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主日礼拝
Title
   信仰の量り(9) - 信仰の3段階  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3
Date
   2005-12-11


<本文>

<ローマ12:3>

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルそしてケニア、ウガンダ、コンゴなどアフリカ諸国と、全世界、全国の3900余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
私は主のしもべになる前にも、暇さえあれば、あちこち祈梼院を尋ねて、断食と祈りをしました。
ある日、ある祈梼院に各地から牧会者たちが集まって、対話するのを聞いたことがありました。その対話の主題は、神様の子どもたちが十戒をすべて守れるか、ということでした。
結論はどうだったでしょうか? その方たちは結局、「人は十戒をすべて守ることはできない」という結論を出しました。「守ろうと努力はすべきだが、心から罪の性質が捨てられないので、完全に守ることはできない」ということでした。
たとえば、「姦淫してはならない」と言われると、行いとして罪を犯さないことはできるが、心の姦淫を捨てることはできない、と言うのです。
ところが、私はこの対話を聞いて、大変もどかしかったのです。「私は羊だが、十戒をすべて守って生きていくのに、あの方々は主のしもべなのに、なぜあのように言われるのだろう」と、理解できなかったのです。
<第一テサロニケ4:3>には、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」とあり、<マタイ5:48>には、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあります。
私たちが罪を捨てて、完全なものになり、聖められることが、父なる神様のみこころであり、私たちができないことを命じられたのではありません。私たちの力ではできないことも、神様の力にはできるために、信仰によって成し遂げるように命じられるのです。
ところが今日、教会を見ると、聖徒はもちろん、牧会者さえも、ほとんど心の罪の性質が捨てられないのです。行為的にはみことばどおり生きようと努力して、罪を犯さないようにする場合もありますが、心まで聖められることはできないのです。やっと信仰の二段階で、それより前に進まないのです。
ですから、全能な神様を信じるといっても、聖書にある神様のみわざを体験することができません。みことばどおり聞き従って、罪を捨てて信仰が成長してこそ、神様もその信仰どおり大きい御力のわざを施してくださいます。
ところが、聖徒の信仰が成長しないで、常に一段階、二段階にとどまっていると、神様も常にその信仰の量りに応じてしか働いてくださらないのです。
しかし、皆さんはみことばを通し、神様のみこころを学びました。行為に現れた罪だけでなく、心の罪まで捨てるべきであり、罪を捨てる分、信仰が成長するという事実がわかりました。
このようにみことばを通して変えられる分、皆さんの人生で、生きていて力がある神様のみことばが働かれるので、驚くべきみわざを体験するようになります。
それで、全知全能な神様が生きておられることを世の中に現すことができて、その子どもたちを祝福される愛の神様に、思いきり栄光をささげるのです。
愛する聖徒の皆さんは、きょうも語られるみことばを通し、自分の信仰の状態を顧みて、すみやかにより大きい信仰の段階に突き抜けて入るように願います。
それで、不可能のない神様のみわざを常に体験して、あかしがあふれる人生となって栄光を帰するように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。今日は「信仰の量り」九番目の時間で、この間に続き信仰の三段階について語ります。
信仰の三段階はみことばのとおり行える信仰だと言いました。
聖霊を受けてからし種ほど信仰が蒔かれると、信仰の一段階から信仰生活が始まります。その種から芽が出て育つと、行おうとする信仰ができて、行おうとする努力を通し、みことばを心で悟るだけ、行える信仰に成長するようになります。
行おうと努力する信仰の二段階と、行える信仰の三段階は、とても大きな差があります。二段階までは、みことばどおり歩もうと努力はしますが、完全に行う信仰ではないために、時には、世と教会に両てんびんをかけたように見えることもあります。
しかし、三段階からは、行いが変えられて、日常生活の中でも世の光と塩になるので、「教会に通う人はやはり何か違う」と言われるようになります。
何の理由もなく悪口を言われて叱られても、立ち向かって争わず、静かに黙っています。難しい問題が山積みになっていても、癇癪を起こしてつらく思うのではなく、どうしてでも喜んで感謝しようと努力します。だれもかれも自分の益をまず求めるこの世で、どうしてでも相手の益を求めてあげようとし、すべての人に仕えようと努力していきます。
ですから、信仰の三段階にいる人は、世の中の人々が見ても、「あの人は神様を信じるので、何かちょっと違う」と言うのです。
ところが、このように行えるためには、神様のみことばを聞いて頭だけで知っているのではなく、その意味が心から悟られなければならないと言いました。神様のみことばに聞き従うと、神様が約束どおり祝福されて、光の中でとどまるだけ、神様がともにおられて常に守ってくださる、ということが、心で確実に悟られなければなりません。
聖徒の皆さん。このようにみことばが心から悟られる時までは、自分の中で戦いがあります。それで、信仰の二段階にいる時は、信仰生活が難しいと言う場合がよくあります。世の中の習慣のように、飲みたくて吸いたいのですが、無理に断ち切ろうとすると大変です。憤って相手を殴りたいのですが、じっと我慢しなければならないので、苦しいのです。そのうちに耐えられなくて、罪を犯してしまった時は、聖霊がうめき、心が悩むので、また苦しいのです。
試練・患難にあうと、喜んで感謝すべきことは知っていますが、まだ苦しい現実がより大きく迫ってくるために、一つ一つ信仰で通過するまで大変苦労をします。
しかし、大変でも、みことばどおり歩むべきことがわかり、それでこそ天国に行けることがわかるので、続いて行おうと努力していきます。
このように努力をしていくと、ある瞬間からみことばの意味が悟られて、そのとおり行えば祝福、という事実が心から信じられるようになります。つまり信仰の三段階に入るのです。
信仰の三段階では、神様のみことばどおり行うことが自然にからだに慣れて、行うことができます。もちろん、この間に説明したように、三段階でもまだ肉的なことを捨てていく戦いがあって、しかも血を流すまで戦って捨てなければならないために、苦しくて悩む時もあります。
しかし、こういう戦いがあっても、肉の行いと戦う信仰の二段階とは、次元が違います。その中でも三段階の60パーセント以上に至り、信仰の岩の上に立ち始めれば、心からも罪の性質がかなり捨てられた状態になるので、みことばどおり行うことがあまり難しくありません。悪を行わないように一生懸命我慢するのではなく、心で罪の性質そのものを捨てていくために、悪を行わなくなります。
このように心で悟って行える信仰の三段階に入ってきて、しかも岩の上にたつと、信仰生活が難しくなく、むしろ一日一日が喜びで幸せです。
たとえてみましょうか? ボクシング競技でお互いの実力が似ているなら、戦いがとても激しいのです。自分が一回打つと相手も打ち、五回打てば相手も五回打ち返すので、激闘のあげく、時には勝ったり、時には負けたりします。
これがまさに二段階の信仰です。敵である悪魔・サタンと激しく戦って、勝つ時もあり、負ける時もあります。
ところが、二人の中一人が猛訓練をして、二人の実力差ができ始めれば、状況が変わります。十回打って五回くらい打たれるか、あるいは、十回打って一、二回だけ打たれたりすることもあります。打たれるのが多いか少ないかの差はありますが、試合は勝つことになり、実力があるほど打たれることが少なくなるので、難しくなくなります。
これがまさに信仰の三段階です。3段階の中でも四段階に近づくほど、ほとんど打たれず、打つばかりになって、心の戦いで簡単に勝てるのです。
いくら自分を苦しめる相手がいても、その人を愛することはできなくても、憎みません。急にお金が必要な時に道で財布を拾っても、「私が使おうか、この主人を探そうか」と深刻に葛藤するのではなく、当然主人を探す心に従うようになります。
かりに「主日を一日だけ守らないようにすれば、1億ウォンあげる」と言われても、そのようなことに惑わされません。信仰の三段階の入り口ならば、「一度だけ守らないのもいけないことだろうか」 「1億ウォンなら大きいお金なのに」と悩むかもしれませんが、結局はその思いを退けて、主日を守るのが信仰の三段階であります。
このように信仰の三段階に入って、肉的なことを一つ一つ捨てていくほど、信仰の三段階の半ばを過ぎて四段階に近づくほど、信仰生活がますますやさしく感じられます。
また、罪を捨てるほど、神様と明らかに交わり、神様の愛をさらに濃く感じられて、心から喜びと幸せが湧き出るのです。
愛する聖徒の皆さん。<第一ヨハネ2:14後半>に、 「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 」とあります。
ここで言う若い者たちの信仰は、まさに信仰の三段階にあたります。神様のみことばがそのうちにとどまり、常にみことばどおり行えて、そのみことばの剣で悪い者、つまり、敵である悪魔・サタンに勝つ信仰です。
ですから、ある苦しみにあったと言って、ずっと顔が暗くて悩みがいっぱいなら、こういう人は三段階だと言えないのです。
信仰の三段階は、しばらくは心配と憂いが生じるとしても、すぐ思いを変えて、神様に頼ろうと努力して、感謝の祈りをささげます。すべてのことを働かせて益としてくださる神様、災いを変えて幸いになるようにされる神様の力を求めるのです。
さらに進んで信仰の岩以上に入った人は、自分が神様の前で戒めを守るので、全知全能な神様が自分の祈りをお聞きになる、という確信があります。自分が光の中にとどまるので、敵である悪魔・サタンが全然恐ろしくなく、十分に勝てるという自信があります。自分の力で解決しようとすると、大変ですが、神様の力に頼ると、難しくありません。
ダビデは幼い少年の身で、巨人の戦士ゴリヤテに向かった時も恐れなかったのです。
「この 全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」と告白して、大胆に出て行ってゴリヤテを退けました。
皆さんが神様のみことばの中にとどまり、みことばが皆さんのうちにとどまるなら、どんな状況でもこのように大胆に告白して、神様の力で勝利できるのです。
愛する聖徒の皆さん。信仰生活が長くて、年輪がたまれば、いろいろな職分を受けるようになります。聖徒のリーダーとして長老、勧士の職分を受けたり、魂を管理する使命を受けて、区域長や機関長になったりします。
ところがこのように羊の群れのリーダーになるためには、信仰生活が長いだけではなく、その信仰が少なくても三段階にはならなければなりません。やっと二段階にとどまっていて、みことばのとおり歩まず、自分の信仰も完全に立てないなら、他の魂たちを導くことは難しいのです。
そしてリーダーになるほど長く信仰生活をしたなら、当然三段階以上に入ってくるべきです。これまで信仰生活をしながら、数え切れないほどみことばを聞いたのに、相変らず二段階にいるならば、そのすべてのみことばを流してしまったことなので、神様の前にどれくらい申し訳ないことでしょうか?
信仰の二段階から三段階に入ってくる時間は、皆さんが努力だけするなら、決して長くはありません。もちろん歳月がいくら過ぎても、努力しなければ、相変らず二段階にとどまっていたり信仰の一段階に退歩したりします。そのうちに、まかり間違えば、救いさえ受けられなくなります。
それで<黙示録3:15- 16>には、「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われたのです。
もちろん、冷たくもなく、熱くもないと言われたからといって、本当に信仰生活を冷たくしなさい、という意味ではありません。全く冷たくなって懲らしめられると、誤りを悟って悔い改めることもできる、という意味です。
しかし、なまぬるくて信仰の成長が止まっている時は、自分の問題を悟れないまま、ある瞬間から聖霊を消してしまうこともあります。
ですから、職分を受けた人ならば、当然熱心に働いて変えられて、信仰の三段階には入っていなければならないのです。
また言い換えれば、三段階に入ってきた人々は、信仰の一・二段階の人をこまめに世話をして養い、彼らも三段階に入って来られるように助ける責任がある、という意味になります。
本当に行える信仰があるなら、十字架にかけられて、「わたしは渇く。」と言われたイエス様の呼び掛けが、その心から忘れられるはずがありません。
自分の信仰だけよく守れば良いのでなく、熱心に伝道して、家庭を訪問して、イエス様の血の代価を探してあげるべきであり、区域長にも、機関長にもなり、イエス・キリストの心で魂たちを養わなければなりません。
<第一ペテロ5:2 -3>に、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。
すなわち、羊の群れを養うとき、無理やりにではなく、神様を愛するために、自分から進んでそれをなし、私欲のない心で魂たちに仕えて、みことばどおり行う模範となりなさい、ということです。
ある人は、信仰生活の年輪は長いですが、罪と戦うのに、自分の訓練を受けるのに手いっぱいで、使命を果たすことはできない、と言う場合もあります。
しかしこれはふさわしい姿ではありません。祈る時も、まず神の国と義を求めなさい、と言われたように、自分の罪を捨てていくだけでなく、神の国のためにも熱心に働かなければなりません。
信仰が弱い魂たちの世話をして、彼らのために祈って使命を果たしていくとき、主の心、牧者の心もさらに深く悟ることができ、すみやかに聖められることもできます。
皆さんも信仰が弱いとき、自分のために祈って家庭を訪問してくれて、こんにちまで導いてくれた人々がいたので、働き人として用いられるように成長しました。
その愛の借りを返していくとき、時には信仰のない、気が滅入るような羊でも、忍耐と愛をもって養わなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、一段階や二段階を越えて、三段階に入ることはすみやかにできる、と言いました。行為的に「しなさい」「してはならない」といわれたことは、心の決断さえあれば従うことができます。
ところが、三段階から四段階に入るためには、時間がもう少しかかります。神様のみこころを悟って心の罪まで捨てるためには、それだけ祈りが必要で、時間が必要なのです。
けれども、これも自分の努力により、早く捨てていくことができます。切に慕い求めて、切に神様の恵みと力を求めれば、それだけすみやかに信仰の四段階へ移るようになります。
ところが問題は、神様を愛して戒めも守って、熱心に忠実に働くのに、長い歳月が過ぎても霊に入れないので悩む場合です。信仰の岩にも立って、三段階の最終段階に入ってきて、早く霊に入るべきなのに、そうできずにとどまっているのです。
それでは、どうしたら信仰の停滞から抜け出し、霊にすっきり突き抜けて入れるのか、これは次の時間に語ります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。普通の人々はまむしを見ると、とても気味悪がって嫌って、噛まれまいと避けます。
しかし、蛇を捕まえて売る人たちは、逃げるのではなく、目を輝かせて、獲ろうと近づきます。すると、まむしがかえって怖がるそうです。
殺気満々の虎が飛びかかる時も、普通の人は驚いて怖がるのですが、老練な狩人は喜んで「今日は大きい獲物が取れるので幸運だ」と言います。
今、なぜこういう話をするのか、理解できるでしょうか?
敵である悪魔・サタンは、ほえたけるししのように、人々に試練・患難をもたらして死の道へ導きます。それで世の中には多くの災いと苦しみがあり、世の人々はいつも将来の事を心配しなければなりません。
時々健康検診をして保険に入るなど、いろいろな対策をたてますが、人としては耐えられない苦しみにあうと、ただ苦しみの中で嘆くばかりです。
しかし信仰のある人々は災いにあわないだけでなく、試練が来たとしても、恐れずに神様の力を求めます。「 彼らはわたしたちのえじきとなるからだ。」と告白したヨシュアとカレブのように、試練をむしろ祝福を受ける機会とみなすので、十分に試練に勝って、敵である悪魔・サタンを退けて、神様に栄光をささげるのです。
<ヤコブ4:7>に、「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」と言われた通り、愛する聖徒の皆さんは、神様のみことばに従い、完全に光の中にとどまるように願います。
それで、大胆に悪魔に立ち向かい、常に勝利して、すべての事に神様に栄光をささげ、多くの魂たちを神様の御前に導く霊的将軍になれますように、主の御名で祈ります。

 
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