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金曜徹夜礼拝 メッセージ > 金曜徹夜礼拝
金曜徹夜礼拝
Title
   黙示録講解(15)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 2:12-17
Date
   2007-02-02


<黙示録2:12-17>

また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』


サタンの王座があるというほど、ひどい偶像礼拝と罪と悪で満ちていたペルガモに建てられたペルガモ教会には、主の忠実な証人として堅く信仰を保った聖徒たちもいましたが、一方、適当主義信仰に陥り、世の友になり、世を愛して、結局死の道に行く人々もいました。主は彼らにバラムの行いを追っていることを悟らせて、彼らが悔い改めて立ち返るように、警告のみことばを下さいます。
ところが、このみことばは現在にも同じように適用されます。今日では、神様を愛すると言いながら、世と世の中にあるものを愛して、おおまかに信仰生活していこうとする傾向が、だんだん強くなっています。
したがって、神様のみこころが何かわかっても、物質と名誉と権勢への欲のために、神様のみこころに逆らうことが起こるのです。一度決めた心が変わってしまうのです。決めた心が変わってはいけない、ということが、バラムを通して悟るべき、もう一つの教えです。
たとえば、ある人々は恵みを受けたら、その瞬間、感謝の心で「神様に私のすべてのものをささげます。」 「主のために生きます」と告白したりします。
ところが、時間が少し経って現実に困難が来ると、「どうしてもこんなに大変な信仰生活をしなければならないのか?」「ほかの人々のように、楽に信仰生活をしてもいいんじゃないのか?」と初めの心が変わったり、今の信仰生活を疑ったりします。ちょうど、バラムが神様のみこころが何かわかっても、再び誘惑されると心が揺れて、物質と名誉に惑わされたようにです。
しかし、まことの神の人々は、時間が経ったり状況が変わったりしても、決して心が変わりません。聖書にはそのような人物がたくさん出てきますが、その中に、異邦人であっても、善良な心、変わらないきよい心をもって、神様に大いに愛された女性がいます。旧約<ルツ記>の主人公ルツです。
モアブの女性ルツは、ききんのために、モアブの地に来たイスラエルの人と結婚しましたが、子どももいないのに夫が死んでしまいました。ルツにはオルパという弟嫁がいましたが、オルパも同じでした。そのうち、姑のナオミは故郷のユダの地へ戻ろうとして、ふたりの嫁に「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。」と言います。すでに夫は死んで、子どももいないから、あえて自分たちの故郷モアブを離れて、知らないユダの地までいく必要がないという、姑ナオミの思いやりのある勧めだったのです。この時、初めはふたりとも、最後まで姑と一緒にいると言いましたが、姑ナオミが繰り返して勧めるので、ついにオルパは姑に別れの口づけをしました。
しかし、ルツは違いました。<ルツ1:16- 17>に、「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。』」と告白したのです。どんな状況と環境でも変わらないルツの心をよく表しています。人に対してもこのような心を持ったルツだったのですから、まして神様に対してはどんな心だったでしょうか?
ところで、今日、はたして人に対してもこのように変わらない心を持った人が、どれほどいるでしょうか? 「霊」とは「変わらないこと」です。昨日はああして、今日はこうすることは、決して真理でもなく、真実でもないし、霊とも言えないでしょう。時間が経って、いつか変わるということは、結局以前に行ったこともまことでなかったことを、自らが実として表しているのです。
バラムにも決して変わらないまことの霊の心があったなら、どんな惑わしと試みの前でも、神様のみこころに逆らうことはあり得なかったでしょう。しかし、バラムは変わる心を持っていて、物質と名誉への欲が働き、結局はモアブの王バラクを助けて、イスラエルの民に偶像にささげたものを食べさせ、異国の女たちとみだらなことをするようにしました。自分だけ迷いの道に行ったのでなく、他の多くの人々も死の道に行くようにさせたのです。
皆さんはこのようなバラムの行いの教訓が、罪と悪があまりにも満ちているこの終わりの時で信仰生活していく今日のクリスチャンに必ず必要であることを心に刻まれますように、それで、世と妥協する適当主義信仰を警戒して、どんな状況でも変わらないきよい心で信仰生活されますように、主の御名でお願いします。

聖徒の皆さん、ペルガモにある教会には、バラムの行いを追う人だけでなく、ニコライ派の行いを追う人もいました。<15節>に、「それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」とあります。
ニコライ派については、先にエペソ教会へのみことばでも説明しました。彼らの主張は「肉体は朽ちてなくなるものであり、霊はきよいものとして天国に行くので、肉体ではいくら罪を犯しても、霊はきよいから天国に行ける」ということです。
先に申し上げたバラムの行いを追い、適当主義信仰に陥り、世と妥協していくなら、だんだんより深く世に陥り、結局はニコライ派の行いを追う段階にまで至ります。しかし、ニコライ派の行いがどれほど真理に逆らうものなのか、私たちは聖書を通して明らかにわかります。
<ヨハネ第一1:7>だけ見ても、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と言われています。私たちが光の中を歩んでいる時だけ、イエス様の血ですべての罪からきよめられる、ということです。それなのに、どうして行いで罪を犯して、闇に属する罪と悪の中にいながら、「私は救われた」と言えるでしょうか?
したがって、ニコライ派の行いを追うことは、真理である神様のみことばに正面から立ち向かう異端思想に陥ることもあるのです。今日でも適当主義信仰に陥ってしまい、ひょっとしてその程度が過ぎるなら、後には「罪を犯しても救われる」という異端思想にまで染まってしまう場合もあります。みことばどおり生きるのがつらくて、世のものがあまりにも好きだから、「罪を犯しても救われる」という甘い話に耳を傾け、惑わされてしまうのです。
今日のように、適当主義信仰がますます多くなっている状況では、このようなニコライ派の行いが出ないように、さらに警戒しなければなりません。祈りも適当にして、礼拝も適当にささげ、みことばも自分に合わせて解釈して適当に守り、「これくらいは大丈夫だろう」「あれは関係ない」など、このように信仰生活していくことは、結局はニコライ派の行いと変らないのです。

聖徒の皆さん、バラムの行いとニコライ派の行いとは、適当主義信仰という共通点がありますが、また、違いもあります。バラムの行いとは、簡単に言えば、二つの心で神様に仕えることです。それで、神様を愛して仕えると言いながらも、物質を愛して名誉や権勢とも妥協していきます。神様に対して初めて持った心が変わっていき、再び世を見つめて求めていくのです。
ところが、この時でも悟って立ち返れば幸いですが、その程度がだんだんひどくなると、後にはサタンに捕われて、罪を犯しても救われる、という安易な考えに陥るのです。それで、結局は悪魔につかさどられ、行いであれこれの罪を犯すまでになります。
ですが、このように行いで罪を犯すようになるからといって、それを何でもニコライ派の行いだ、異端思想だとは言いません。まだ信仰が弱い段階では、知っていながらも罪を犯しては悔い改めて立ち返る、このような過程を経て、結局、罪を一つ一つ脱いでいきます。しかし、ニコライ派の行いはこれとは違います。行いで罪を犯しながらも、それが救いと関係ないと教えるので、他の人までも惑わして、一緒に死の道を行くようにさせるからです。
<第二ペテロ2:1>で、「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」と言われたように、異端を定義する最も大きい基準は、救い主として来られたイエス様を否定することです。わかりやすく言うと、「三位一体の神様を否定して、イエス様が人となってこの地に来られて、私たちのために十字架につけられて死なれたので、私たちの救い主になられた、という事実を否定すること」が異端を見分ける基準です。
ところで、ニコライ派の思想は、イエス様がなぜ私たちの代わりに十字架につけられて死なれたのか、その意味を否定しているのです。イエス様は、私たちが手と足で犯した罪、つまり、行いで犯した罪を贖われるために、代わりに手と足に釘づけられたのに、行いで罪を犯しても相変わらず救われると言い張るなら、結局、血の代価で私たちを買い取ってくださった主を否定することと同じです。
<ガラテヤ5:13>に、「 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」とあるように、皆さんはイエス・キリストによって罪から解放されて自由を得ましたが、万が一にも、その自由を間違って用いて、肉の働く機会としてはならないのです。したがって皆さんは、いつも真理である神様のみことばでよく見分けて、異端思想はもちろん、どんな真理に逆らう話にも惑わされないように願います。

愛する聖徒の皆さん、主はバラムの行いとニコライ派の行いを追う人々に、<16節>で「 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」と言われます。
そして、バラムがどのように死んだのかも、聖書は明らかに語っています。<ヨシュア記13:22>に、「イスラエル人は、これらを殺したほか、ベオルの子、占い師のバラムをも剣で殺した。」と、イスラエルの民を不義の道に導いたバラムが、イスラエルの子孫に殺されたことが記されています。このように、バラムとニコライ派の行いを追う者たちをみことばでいくら勧めて悟らせても、彼らが終わりまで悔い改めて立ち返らないなら、公義の中で試みと苦しみと懲らしめが伴います。
主が「わたしの口の剣」と言われましたが、これは「神様のみことば」を意味します。したがって、「わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」とは、「神様のみことばをもって、ちょうど剣が刺し通すように指摘して、立ち返るようにしてくださる」という意味です。
こうしてくださっても立ち返らないなら、その時は、公義の神様がそれ以上守ってくださることはできず、結局はサタンの訴えに渡されるようになります。それで、試みと苦しみにあい、病気と事故などの問題で苦しむようになります。この時も相変わらず立ち返らない時は、死の道に行ってしまうのです。こういう人々は、耳があっても聞けない人、つまり、霊的に耳が閉じられた人々です。
本当に神様の子どもならば、<箴言22:17>に「 耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。」とあるように、真理である神様のみことばで悟らせてくださるとき、耳を傾けて聞かなければなりません。時にはみことばがムチのように思われても、そのみことばをよく聞いて自分を悟り、変えられようとする人には、そのみことばが良い薬となって骨髄を豊かにしてくれます。
しかし、心が高ぶっていて悪で満ちている人は、神様のみことばによる叱責と勧めを聞こうともしないだけでなく、むしろその耳は悪いことを聞こうとします。まさに<エレミヤ7:24>に、「しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。」と書かれています。
また、<箴言17:4>には、「 悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。」とあります。さらに<第二テモテ4:3-4>には、終わりの時について、「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」とあります。
しかし、皆さんは万物の終わりが近づいたことを悟り、さらに気をつけて祈りのために心を整え、身を慎んで、ただ真理にだけ耳を傾けられますように。神様のみことばだけが、この暗い世で皆さんの足のともしび、道の光になって、いのちの道に導くことができるのです。
このように神様のみことばが聞ける霊の耳を持った人々に、私たちの主が言われます。<17節>に、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」とあります。
ここで「勝利を得る者」とは、たとえバラムとニコライ派の行いを追った人であっても、今はその行いから完全に悔い改めて立ち返った人を意味します。こういう人には「隠れたマナを与える。」とありますが、「隠れたマナ」とはまさに、イエス・キリスト、私たちの主を示しています。
<ヨハネ6:49-51>に、「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とあります。
つまり、荒野でイスラエルの民に下さったマナは、ただ肉のいのちを保つためだったので、食べても結局は死んでしまいました。しかし、霊のマナは、ことばが人となって来られた主の肉、すなわち、神様のみことばを意味し、これを食べる人は永遠に生きる、という意味です。
<ヨハネ6:54>にも、「 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」とあります。
したがって、このように食べて永遠に生きる主の肉、つまり、霊のマナを下さる、と言われたのは、結局、イエス・キリストによって救われる、という意味です。適当主義信仰と異端思想に陥った人でも、悔い改めて立ち返った時は、このように永遠のいのちを約束されるのです。
ところで、主はなぜ「隠れたマナ」と言われたのでしょうか?
<第一コリント2:7-8>に、「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」とあります。
イエス様がこの地上に人となって来られ、十字架につけられて死なれることによってすべての人類の罪を贖ってくださることは、すでに世界の始まる前から定められた摂理でした。しかし、時になるまでは、この奥義が誰にも知られてはいけないので、隠されていたのです。それで、イエス・キリストを「マナ」、特に「隠れたマナ」と言われたのです。
次に、主が白い石を与えるとありますが、「白い石」とは、何でしょうか?
<第一コリント10:4>に、「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」とあるように、「岩」とは私たちの主イエス・キリストを言います。そして、白は、罪と悪がない、という意味です。したがって、本文の「白い石」とは、「闇に属するどんな罪と悪もなく、傷も、しみもない、イエス・キリスト」を言います。
このような「白い石を与える」ということは、主が与えるマナ、つまり、真理のみことばを食べて、罪と悪と戦って勝ち、みことばを行っていくことで、信仰がだんだん成長して、結局は揺れない信仰の岩の上に立つようになる、という意味です。
<マタイ7:24-27>に、「 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」と言われたとおりです。
ところで、このように主が与える白い石には、「新しい名が書かれている」と言われます。本文<17節後半節>に、「その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」とあります。それなら、その石に書かれている「新しい名」とは誰の名でしょうか?
<使徒の働き4:11-12>に、「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあるように、この名はつまり、イエス・キリストです。そして、イエス・キリスト、私たちの主の御名は、ただ真理のみことばを聞いて行い、信仰の上に堅く立っていく人だけが知ることができます。
世の人々もイエス・キリストを知っているでしょうか? そうではありません。世の人々が「知っている」というのは、イエス様をただ肉で知っているだけで、世界の四大聖人のひとりだくらいに思っているのです。実際に重要な「イエスが私たちの救い主になられる」という事実は知らないのです。したがって、世の人々は、イエス・キリストを知っているとは言えないでしょう。
ところで残念なことは、「信じている」という人々の中にも、主の御名を知らない人々がいるということです。教会に通うからといって、口だけで「主よ、信じます」と告白するからといって、みなが主を知っているのではありません。主から隠れたマナと白い石を受けるためには、勝利を得る人にならなければなりません。そして「勝利を得る」とは、「闇に属する罪と悪と戦って捨てて、真理に立つこと」を言います。それで結局は「変わらない信仰で進むこと」を言います。
このように行う人だけが、隠れたマナと主の御名が書かれている白い石を頂いて、「イエス・キリストが誰なのか」を悟り、天国の望みの中で喜びと感謝で信仰生活をしていけるのです。ただ頭に知識としてだけ積み上げてあって、行いが伴わないなら、こういう信仰は成長することもできないだけでなく、「イエス・キリスト」についても、心に確かに刻めないのです。
したがって皆さんは、主が下さるマナをいつも慕い求める心で頂いて、こまめに食べて心に糧としていかれますよう、それで、主の御名が皆さんの心に完全に刻まれて、主を明らかに知る皆さんになられますように。
次の時間は、ペルガモにある教会に下さる主のみことばに含まれた、もう少し深い霊的な意味を調べていきます。

愛する聖徒の皆さん、神様のみことばどおり生きられない人々が、勝手に引用して解釈するみことばがこれです。「 心は燃えていても、肉体は弱いのです。」それなら、本当に心は燃えていても、行いが伴わないのでしょうか? これは一つの言い訳にすぎません。まことに心が燃えているのではなく、ただ、思いの中でだけ燃えているからです。
心を尽くして確実に決めたことならば、必ず行いでも現れるようになります。<ローマ10:10>に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるように、心に信じて、同時に口で告白する行いがなければなりません。
行いのない信仰は死んだものであり、このような死んだ信仰をもっては救われません。<ヤコブ2:14>に、「 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」とあります。
主からマナを頂いて、白い石に書かれている、世界の始まる前から隠された奥義である、イエス・キリストの御名を頂いた人は、その御名を知って心に信じるので、みことばどおり行う行いが伴います。こういう人々に、主は「私もあなたを知っている」と言われ、<ヨハネ10:28>に、「 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」という約束のお言葉を下さいます。
このように、皆さんすべてが本当にイエス・キリストを知っていて、ただその方の御声だけ聞いて従う、主の愛される羊になられますように、主の御名で祝福して祈ります。

 
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