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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰の量り(22)-信仰の五段階(3)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3, マコ 16:16-20
Date
   2006-05-21


<本文>

<ローマ12:3>

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<マルコ16:16-20>

「 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、

きょうの本文<マルコ16:16-18>に、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」と言われた主のみことばがあります。
皆さんは主を信じてバプテスマを受けられたでしょうか? それなら皆さんには、主のみことばのとおり信じる人々のしるしが現れるでしょうか?
神様のみことばは一点一画も違いがありません。それでは、皆さんがはっきり主を信じているのに、信じる人々に伴うしるしが現れないならば、その理由は何でしょうか? 今まで信仰の量りについて聞いて来られた方々は、その答をご存じでしょう。つまり、信仰の量りが人によって違うからです。
<16節>に、「信じてバプテスマを受ける者」の信仰とは、信仰の一段階、救われる信仰を意味しますが、<17節以下>のしるしが従う信仰とは、最小限信仰の四段階以上のことで、すべてのしるしが完全に現れるためには、信仰の五段階に至らなければなりません。
神様は神様の子どもたちが信じて救われるだけでなく、皆がこのような大きい信仰を持つことを望まれます。皆さんも信仰生活をすることにおいて、どうせならこのように大きい信仰を持って、皆さん自分の人生の中で祝福を受けるだけでなく、思いきり神様の働きをするなら、さらに良くありませんか? そうする時、この地上では多くの魂たちを救って、神様に思いきり栄光を返して、将来天国では神様の御座の近くに、さらに光栄ある場所に入れるのです。
きょうは「信仰の量り」二十二番目の時間で、信仰の五段階について続いて語ります。きょうもみことばを通して、大きな神様の力が皆さんに臨めるようにお願いします。それで、いつも神様の生きておられるみわざを現して、栄光をささげる人生になられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、信仰の五段階は神様に喜ばれる信仰であり、その一番目の特徴は、神様の御心に従っていのちまでささげられる信仰と言いました。無条件に「はい」「アーメン」と言うのではなく、父なる神様の心と御旨を明らかに悟り、一つ一つ行うことごとに父の心にぴったり合うように従うのです。ですから神様に喜ばれるのです。
次に、信仰の五段階の二番目の特徴は、数え切れない祈りを積み重ね、不思議としるしを行うということです。祈りは、私たちの霊と魂の呼吸のようなものです。祈ってこそ神様の御心が悟られ、世の中に勝って神様の御心のとおり行える能力が受けられます。
ところが信仰の一、二段階では、主に自分のために祈ります。職場、家族、病気、物質の祝福などを求めるのですが、それでさえ長い時間祈ることはできません。だんだん信仰が大きくなれば、神の国と義のために祈るようになり、祈りの量が増え始めます。
もちろん神の国と義を求める時も、心の底から、聖霊に満たされてするのではなく、大きい題目だけで祈ると、そんなに長い時間祈ることはできません。しかし、心の底から切実に求める時には、聖霊に働きかけられて、自分のことのように、一つ一つの題目を挙げるようになり、そのように祈れるなら、夜を通して祈っても祈る内容が途絶えないのです。
信仰の四段階もそうですが、五段階に入ると、もう自分のためには祈ることがあまりありません。物質でも、健康でも、必要なことは心に抱く次第に、神様がまずご存じで答えてくださるので、個人的には求めることがあまりなくなります。すでに心の罪と悪まで完全に捨てたので、聖められるために祈る必要もありません。ですからその時は、「どうすればさらに多くの魂たちを救えるのか」「どうすれば神の国をより大きく拡張できようか?」などの題目で祈りを積み上げるようになります。
自分自身は神様の祝福を受けて足りないことがないけれど、神様をとても愛するために、そして死にかけている魂たちへの心が悲しくて切ないので、楽に休むことができません。ですから自分のことを考えず、献身して魂たちのために切実に祈りを積み重ねて行くのです。こういう人々は異言の解き明かし を聞いてみても、自分のための祈りが出るのではなく、ただ神の国のための祈りが出てきます。
ところで、皆さんが神の国のために祈るうちに、何よりも自分自身が霊的な能力を受けなければならない、ということを痛感するようになります。
<第一コリント4:20>に、「 神の国はことばにはなく、力にあるのです。」とあります。神の国を成し遂げることは、魂たちを滅びに導こうとする悪い霊どもに対する霊の戦いです。このような霊の戦いは、人の知恵や経験、能力でするのではありません。ですから多くの魂たちを救って、神の国を拡張するためには、霊的な能力を求めるようになるのです。
たとえば、伝道して家庭訪問する時も、一人の魂を聖殿に連れて来ることから、ついにその魂が自ら信仰を持って信仰生活ができる時までは、人の力でできることではありません。人の力でいくら熱心に努力しても、神様の力でしないなら、その結果はあたかも砂の城のようです。多くの魂たちを伝道して座らせておいたけれど、その中の多くの人が離れてしまったり、努めに努めて、教会に出て来るようにしたけれど、その時はちょっと出てくるようでも、さほど経たないうちに元に戻ってしまったりします。それで、いくら熱心にしても祈らないで忠実に働くことは、結局、肉的な忠実と言うのです。
もちろん能力が大きくても小さくても、人のほうでは、最善を尽くして時間と物質と真心を尽くさなければなりません。しかし、これと同時に、必ず神様の力が臨んでこそ、人の心が変えられて信仰を持つことができます。
神様の力を受けたのが少なければ、一人、二人の魂を伝道する時も苦労をしなければならないですが、神様の力を大きく受けるほど、十人も二十人も簡単に伝道できます。神様の力を受けなかった人が十回を訪問しても変わらなかった人が、力を受けた人が訪問するとすぐ魂を砕いて罪を告白して、一回、二回と家庭を訪問するにつれて、信仰がすくすく成長していくのも見られます。ですから人々が伝道して家庭を訪問してみると、人の能力と方法に限界があることを痛感するようになって、魂の救いへの情熱があるほど、切実に神様の力を求めるようになります。
本教会が世界宣教を成し遂げていることを見ても、神様の力がどれくらい重要なのかわかります。<ヨハネ4:48>には「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」とあります。ここで「しるし」とは、人が行える限界を超えて神様の力が現れることを言います。神様の力で死者を生かしたり、わずらいや病気をいやしたりなど、聖書には多くのしるしが書かれています。
また「不思議」とは、天気を動かすことを言います。たとえば、祈って雨やひょうを降らせたり、太陽と月の動きを止めさせたり、風と波をしずめたりするなどの、いろいろなみわざを言います。
このようなしるしと不思議を目撃して、生きておられる神様の証拠を体験する時は、神様を信じなかった数多くの人々が一度に心を変えて、主を受け入れるのが見られます。ですから、信仰の四段階、五段階に入ると、より大きくて完全な力を受けようと、さらに切実に祈るようになるのです。
ところで、この肉の世で神様の力を受けて、霊の世界のみわざを現すことは、熱さがあるだけでできることではありません。まずは聖められた心を成し遂げるべきで、その聖潔の土台の上に、聖霊に感じて神様に喜ばれる祈りを無数に積み重ねなければなりません。
まだ聖められなかった信仰の一、二段階では、熱心に祈りをするといっても、祈りのかおりが細いのです。また祈りの綱がつかまるまで、すなわち、神様の前に充満にささげられるまで、霊の戦いがあります。それで、長い間座って祈ったとしても、その祈りがすべて父の前に積まれたのではありません。
しかし、信仰の五段階で祈る時は、初めから太くて美しいかおりとしてささげられます。いつも聖霊に満たされているので、祈りの綱をつかむために戦う必要がなくて、いつでも祈りを始めればその祈りが直ちに太いかおりとしてささげられるのです。
また父に似せられた心で求めるので、その祈りの中には、善と真実が一言一言ににじみ出て、祈る内容ごとに父に喜ばれるかおりになり、天の御座がとどろく祈りになるのです。
こういう祈りをする時は、たくさん叫んで祈っても疲れるのではなく、祈れば祈るほどますます満たされるようになります。このような感動の祈りを昼も夜もなく積み重ねて行くとき、ついに神様の力が臨むようになります。そういう力のうち、代表的なもの がまさに、きょうの本文の「信じる人々に伴うしるし」です。
きょうの本文<マルコ16:17-18>に、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」とあります。神様の力で施されるみわざは、この他にも多くありますが、ここでは代表的な五つだけに言及したのです。
それでは、それぞれのしるしについて霊的な意味を調べていきましょう。
まず、主の御名によって悪霊を追い出す、とあります。今日、多くの人々が悪霊はいないと思っていますが、聖書にははっきりと悪霊の存在を記録しています。イエス様も悪霊につかれた人々を完全にいやされて、イエス様の弟子たちや使徒パウロも悪霊どもを追い出したことが見られます。今日も悪霊や悪い霊どもから苦しみを受ける人々がいますが、こういう場合は医学的に治療が不可能です。
ところで<ヨハネ1:12>に、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。このように神様の子どもとされる特権を受けたので、皆さんも十分闇の勢力を退けて悪霊を追い出さなければなりません。
ところが、信仰がまだ弱い状態では、そのような力がなくて、むしろ悪い霊を恐れる場合もあります。しかし、光が臨むと闇は必ず退くようになっています。霊的にも、皆さんが光である神様のみことばの中を歩むほど、闇である悪い霊どもを制して退けることができます。
信仰の五段階に達して、完全に光の中にとどまるなら、主の御名で悪霊を追い出すことはもちろん、魂たちを伝道して家庭訪問する時も、敵である悪魔・サタンが働けません。ですから、相手が心の扉を簡単に開くことができて、みことばの権威の中で恵みを体験することもできます。一歩進んで真理に逆らうものを戦って捨てて、みことばどおり行う力も受けられるのです。
ところが、皆さんがもう一つ覚えておくことは、信仰の五段階に至って力を受けた人が退けても、無条件に悪霊が退くのではないということです。
たとえば、本人や家族、先祖がひどく偶像を崇めたり、多くの悪を積み重ねたのに、真理も知らず信仰もない場合があります。こういう場合、悪霊につかれると、信仰の五段階にいる人が祈ってあげても、悪霊は簡単に出て行きません。あるいは悪霊につかれなくても、霊的に多くの妨害を受けたりします。敵である悪魔・サタンが働き、神様を信じないようにしたり、信じる子どもたちにも眠気や雑念、疑いなどを通して礼拝と祈りをささげられないようにしたりして妨げるのです。
それでこういう場合、悪霊につかれているなら、まずこれまで積まれた罪の隔ての壁を壊さなければならないのです。悪霊につかれた本人の意識がなくて悔い改めることができないならば、家族でも代わりに信仰をもって信仰生活をしながら、神様の憐れみを求めていくべきです。何としてでも最善を尽くしてみことばを霊の糧として、光の中にとどまろうと努力して祈れば、結局はその家庭から闇が退いて、悪霊も退きます。
次に、力のある人が命じても悪霊が出て行かない、もう一つ別の場合は、信仰があるという人が神様に大変寂しい思いをさせた時です。代表的なものは、ひどく神様に敵対して、赦されない罪を犯した場合です。
<第一ヨハネ5:16>に、「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」とあります。
死に至る罪とは、聖霊を汚して冒とくして逆らったり、真理を知っていながら、ことさらに罪を犯していく場合、神様のみことばと力を体験してもまた堕落して、主を十字架にかけて、恥辱を与える場合などです。
つまり、神様を信じるという人々が、聖霊の働きで現れる不思議なみわざとしるしを見て、「サタンのしわざだ、異端だ」と罪に定めたり、妨げて敵対していくとき、結局神様が御顔を背けられるので、災いにあったり悪霊につかれたりします。
また、信仰があるのに著しい肉の行いを続けて行っていったり、世の中に陥ってしまったりする場合もそうです。
このような時は、いくら力のある人が祈ってあげても、まず罪の隔ての壁を壊さなくては問題が解決されません。しかし、こういう例外的な場合でなければ、力を受けた人が主の御名で命じるとき、悪霊が恐れて退くようになります。
次に信じる人々のしるしの二番目は、新しいことばを語る、ということです。
<第一コリント14:15>に、「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」とあります。知性において祈るとは、自ら心の願いを求めることであり、霊において祈るとは、異言の祈りを言います。
異言は聖霊に満たされて祈るとき、上から賜物として与えられるようになります。このように異言で祈る時は、その祈りの内容を肉では悟れなくて、敵である悪魔・サタンもわかりません。ただ、祈る人が聖霊に感じるなら、ある程度その内容を悟る事もでき、異言の解き明かしの賜物を受けると、その内容がわかります。いろいろな聖霊の賜物の中でも、異言の賜物は神様がすべての聖徒たちに与えることを望まれる賜物です。
たとえば、預言の賜物や異言の解き明かしの賜物などは、初心者に与えられる賜物ではありません。信仰のない人がこういう賜物を受けると、むしろ高慢になり、誤って使い、霊的に害を受けることもあるからです。
しかし、異言はだれにでも益になります。異言を受ければ、その分祈りの力が加えられるので、初心者にも必ず必要な賜物です。
このように聖霊に満たされて異言の祈りをすると、聖霊に感じて異言の賛美が出てきて、さらに深く感じるようになると、踊りが出てきたりします。いくら歌が下手でからだがかたい人でも、聖霊に感じて賛美して踊る時は、とても美しく賛美して踊ることができます。
ここでさらに深い段階に入ると、新しいことばが出てきますが、信仰の五段階では異言の祈りを始める瞬間に、直ちに新しいことばで祈ることができます。新しいことばは力の異言なので、新しいことばで祈る時は、敵である悪魔が恐れおののき、退きます。
たとえば、強盗が刃物で刺そうとする時でも、皆さんが新しいことばで祈るなら、その場で闇が退きます。人が悪を行うのは、敵である悪魔・サタンに操られて行うことですが、闇の働きが消えてしまうと、強盗が突然心が変わって逃げたり、その場でからだが固まってしまったりします。
ですから、こういう新しいことばがいつもできる人ならば、家庭、職場、どこででも敵である悪魔・サタンに妨げられずに、すべてを働かして益としてくださる中で栄えます。
信じる人々のしるしの三番目は「蛇をもつかむ」ことです。それなら、信仰の五段階になると、気味悪い蛇を手でつかめる、という意味でしょうか? そのような意味ではなく、ここには霊的な意味があります。これについては、次の時間に語りたいと思います。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、きょうの本文<マルコ16:20>に、「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」とあります。
イエス様もそうでしたが、弟子たちもみことばだけで福音を宣べ伝えたのではありません。しるしを行いながらみことばを宣言することによって、生きておられる神様を証明して、そのみことばがまことであることをあかししました。
このような証拠を見せるとき、人々の思いが砕かれて、心の扉が開かれて、一度に無数の魂たちが救われるようになります。しるしが従わない人が努めに努めて何人かを伝道することも尊いけれど、しるしを行いながらみことばを宣言するとき、一度に数千、数万名以上までも救うことができるのですから、こういう人を神様がどれほど喜ばれるでしょうか?
もちろん、本教会の聖徒の皆さんと働き人たちは、まだ霊に入っていない方々も、祈りを受けたハンカチや甘い水などで体験をして、伝道する時も活用しています。こういう場合は、神様が私をご覧になって、私に現れる御力を通して働いてくださるのですが、こういうものを使う時も、使う皆さんの信仰により現れる神様のみわざが変わります。
ですから、皆さんはより大きい神様のみわざを慕い求めて、すみやかに霊に全き霊に入って来られるようにお願いします。それで、多くのしるしと不思議を行って、神様に大きく、大きく栄光をささげる皆さんになられるようにお願いします。
それで終わりの日、神様の御座の前に立ったとき、神様も皆さんをとても喜ばれて、皆さんを通して救われた数多くの魂たちが皆さんに感謝できますように、主の御名で祈ります。

 
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