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黙示録講解 メッセージ > 黙示録講解
黙示録講解
Title
   黙示録講解(46)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 7:5-10
Date
   2007-11-30


<黙示録7:5-10>
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

きょうもこの間に続き、十四万四千人の神のしもべたちについて説明します。彼らは七年患難の間に、神様の摂理を完成するために立てられた人々です。彼らがイスラエルの十二部族からそれぞれ一万二千人ずつ出ると言いました。これは肉的な意味で単にイスラエル民族だけを意味するのではないと言いました。
十四万四千人はイスラエル民族だけでなく、全世界のすべての民族から出るようになります。彼らをイスラエルの部族から立てたと表現したのは、彼らが神様に選ばれたしもべたちだという霊的な意味です。
ところで、この十四万四千人を説明するとき、ただ簡単に「イスラエルの十二部族から各々一万に千人ずつ、十四万四千人」と言われませんでした。神様はあえてイスラエルの十二部族の名前をいちいち取り上げておられるのです。ここにも霊的な意味があります。イスラエルの十二部族の名前には、霊的に救われて聖められるまでの過程が含まれているのです。
もともとイスラエルの十二部族の名前はイスラエル、すなわち、ヤコブの息子たちの名前です。ヤコブとヤコブの妻たちが子どもが生まれるたびに、それなりに意味をこめてつけたものです。
たとえば、ヤコブの長子「ルベン」の名前は「子を見よ」という意味です。これは、ルベンの母レアが初子を産んだとき、自分の喜びと誇りを込めてつけた名前です。このようにレアは自分の状況に合わせて、意味を込めて名づけたのです。
ところが、この名前の意味が神様の摂理にあっては霊的な意味で説明できます。きょうの本文を見ると、神様はイスラエルの十二部族の名前を新しく配列されました。この配列の順によって、それぞれの名前に含まれた意味を霊的に調べると、聖められていく信仰の成長過程が説明されます。
それで、この間は、ユダ、ルベン、ガド、アセル、ナフタリ、このように五つの部族の名前まで説明しました。もう一度その意味を調べてみると、「ユダ」の意味は「ほめたたえる」です。「ルベン」は「子を見よ」という意味です。「ガド」は「幸運が来た」という意味です。四番目の「アセル」は「しあわせ」、五番目の「ナフタリ」は「争う」という意味です。
この名前に含まれた意味を順に説明するなら、どんな意味になるでしょうか?
まず「ほめたたえる」とは、神のひとり子イエス様がこの地上に救い主としてお生まれになったことをほめたたえる、という意味です。「子を見よ」とは、このような神の御子イエス様を信じて救い主として受け入れれば救いに至るという意味です。
「幸運が来た」とは、このようにイエス様を救い主として受け入れて、救われて天国に行くようになるのですから、どれほど幸いなのかという意味です。「しあわせ」とは、救われて真理の中で信仰生活をするとき、しあわせで喜びあふれることを言います。「争う」とは、信仰の競走の中で熱心に罪と戦って捨てて、天国を激しく攻めて行くという意味です。
ほめたたえる、子を見よ、幸運が来た、しあわせ、争う、このようにそれぞれの名前に含まれた意味によって信仰の成長過程が悟れるのです。
ここまでがこの前に語った内容です。今からは、六番目のマナセの名前の意味から調べましょう。

「マナセ」という名前は「忘れる」という意味です。それでは、何を忘れるというのでしょうか? それは、何か気まずいことや悔しさのような感情、すなわち、悪を心に持っているのではなく、忘れてしまうという意味です。
皆さんの信仰がだんだん成長すると、心に悪い感情を持たない段階に至ります。たとえさびしいことや悔しいことにあっても、いつも相手の立場から良く考えようとします。理解して、いだいて、敵までも愛そうと努力します。自分に悪を行った人々に対しても、根に持つのではありません。根に持って、機会があれば仕返ししようとする心ではないのです。水に流して忘れてしまうのです。
<マタイ6:12>のイエス様が教えられた祈りを見ると、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とあります。
神様は、私たちが罪を悔い改めて立ち返るなら、その罪を覚えてさえおられません。このような恵みを受けている皆さんは、当然皆さんに罪を犯した人でも赦して、愛して、罪は覚えてはならないのです。
ところが、十二部族から抜けた「ダン」の意味は、むしろ「かばってくださる」という意味です。相手をいだいて、理解して、忘れるのではなく、何としてでも自分はいつもかばわれて、正しいと認めてもらいたいと思う人がいます。このように自分を認めてもらいたいと思う心、相手に悪い感情を持っていて仕返ししようとする心になってはいけません。このようなダン部族が十二部族から抜けたように、皆さんの心からこのような悪い心はすべて脱ぎ捨てなければなりません。
聖徒の皆さん、マナセは十二の部族のうち六番目、すなわち、中間程度に出て来ます。したがって、信仰の五段階の中でも、このように心に悪い感情を持たずに忘れられる段階は、三段階の中盤を越えなければなりません。
信仰の一段階や二段階では、自分に悪を行う人を心から赦すことがやさしくはありません。もちろん、神様のみことばを聞いて学び、右の頬を打つ人に左の頬も向けるのが真理であることは知っています。しかし、実際に何の理由もなく右の頬を打たれると、信仰の一段階ではとても悔しくて、相手が無礼に思われます。自分もすぐ仕返ししようという心になり、結局、行いとしても出て来るようになります。
信仰の二段階の人は、わけもわからずに相手に頬を打たれても、直ちに立ち向かって戦わないのです。何としてでも我慢しようとするけれど、心の中ではむかむかします。そのうち、結局我慢できずに、感情が爆発してしまう場合もあります。
信仰の三段階でも、もちろん心ではむっとします。ですが、心にある感情と立ち向かいたい衝動を懸命に抑えます。信仰の三段階なら、このように爆発せずに、我慢できるほどにはなります。このように心にある悪と戦っていくと、もう抑えつけて我慢するのではなく、だんだん悪い感情そのものが生じなくなります。
三段階の中盤を越えて、信仰の岩の段階に入ると、この時は悪いことにあっても、ある程度我慢して忘れることができます。恨みを晴らそうとするのでもなく、無理に抑えつけて我慢するのでもないし、相手の過ちを全く忘れてしまうのです。
それなら、皆さんの信仰を今、この段階に照らして見ますように。他の人から不当な目にあいました。何の理由もなく、ひどく迫害されました。あるいは、自分がとても苦労したのに、他の人にその功績を奪われてしまいました。このような時、皆さんはどんな心でしょうか? 相手の過ちをすべて忘れてしまい、すべてをご存じである神様だけを仰ぎ見ているでしょうか? このように神様にすべてをゆだねる信仰なら、それほど御霊の歩みに近くになったということです。
このように忘れる信仰の段階を通って、さらに深い信仰に入ってくると、次は「シメオン」です。「シメオン」という名前の意味は「聞く」です。神様が皆さんを探って、皆さんの求めと祈りを聞かれる次元を意味しています。もちろん、神様はいつも神の子どもたちを探り、その求めと祈りを聞かれます。しかし、皆さんが御霊の歩みの次元に深く入ってみてください。神様はさらにすみやかに皆さんの祈りと求めに答えてくださいます。
皆さんが肉の信仰にとどまっている時と、御霊の人の信仰に入った時とでは、神様が答えてくださる次元が違います。御霊の人の信仰に入っても、全く聖なるものとされた時と比べるなら、また答えが大いに変わります。
たとえば、皆さんがあるものを神様の前に信仰によってささげたとします。この時、まだ御霊の歩みに入る前は、一般的に押しつけ、揺すりいれあふれるように受けます。およそ倍の祝福は受けるのです。しかし、御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされれば、三十倍、さらに六十倍、百倍の祝福も受けられるのです。
御霊の歩みに入る前は、長い期間定めて祈って断食しなければならないことも、御霊の歩みに入ると、答えの期間がはるかに短くなります。全く聖なるものとされると、心に思うだけでも、必要な瞬間に直ちに答えが与えられます。神様があらかじめ備えておかれるからです。
聖徒の皆さんも、このように神様が皆さんの祈りと求めを聞いてすぐお答えになる次元に入ってきますように。
次に、八番目のレビは「結ぶ」という意味です。これはすなわち、主と結ばれるという意味です。<エペソ5:31-32>に「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」とあります。ここで「教会」とは、聖徒ひとりひとりを意味します。聖徒たちが主を受け入れて聖霊を受け、主と一つになります。男女が結婚して一つになるように、花婿である主の花嫁になるのです。
ところが、本文の「主と結ばれる」とは、もう少し深い次元の意味です。主が教えられたみことばに聞き従って、真理の中に完全にとどまるという意味です。
<ヨハネ17:21>でイエス様は「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」と言われました。
本当に主を愛して天国を望む人は、神様のみことばである真理の中にとどまります。心の罪と悪まで脱ぎ捨てて、完全に主と一つになるために努力します。神様を信じているといっても、真理の中を歩まずに、相変わらず罪の中を歩むなら、むしろ罪の支配者である悪魔と結ばれるのです。
ですから、本当に信仰があるなら、こまめに心の悪までも脱ぎ捨てなければなりません。完全に聖められて、真理の中にとどまらなければなりません。神様はこのように主と一つになった子どもたちを用いて神の国を成し遂げ、栄光を受けられます。
次に、九番目はイッサカルです。イッサカルという名前には「報酬」という意味があります。これはすなわち、蒔いたとおりに刈り取らせ、行いに応じて報いてくださる神様の公義を意味します。
各人が神様の前でどれほど忠実であり、奉仕したかによって、神様はその報酬を与えてくださいます。このイッサカルという名前は、まさに死に至るまで忠実であり、全家を通じて忠実な者になるために走って行く段階を意味します。御霊の歩みに入った人はこの地上の朽ちるどんなものにも望みを置きません。ただ天の報いだけを望みます。心と思いと知力と時間を尽くして、与えられる報酬の代価を払っていくのです。
<黙示録2:10後半部>に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。このように死に至るまで忠実になっていく人には、いのちの冠以上の報酬が与えられます。少なくとも三天層以上の場所をいただくようになります。
それで、十番目のゼブルンという名前の意味がまさに「ともに住む」です。皆さんがこの地上でも完全に主の中にとどまるなら、天国でもそれにふさわしい所に住むことができます。さらに完全に光の中にとどまった分、天国でも最も輝く所に住むようになります。
こういう次元に入ると、<ヨハネ15:7>の「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」というみことばどおりになります。
この時は、単に蒔いただけ刈り取る次元ではありません。蒔いたものの三十倍、六十倍、百倍の祝福も受けて、心にいだくとおりに答えられるのです。まさに、十一番目のヨセフという名前には「加える」という意味があります。
皆さんが全く聖なるものの次元に入ると、皆さん自身だけが祝福されるのではありません。皆さんの周りまでもあふれるように祝福されます。ヨセフによって結局、ヤコブとそのすべて家族までも深刻な飢饉から救われたことのようです。皆さんがこのような次元まで入るなら、将来、天国ではどんな所にいるでしょうか? ヨセフのような次元の信仰に至ったなら、当然新しいエルサレムの栄光が与えられます。
最後の十二番目はベニヤミンです。ベニヤミンの名前には「右手の子」という意味があります。
神様の御座の右には主が座られます。このように皆さんも、皆さんの行いに従って、いくらでも光栄ある座に座ることができます。
<マタイ20:23>に「イエスは言われた。『あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。』」とあります。
主の御座の左右に座る栄光も、必ずしも決められた誰かに下さるのではありません。それにふさわしい資格を備え、信仰で激しく攻めて行く人のものです。熱心に罪と戦って捨てて聖められた人、全家を通じて忠実だった人、こういう人々の中でも最もふさわしい人のために神様が備えておかれたのです。父なる神様により似せられた人でこそ、父なる神様の御座にもさらに近づくようになります。神様は皆さんすべてが熱心に天国を攻めて行き、このように尊い座に至ることを望んでおられます。

愛する聖徒の皆さん、今までイスラエルの十二部族の名前に含まれた意味と、それが聖潔の段階、すなわち、信仰の段階とどのようにかかわっているのかを調べました。神様はこのように十二の部族を通して、七年患難の間にも救いの摂理を成し遂げられます。ところで、この時は非常に短い期間に、全世界に福音が伝えられなければなりません。それで、少ない数ではない、十四万四千人の神のしもべたちを立てられるのです。彼らによって全世界にもう一度福音が宣べ伝えられます。この時、七年患難以前に主を受け入れなかった数多くの魂が主を受け入れて救われます。
続く本文<9節-10節>に「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」とあります。
この時、しゅろの枝を手に持って、神様と小羊、すなわち、主に栄光をささげる数えきれぬほどの大ぜいの群衆がいます。彼らがまさに十四万四千人に伝道されて救われた人々です。
彼らが「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから」出て来るとあります。イスラエル民族だけではなく、あらゆる民族のうちから出るという意味です。
「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」とあります。十四万四千人の神のしもべたちに伝道されて救われた数は、十四万四千よりはるかに多いのです。それでは、その数がどれほどでしょうか? 実際、100万人になっただけでも、その数を数えるのが難しいです。私が海外聖会に行ってみると、数十万人集まっただけでも、いちいち数えられないのです。
したがって、本文の「大ぜいの群衆」もやはり、その数がいくらなのか正確にわからないけれど、それでも多くの人々が落ち穂拾いによって救われるということです。
<10節>に、彼らが白い衣を着たということは、彼らも救われた神の子どもだというしるしです。小羊の血によって罪が赦されたという意味です。しゅろの枝を手に持っているのは、神様と小羊、すなわち主を崇める行いです。イエス様がエルサレムに入城される時も、多くの民がしゅろの枝をとって、王である主を迎えました。
ところが、本文を見ると、「彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」とあります。小さい声で栄光を帰すからといって、神様が聞けないわけではありません。しかし、救いの喜びがあふれると、自然に大声で叫ぶのです。心から神様を崇めるので、力ある声で栄光を帰すのです。
ですから、皆さんが祈りや賛美の時も、心からささげるなら、大きくて力ある声が出て来るのです。だからといって、耳に障るように声ばかり大きいのではありません。その中に恵みと感動が含まれているために、聞く人もともに喜んで満たされます。
救いの希望が絶たれたような七年患難から救われたのですから、彼らがどれほど喜びと感動で賛美するでしょうか。このように、救われた群衆が神様と小羊に栄光を帰すとき、これに御使いたちが答えて賛美します。
<11-12節>に「御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、 言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』」とあります。ここからは次の時間に調べましょう。

<結論>
愛する聖徒の皆さん、きょうは信仰の成長の段階を調べてみました。今、皆さんの信仰はどの水準に至っているでしょうか? 5年前、10年前と比べても、相変わらず似た水準にとどまっている方はいないでしょうか?
皆さんはきょう、イスラエルの十二部族から除かれたダン部族の名前に含まれた意味を聞きました。ダンは、その順序を見るとき、信仰の段階では三段階の岩に入らなければならない信仰です。それでも相変わらず心の悪を捨てないで、むしろいつもかばわれて、自分は正しいと認めてもらいたいと思うなら、どうなるでしょうか?
皆さんの中には、このように心の割礼をせずに停滞してしまう方は決していませんように。こういう人は信仰生活に喜びや感謝があるわけがありません。かえってかんしゃくと悪い感情と誤解と、さばいて罪に定めることなど、罪の壁を積んでいきます。ですから、様々な問題が生じたりします。
すると、こういう人は「私は神様の前に何か大きい罪を犯したのでもないのに、なぜ私にこういう問題が起きたのだろうか」と言うのです。自分を全く発見できずにいるのです。これは御霊に属する信仰生活をしなかった結果です。
御霊の属する信仰生活は、まさに心の割礼から始まるのです。皆さんがいくら長い間信仰生活しても、心の割礼をしなかったなら、それは相変わらず肉の信仰生活にとどまっているのです。このような肉の信仰生活は、結局限界を迎えます。なまぬるい信仰になり、形式的な信仰になり、世と妥協する信仰になってしまうのです。
この時間、参加されたすべての皆さんはまめに心の割礼をして、御霊に属する信仰生活をしていきますように。それで信仰が日増しに成長して、主と一つになりますように。さらに進んで、皆さんによって周りの人々も一緒に祝福される信仰になるようお願いします。
皆さんの信仰がこのように成長していくとき、まさに世に光を放つ伝道者の役割ができるのです。このような皆さんによって、七年患難が来る前に、数多くの魂が主に導かれるべきではありませんか? それで、将来天国でも、永遠に輝く栄光ある座に至る皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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