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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第1課 「肉の信仰と霊の信仰」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-01-08


読むみことば: ヘブル11:1-3
覚えるみことば: ヘブル11:1
参考にするみことば: ヤコブ2:26
教育目標: 神が望まれる霊の信仰と、神が認められない肉の信仰について調べ、自分の信仰を顧みる。


1. 神が望まれる信仰は霊の信仰

信仰はどんなものとも比べられない宝の中の宝であり、世のすべての問題を解決する鍵です。人の力では不可能などんなことであっても、全知全能なる創造主の神にはおできになります。聖書を見ると、天の太陽と月が止まるようにしたり、葦の海を分けたりもして、戦争で勝利したり、死んだ人を生き返らせるなど、不可能が可能に変わった記述が数えきれないほどあります。このように神は全知全能なので、人が病気とわずらいをいやされることも、家庭と事業場の問題が解決されることも、まことの信仰さえあるなら難しくありません。
ところが、神を信じているとはいえ、救いの確信さえなしに生きていく人々がいます。世の人と変わらず、病気とさまざまな問題で苦しんで、試練や患難の中に生きていて、祈っても答えられない人がどれほど多いでしょうか。<マタイ9:23>に「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』とあるので、信仰によって祈ったなら、必ず答えられなければなりません。「信じます」と祈ったのに答えられていないなら、自分の信仰がまことの信仰かをチェックしなければなりません。
<詩篇37:4>に「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあり、<ヘブル11:6>には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。したがって、私たちが信仰によって神に喜ばれるなら、心の願いまでも答えられるのです。もし「神を信じている」と言いながら答えられていないなら、これはまことの信仰ではないからです。
それでは、神が望まれる信仰とはどんな信仰でしょうか? 信仰は大きく二つに分けられます。神が認めて答えてくださるまことの信仰、すなわち、霊の信仰があるかと思えば、反対に神が認められない肉の信仰があります。


2. 神が認められない肉の信仰

1) 自分の知識と思いと一致することだけを信じる信仰
肉の信仰は救いや信仰とかかわりがなく、世の人々も持てる信仰です。たとえば、「このおしぼりは白です」と言ったら、白であることを確認した人は誰でも信じます。自分が生まれてから今まで学んで受け入れた知識と一致するからです。ところが、私たちが学んだ知識が全部真理だとは言えません。歳月が過ぎれば変わることがあまりにも多いし、国と民族、または個人によっても、真理と思う知識や正しいと思う価値基準が大いに違います。たとえば、遠い昔は、地球は丸くなくて平たい、太陽が地球の周りを回ると学びました。その時の人々はこれが真理だと思っていましたが、今はこれを信じている人はいません。ほとんどの人は小さい頃から何かを真理だと学べば、それが真理だと堅く信じてしまいます。それで、自分の知識と合わなければ、むしろ真理を真理に逆らうものと思ってしまいます。
今日、福音を聞いても創造主の神が信じられない人々がこのようなケースです。小さい時から進化論という偽りの理論を真理として学んできたので、真理である創造を教えても信じません。進化論は決して真理でなく、人の思いの中で作り出した間違った理論です。いくら数千万年、数億万年経っても、魚は陸上動物になれないし、類人猿が人になることもできません。
そうかと思えば、ある人は「全能の神様を信じます」と言いながら、聖書を自分の知識と理論に合う部分だけ信じます。世の知識と理論に合わせようとするなら、聖書には信じられない部分があまりにも多いです。また、人の力ではとうてい不可能な神の力あるわざも納得しにくいです。ですから、不思議としるしについての記述を読めば、それが実際にあったことではなく、象徴やたとえだと思ったり、ペテロが水の上を歩いたと言うと、浅瀬を歩いたのだと解釈したりします。「薬を飲んで、手術して病気が直った」と言うと信じられるけれど、ただ祈りだけでいやされたと言うと、何か他の理由があるのではないかと疑います。
しかし、このような信仰は神とはかかわりのないものであり、救われる霊の信仰でもありません。まことの信仰は、自分の思いと知識とかかわりなく、聖書のみことば全体が神のみことばであり、絶対的な真理であることを信じることです。

2) 移り変わる信仰
ある人は心の願いに答えられるために、熱心に祈って、礼拝に参加して、恵みに満たされて信仰生活をしてみますが、自分の願うとおりすみやかに答えられないと、だんだん疑い始めます。「神様は本当に生きておられるのだろうか? 私が祈れば本当に聞いておられるのだろうか?」と疑うようになり、だんだん恵みが落ちて、過去に信仰によって答えられたことや、周りの人が答えられた証しなども、偶然の一致だったように疑います。
<ヤコブ1:6-7>に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。このように移り変わる信仰は、答えられるまことの信仰ではありません。<マタイ11:24>に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあるように、求めるものは何でも「答えられる」と信じるのではなく、「すでに答えられた」と信じなければならないのです。
病気の問題もそうです。<第一ペテロ2:24>に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあるように、約二千年前、イエス様が苦しみを受けられて、私たちのすべての罪と悪、呪いを贖われたので、すでにいやされたのです。
したがって、信仰があるなら、これ以上つらくて苦しい姿でなく、希望に満ちて、喜んで感謝する姿になれるのです。また、すぐ目に見える証拠がなくても、答えられたという信仰が移り変わらないとき、霊の信仰、すなわち、答えられるまことの信仰だと認められるようになります。

3) 行ないのない信仰
神のみことばを「知っている」ことと「信じている」こととは別ものです。神のみことばは知識としてではなく、心から信じられなければならないし、その時はみことばどおり聞き従う行ないが伴います。たとえば、神はどんなものでも「蒔けば、その刈り取りもする」と言われました(ガラテヤ6:7)。これは健康や物質、あらゆる分野に当たる霊の世界の法則です。
ツァレファテのやもめは神の約束を信じて命令に従い、長い間の日照りの中で最後に残った一食の糧で預言者エリヤを養いました。人の思いを働かすならとうていあげられない、命のような糧でしたが、神の約束を信じたので行ないとして従いました。その結果、約束どおり日照りが終る時まで「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」という祝福を受けました(第一列王17章)。
ところが、肉の信仰を持っている人は、このようなみことばを聞いて知識としては知っていますが、いざ難しい現実に直面すると行なえません。当面の生活費が足りそうもないなら、十分の一献金を完全にささげられなかったり、いろいろな献金をささげることも惜しみます。神に蒔くものは何でも祝福として報いられることを本当だと信じるなら、そうするはずがないのに、知識としてだけ知っているので行ないが伴わないのです。
神が全知全能であることを信じるなら、何かの病気にかかったとき、どうして世の方法を使うでしょうか。神の力を知識としては知っているけれど、心では信じられないので、世の方法に頼るのです。このように信仰のない姿をご覧になると、神がどれほど悲しまれるでしょうか。それはアサ王が病気にかかったとき、「その病の中でさえ、彼は【主】を求めることをしないで、逆に医者を求めた。アサは、彼の先祖たちとともに 眠った。」と記されていることでよくわかります(第二歴代誌16:12-13)。
その他にも「いつも喜んでいなさい、すべてのことに感謝しなさい、絶えず祈りなさい、敵をも愛しなさい、仕えなさい、平和をつくりなさい」とあることをすらすら暗唱しても、知識だけで知って行なわないなら、相変わらず肉の信仰であり、神のみわざが体験できません。<ヤコブ2:26>に「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とあるので、死んだ信仰では答えや祝福を受けることはできないし、まかり間違えば救われることさえできないことを覚えて、必ず行ないのある信仰を持たなければなりません。


まとめと適用

1. <ヘブル11:1>をみんなで覚えてみましょう。

2. 肉の信仰と霊の信仰を比べてみましょう。
①肉の信仰は、自分の知識と思いと一致することだけを信じる信仰である。
霊の信仰は、( )。
②肉の信仰は、移り変わる信仰である。
霊の信仰は、( )。
③肉の信仰は、行ないのない信仰である。
霊の信仰は、( )。

「用語」を知って力にしましょう!

「進化論」とは?
神が天地万物をことばによって創造されたと主張する創造論と反対になる理論。各種の動植物は互いに孤立しているのではなく、低い段階から高い段階に、単純な形から複雑な形に、不完全なものから完全なものに変化すると主張する生物学の理論である。科学としての進化論は1859年、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が出版されてから確立された。

 
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