ると、子供は息が止まるほど泣きだして、状況を悟ったお母さんは、急いで子供を抱いて、録音された電話のいやしの祈りを受けました。
祈りを受けたら、赤ちゃんはがたちまち泣きやんで、ニコニコ笑いながら遊び始めました。
しばらくたってから、赤ちゃんの便を見たら、押しピンがその中にありました。鋭い押しピンが赤ちゃんの弱い臓器を通過する間、赤ちゃんが全く傷つかないように、神様が守ってくださったのです。
愛する聖徒の皆さん、人に霊と魂を与えられる方も神様であり、生死禍福をつかさどる方も神様であり、こういう神様が私たちのお父さまになられます。
ところが、神様を信じないで、世の中の欲を追って生きていく人々は、神様を「お父さん」と呼ぶことはできません。
聖書にはこういう人々について、「あなたがたの父は悪魔である」とおっしゃっています。
<ヨハネ8:44>に、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」とあります。
世の中の人々は、悪魔が惑わすままに罪を犯して生き、世の終わりの日には、地獄の火に投げ込まれます。しかし、神様を「お父さま」と呼ぶ聖徒たちは、永遠に天国に留まります。
ですから、この地では互いに血縁関係で結ばれた家族だといっても、主を信じない家族は、天国で永遠に一緒に留まるのではありません。
この世の人生を終えれば、地獄と天国に分けられて、その行き先が永遠に変わるからです。
<マタイ12:48- 50>にも、「しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。『わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。』 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」とあります。

主を信じる聖徒であってこそ、将来、天国で永遠に一緒に暮らすようになる、真の家族である、ということを言っておられます。
かと言って、これは、肉の両親、兄弟を愛してはいけない、という意味ではありません。肉の家族には当然愛して仕えるべきですが、ただし、この愛は神様の御前にふさわしい霊の愛でなければなりません。
もし、家族が神様を妨害して、神様の御心に逆らうようにするなら、こういう時には、家族に合わせることが、真の愛ではありません。
例えば、ご両親が「今度の主日は、家の手伝いをしなければならないから、教会に行くな」と言われるなら、そのまま従うでしょうか?また、肉の兄弟が罪を犯しながら、「一緒に罪を犯して楽しもう」と言えば、兄弟を楽しませるために従うことができるでしょうか?
これは愛でなく、一緒に死の道を歩むことです。それで、<マタイ10:37>に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われました。肉の両親、兄弟も愛すべきですが、必ず真理の中で愛して仕えなければなりません。
また、肉の両親と家族を愛するなら、何よりも、彼らも一緒に救われて天国に行けるように、伝道しなければなりません。それで永遠な天国で一緒に住める、真の家族にならなければなりません。
架上の七言の三番目のみことばには、このように悲しむマリアの心を慰めようとする、イエス様の愛が含まれていて、また、救われた私たちの所属は天国にあり、私たちの真の家族は、主にあっての兄弟・姉妹であることを教えてくださるのです。

次に、架上の七言の四番目のみことばは、<マタイ27:46>にあります。
 「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」とあります。その時が「三時ごろ」と言われています。
<マルコ15:25>に、「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」とあり、今の時間で、午前九時頃に十字架につけられました。それで三時になったということは、苛酷な苦しみの中で血を流しながら、六時間もつけられておられた、ということです。
ある者は、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言われた意味を、「イエス様が激しい苦しみを受けて、神様を恨まれているのだ」と誤解したりします。
しかし、イエス様は、神様を恨まれたり、苦しんで嘆かれたりしたのではありません。イエス様は、この地に来られる前から、すでに今後なされることを皆ご存知であり、十字架の苦しみについて知っておられました。それでも、御父のご摂理を成し遂げるために、喜んで十字架の道を選ばれました。
そのイエス様が、しかも、すべての苦しみが終る時になって、神様を恨まれるはずがありません。このみことばには、恨みや嘆きでなく、重要な霊的な意味があります。
まず、この時、イエス様は「大声で叫ばれた。」とあります。
イエス様は、このように大声を出されるほどの気力は残っていなかったのです。夜通し連れ回されて尋問を受けられ、激しいむち打ちにあわれました。何度も倒れながら、重い十字架を背負ってゴルゴタの丘を上られました。
こういう状態で十字架にかけられて、六時間も血を流しながら、かけられておられます。ですから、小さい声でおっしゃるのも難しいのに、力を尽くして大声で叫ばれています。
これは、すべての人々が、このみことばを聞いて悟らなければならないからです。「なぜイエス様が神様に捨てらなければならなかったのか」、「なぜ残酷な十字架にかけられねばならなかったのか」、すべての人々が聞いて悟ることを願われました。
今イエス様は、呪われた十字架にかけられるまで、神様から徹底的に捨てられたのです。その理由は何でしょうか?
まさに、罪人となったすべての人類の罪を贖われるためでした。私たちが律法の呪いによって、神様から捨てられる運命であったのに、イエス様がその呪いを代わりに受けて、神様から捨てられたのです。地獄に行くべきだった私たちを救われ、天国に導くために、イエス様が代わりに亡くなられました。こういう意味をすべての人々が悟ることを願われるので、イエス様は全力を尽くして叫んでおられます。
愛する聖徒の皆さん、聖書を見ると、イエス様は神様を呼ばれる時、常に親しく「父よ。」と呼ばれました。
人々が神様を信じて祈り始める時、初めは「神様」と呼びます。そして信仰が大きくなるほど、次第に「父なる神様」と呼びます。神様がお父さまであることが心から信じられるために、自然に「父」という表現を使うようになります。
さらに深く神様を愛して交わる人々は、「神様」とも呼ばずに、ただ、「お父さま」、あるいは、「アバ、父」と表現します。とても親しくて愛するお父さまなので、あえて「神様」という御名もあまり付けないのです。それほど神様との間に、個人的で親しい関係が作られたということです。
例えば、大企業の会長の息子が、系列会社の社長だとしましょう。すると、社長である息子が会長を呼ぶ時、公式には、「会長」と言うけれど、私的には、「お父さん」と言います。もし、私的にも「会長」と呼ぶなら、この親子は何かおかしい関係でしょう。
聖徒たちが神様を呼ぶ時も同じです。神様を愛して深い交わりのある子供たちは、祈る時、「お父さん」と親しく呼ぶようになります。
ただし、多くの人々が集まったところで、公式に代表の祈りをする時は、信仰が大きい人や小さい人、いろいろな人を代表するので、「神様」、または「父なる神様」と呼ぶ方が適切です。
イエス様は神様の御子として、常に深い愛を分かち合い、祈られる時もいつも「わが父よ」と呼ばれました。ところが本文では唯一「わが神」と呼んでおられます。その理由は何でしょうか?
これは、呪われた罪人の立場で、神様を呼ばれるからです。イエス様は今、人類のすべての呪いを代わりに負って、罪人の身で十字架にかけられました。
聖なる神様に向かい、罪人があえて「お父さま」と呼ぶことはできません。ですから、今イエス様も、罪人たちの代わりに捨てられて、十字架にかけられたことをおっしゃる場面では、「父」と呼ばずに、「神様」と呼ばれました。
皆さんも同じです。主を信じると言いながら、相変らず罪の中を歩む時は、神様の子供として堂々と祈ることができません。
神様の御心通りに生きず、神様の敵である悪魔・サタンが惑わすままに生きていきながら、神様を大胆に「お父さん」と呼ぶことはできません。神様も「あなたは真に私の子供だ」と認められないのです。
イエス様は何の罪もない神様の御子でありながら、罪人たちの代わりに捨てられて、それによって「お父さま」と呼ぶこともできなくなりました。
このように、イエス様が天のすべての栄光を捨てて、罪人のように捨てられた理由を悟らせるために、イエス様は力を尽くして大声で叫んでおられます。
「神様がなぜ私をお捨てになったのか分かるのか?」、「私がこのように捨てられたのは、あなたたちを愛して、あなたたちの罪を贖うためだ」と、すべての人々に知らせるためでした。
このように大きく叫ばれたもう一つ理由は、神様が罪人たちのために、ひとり子まで与えられたのに、相変らず数多くの人々がこれを知らずに、世の中と友になり、死の道に行くからです。
すべての魂たちが、イエス様が十字架にかけられた理由を悟り、救い主として迎え入れて、いのちを得ることを願われるので、このように大声で叫んでおられるのです。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、今日は、架上の七言の中で、三番目と四番目のみことばを語りました。
三番目は「そこに、あなたの息子がいます。」、「そこに、あなたの母がいます。」と言われたみことばです。このみことばを通して、私たち神様の子供たちの霊的な所属を教えてくださいました。つまり、救われた私たちの故郷は天国であり、私たちの真の兄弟・姉妹は、信仰の中での兄弟・姉妹であることを教えてくださいます。
四番目は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言われたことです。これはイエス様が罪人たちを救うために亡くなられたので、今は罪から離れて、いのちの道に行けるように、悟らせてくださったみことばです。
皆様が、イエス様が私たちの罪のために捨てられて、十字架で亡くなられたことを心から信じるなら、これ以上罪の中に留まらず、聖め別たれた人生を歩まなければなりません。それで、神様を「お父さま」と呼べる子供たちにならなければなりません。
また、この救いの道を世の中に熱心に伝えて、真理を知らずに死の道へ行く多くの魂たちを、救いの道に導かなければなりません。
愛する聖徒の皆さんは、イエス様が残されたすべてのみことばを悟って、心に深く刻み、毎日神様の御前にふさわしい人生になるようにお願いします。
それで将来、天国でも最も栄えある場所で、永遠に主と共に留まる皆様になられますよう、主の御名で祈ります。

 
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