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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰の量り(7) - 信仰の2段階  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3
Date
   2005-11-27


<本文>

<ローマ12:3>

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、そしてケニア、ウガンダ、コンゴなど、アフリカ諸国をはじめとする、全世界と全国の3900余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
先週は大学修学能力試験がありました。こういう大きい試験があると、試験を準備する学生たちは、ほんとうにたくさんの苦労と忍耐をしなければなりません。
受験生がいる両親は、少しでも成績を上げるために努力する子どもたちを見ると、とても不憫で可哀そうに思える時もあります。
けれども、そうだとしても、「誰々ちゃん、大変だから、もう試験をあきらめて遊びなさいね」とは言えないのです。試験をあきらめれば、すぐは楽になるかもしれませんが、何の実も得られないのです。
ですから、両親としては、むしろ子どもをもっと励まして、少しでも勉強するのに役に立つ環境を作ってあげようと努力します。
信仰の道を歩む聖徒の皆さんをご覧になる父なる神様の心もそうです。たとえ汗を流して苦労する耕作の過程を通らなければならないとしても、その過程をちゃんと通ってこそ、永遠な天国の栄光を受けるので、さらに熱心に歩むように励まされるのです。
<第一コリント15:19>に、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」とあります。
このみことばのように、世の中の人々が見ると、皆さんは本当に哀れな者に思われるかもしれません。世の中の人々が休んで遊ぶ主日に、皆さんはほとんど一日中、教会に来て礼拝をささげて集いを持ちます。
寒かろうが暑かろうが、雨が降っても雪が降っても、毎晩、幼い子どもたちをだっこしたりおんぶしたりしてまで、休まずに徹夜祈祷に来ます。
酒を飲んだりタバコを吸ったりせず、世の放蕩を楽しむこともないから、世の人々が見ると、「あの人たちは、いったい何の面白いことで生きているのだろうか」と言うでしょう。
職場でも、他の人々はいい加減に、適当にするのですが、信仰のある人は、常に誠実で正直に働くので、わざわざ苦労しているように見えます。
だれかが何の理由もなく右のほおを打っても、手向かうのではなく、左のほおを向けるから、愚か者のように見えたりします。
しかし、皆さんがこのように狭い道を歩んでも、可哀そうで愚かではありません。世の人々の目には難しく見えますが、この狭い道の最後には、栄えある天国の門が開かれているからです。
必ずその門に入るべきなので、神様は皆さんに「狭い道を歩みなさい」と言われ、その道をよく走って行けるように恵みと力を与えられます。
ところで、皆さんの心に信仰と希望が大きくなるほど、つまり、信仰の段階が上に上がるほど、天国へ行く道は狭い道でなく、ますます広い道に変わります。
だんだんと明らかに天国の門が見えて、その門に向かって妨げられることなく走って行けるので、信仰生活がますますやさしくなります。
愛する聖徒の皆さんは、今日も語られるみことばを通し、より大きい信仰を持ち、天国の希望がさらにあふれるよう願います。それで、毎日幸せに満たされて、天国の道を走って行く皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。今日は「信仰の量り」その七番目の時間で、信仰の二段階を説明します。
生まれたばかりの赤ちゃんの出生届けを出すように、人が主を信じて救われると、天国のいのちの書に名前が記されます。
このように救われて聖霊を受けて、神様の子どもとされると、創造主なる神様が信じられて、天国と地獄があることも信じられます。イエス・キリストが自分の救い主であることも心から信じられます。
しかしまだ真理をよく知らないために、世の人と区別された生活を送ることはできなくて、主を信じる前とあまり変わらない姿で教会に出席だけします。
そうするうちに、だんだん神様のみことばを聞き、真理のとおり生きるべきことを悟るようになります。すると学んだみことばどおり行おうと努力し始めます。この時からが信仰の二段階です。
信仰の二段階では、たとえみことばのとおり行おうと努力しても、完全に行えるのではありません。時にはみことばどおり行うけれど、時には罪を犯してはいけないと知っていながら、以前の生活どおり、罪を犯したりします。
ところが、同じ信仰の二段階であっても、人によって努力して行える程度が違います。一段階から今、二段階に入ってきたばかりの人でも、みことばのとおり行おうと努力はしますが、行えないことのほうがはるかに多い人もいます。努力するだけでなく、行える力がたくさんあって、一段階よりは三段階のほうにもっと近づいている人もいます。
ですから、二段階の中でも「私が10パーセントくらい成し遂げたのか、あるいは50パーセント程度は成し遂げたのか、80-90パーセント以上成し遂げて、3段階に間もなく行くのか」と、自ら信仰を見分けることができます。
愛する聖徒の皆さん。いくら大事な使命と職分を受けたとしても、相変らずみことばのとおり行えず、真理に逆らうもののうちを歩むなら、その人は信仰の二段階であり、子どもの信仰にすぎません。
主のしもべや長老、勧士であっても、区域長や教師であっても同じです。各人の心をご覧になる神様は、職分が何か、信仰生活が長いのか、聖書のみことばをたくさん知っていてよく教えられるのかなどをご覧になって、「信仰が大きい」と言われるのではありません。神様のみことばにどれくらい聞き従って行うのか、どれくらい真理の中にとどまるのかをご覧になります。
<第一コリント3:1 -3>に、「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」とあります。いまだに互いにねたみや争いがある、ということは、肉の行いさえ捨てられなかったという意味です。
そのような心と行いが出るなら、自分が肉に属していて、ただの人のように歩んでいます、信仰の二段階にいます、と自ら表しているのです。
もちろん、信仰生活を始めてあまり時間が経たない初心の者ならば、二段階の信仰の中でも努力するだけ、神様が恵みと力を与えられて、自分なりには聖霊に満たされることもできます。
しかし、信仰生活が長くて、職分もあるのに、数年過ぎても信仰の二段階にとどまっているならば、この場合は神様の前に隔ての壁を積み上げ続けていくことになります。長い間、神様のみことばを数えきれないほど聞いても、続けて聞かなかったように、みことばを無視していることなので、神様の前にどれくらい申し訳ないことでしょうか?
ですから、祈って礼拝をささげても、聖霊に満たされにくく、霊的な悟りもなかなか来ないのです。何かの病気や試練にあっても、神様の前に大胆になれないので、答えられる信仰が来ないのです。
<ヘブル5:12 -14>には、このような人々に、「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」とあります。
信仰の年輪があるので霊的にも明らかに悟り、深い霊の世界へすみやかに入るべきなのに、相変らず子どものような信仰にとどまっているから、このように責められるのです。
皆さんの中には、このように信仰の初歩段階だけにとどまっている方が一人もいないように願います。急流に乗って流れるように、すみやかにさらに深い霊の世界へ走って行く皆さんになられますように、主の御名でお願いします。
愛する聖徒の皆さん。それでは、信仰の二段階の人々は、天国でどんな場所と報いが受けられるでしょうか? 信仰の一段階はパラダイスにとどまり、家もなくて何の報いもない、と言いましたが、信仰の二段階は、一天層にとどまるようになります。一天層ではそれでも個人の家が与えられて、冠と報いがあります。
<第二テモテ2:5 -6>に、「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」とあります。
このように、信仰の競技を終えて、勝利して天国に入った聖徒たちは、天国で永遠の冠を受けるようになり、一天層の冠はまさに、「朽ちない冠」です。
<第一コリント9:25>に、「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とあります。
たとえ真理に逆らうことをすべて捨てたのではないとしても、神様のみことばを行おうとした、そのことだけでも朽ちない永遠なものを見つめて、信仰の競技に参加したことですから、朽ちない冠を下さるのです。
一天層では、家があっても宮殿のような一戸建てではなく、この地上の集合住宅や、アパートのような形の家です。
霊の目が開かれて天国を見たという方の中で「天国にもアパートがありました」とあかしする場合は、まさにこの一天層を見たことになります。
天国の家は、レンガとセメントではなく、純金と宝石のような天国の材料で建てられていて、上の層と下の層との間には、階段ではなく美しいエレベーターが設置されています。行き先を手で押さなくても、乗りさえすれば行きたい所で自然に止まります。
家の中に入ると、生活するのに何の不便もないほど、すべての物がよく備えられています。
たとえば、音楽の好きな人ならば、演奏できる楽器が備えられていて、本の好きな人の家には本があり、各自の好みによりゆっくり休む空間も作られています。
各々の家の主人の好みと趣味によって美しく飾られているので、たとえ一天層にいても、無限の喜びと満足があります。
しかし、一天層には、自分の家以外には個人で所有できる施設がありません。
たとえば、この地上でアパートの一棟に属する庭があったら、その庭はアパートに住む住民が共同で使うのと同じです。
広い庭も美しく作られていて、ゴルフ場、プール、運動施設などの共同施設は多いのですが、これらすべては個人的にではなく、みなが共同で使うものです。
一天層には個人的に仕える天使はいませんが、必要な場所に配置されていて、施設を管理して、神様の子どもたちが使う時は、全く不便がないように助けます。
ある人々は、「天国に行けば、永遠な歳月の間、何をして生きるのだろうか? 無数の歳月が過ぎていけば、退屈ではないだろうか?」と思うこともあります。
しかし、人がこの地上で楽しむことが天国にもあるだけでなく、さらに多様でさらに楽しいことがたくさんあります。
華麗な宴会はもちろん、スポーツやゲームも楽しめるし、娯楽施設と映画館や、いろいろな公演会場もあり、不思議で新しい霊の世界を絶えず探求して習ったりします。
また、天国には肉がないため変わることがないので、退屈というものもなく、毎瞬、いつも新しい喜びと幸せだけが満ち満ちています。
しかし、必ず覚えなければならないことは、いくら足りないことがなくて幸せなところだといっても、皆さんは一天層に満足してはいけない、ということです。
信仰の一段階が行くパラダイスだけでも、とても美しくうっとりするほどで、この地の最も良いところとも比べられない、と言いました。
ところが一天層とパラダイスの差もとても大きいのです。あえてたとえると、金魚鉢の金魚が受ける自由と、太平洋を泳ぐくじらが受ける自由との差のようです。
一天層と二天層の差はそれよりもっと大きくて、二天層と聖められた子どもたちが行く三天層の差は、天と地の差ほど、全く次元が違います。新しいエルサレムの幸せが三天層より大きいということは、さらに言う必要もありません。
ところが、限られたこの世のことばと概念では、パラダイスの美しさと幸せさえ生き生きと表現することができないのに、まして新しいエルサレムはどのように説明できるでしょうか?
父なる神様は、皆さんが最も良い新しいエルサレムまで激しく攻めて来ることを、切に待ち焦がれておられます。
ですから、パラダイスがいくら良くても、一天層がいくら良い、と言っても、皆さんはそこで止まってはいけません。二天層も通り過ぎて、三天層に入り、新しいエルサレムに到着する最後の瞬間まで、一生懸命に走って行かなければなりません。
愛する聖徒の皆さん。信仰の二段階では、神様のみことばのとおり行おうと努力するけれど、みことばの中に含まれたみこころを悟って行うのではありません。「神様のみことばがこれだ、みことばのとおり行わなければならない」と真理を学んだので、義務的にみことばに聞き従おうとするのです。
たとえば「安息日を守りなさい」と言われた時も、安息日を守らなければならない理由があります。安息日は神様が祝福された日であり、安息日を守ると、霊的に神様に属しているというあかしになるので、敵である悪魔・サタンが試練・患難をもたらすことができないのです。
このように安息日を守りなさい、と言われた意味を心から悟ると、そのみことばを守り行うことが難しくありません。喜びで主日を聖なる日として守り、神様の御前に出て来て礼拝をささげることも、賛美することも、聖徒と交わることも幸せでいっぱいになります。だれかが「主日に他のところに行こう」と言っても、悩むこともなく、「主日はだめだ」と思います。
しかし、聞いて知っているけれど、心から悟れない時は、ちょっと違います。主日になり、教会に行かなければなりませんが、家で休みたい気が起きて葛藤したり、友だちと遊びに行きたかったり、他の事をしたい誘惑が入ってきたりします。
このように、一方では主日を守りたくない心があって、同時に他の一方では「それでも主日を聖なる日として守るべきなのに」という心があって、二つの心が互いに葛藤を起こすようになります。
つまり、みことばのとおり行おうとする御霊の願いと、世の中を追って行きたい欲が自分の心の中で互いに戦うのです。
この時、世の中を追う心のほうがはるかに強ければ、教会に行こうとする心を簡単にしのいで、主日を守らない可能性が大きくなります。
しかし、御霊の願いのほうがもっと強ければ、世の情欲に簡単に勝つので、結局、主日を守れるようになります。
こういう戦いが最も激しい時は、二つの心の力が互いに等しくなる時です。真理の心でも、真理に逆らう心でも、片方の力のほうがはるかに強ければ、大きな葛藤はありません。真理の心が強ければ、真理のとおり簡単に行い、真理に逆らう心が強ければ、簡単にそちらを追って行くでしょう。
しかし、二段階の中ごろくらいに入って、真理と真理に逆らう心が等しくなると、ああしようか、こうしようか、と葛藤が激しくなります。
それで<ローマ7:24>に、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とあるように、苦渋に満ちた嘆きが出て来たり、信仰生活が辛く感じられたりします。
しかし、ずっとそのように辛いだけではありません。祈りながら努力していくだけ、そして一つ一つ御霊の願いを追って真理を行っていくだけ、真理に逆らおうとする心はますます勢力を失うようになります。
すると、反対に、真理を行おうとする心はますます大きくなるために、真理どおり行うことがさらにやさしくなり、そのように行うだけ、信仰生活もだんだん幸せに満たされるようになります。
こうしてみことばのとおり行える信仰になると、信仰の三段階に入るようになります。それで信仰の三段階は、「みことばどおり行う段階」とも言います。乳やおかゆを飲む段階を越えて、堅い食物を食べる段階の信仰に成熟するようになります。
信仰の三段階については、次の時間に語ります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。私は幼い時からある事をしようと一度心に決めたら、徹底して守ろうと努力をしました。他の人との約束だけでなく、自分との約束でも、もし破った時は食事をしないとか、自分なりに定めた罰を受けても、次には必ず守るように心に誓ってきました。
こういう習慣が重なって、信仰生活にも大きい益になりました。みことばを聞いて悟ると、直ちに行おうと心に決めて、一度心に決めれば、そのまま行っていったからです。
皆さんも信仰の段階をすみやかに突き抜けて入るためには、このように一度定めた心が変わることなく、そのまま行うことが大変重要です。
愛する聖徒の皆さんは、神様のみこころを悟るたびに、直ちに従って行い、その行いに変わりがないように願います。
そのような皆さんに神様が恵みと力を注がれて、より大きい信仰へ、霊の世界へとすみやかに導かれますように、主の御名で祈ります。

 
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