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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第3課 「霊の信仰の成長過程」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-01-22


読むみことば: 第一ヨハネ2:12-17
覚えるみことば: 第一ヨハネ2:15
参考にするみことば: ヨハネ1:12; ピリピ2:5-8


教育目標

霊の信仰の成長過程について学び、自分の信仰を測ってみる。

イエス・キリストを受け入れて、神の子どもとされた特権を得て、天のいのちの書に名前が記されてから、霊の信仰が育ってこそ、子ども、青年の時期を過ぎて父の信仰に至ることができます。それでは、霊的に生まれたばかりの子どもたちはどのような過程を経て、おとなの信仰に至るでしょうか?


1. 罪が赦された「子どもたちの信仰」

<第一ヨハネ2:12>には「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」と書かれています。神を知らなかった人がイエス・キリストを受け入れれば、すべての罪が赦されて、聖霊を賜物として受け、神の子どもとされた特権が与えられるからです(ヨハネ1:12)。
私たちはおひとりの方、イエス・キリストの御名によってだけ、罪が赦されて救われることができます。なぜなら、人はイエス・キリストの御名によってだけ救われて、主の十字架の尊い血の力によってこそ罪が赦されるからです。<使徒4:12>に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあるので、イエス・キリストによって救われることが神のみこころであり、摂理であります。
したがって、イエス・キリストは私たちの罪を赦してくださる力と愛があり、原罪とご自分で犯した罪がないお方なので、私たちを救う方であります。イエス様が十字架につけられたとき、左右につけられていた罪人のうちひとりは、死ぬ直前に悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れたので、神の子どもと認められ、パラダイスに入る約束をいただきました。
このように、イエス・キリストを受け入れて、神にあって生まれたばかりの人を神は「子どもたちよ」と呼ばれるのです。子どもが生まれれば、出生届をしてこそ戸籍に載るように、天国のいのちの書に名が記されて、天国の国籍を得て、神の子どもと認められるようになります。したがって、「子どもたちの信仰」とは、イエス・キリストを受け入れて、罪が赦され、その名がいのちの書に記されて神の子どもとされた信仰です。これは信仰の一段階と言えるでしょう。


2. 父なる神を知った「小さい者たちの信仰」

イエス・キリストを受け入れて、神の子どもとして新しく生まれた人は、だんだん信仰が成長して「小さい者」になります。乳飲み子の時期を過ぎた子どもは、親を見分けて、ある程度ものを知っているとはいえ、まだ井の中の蛙のように知っていることがあまりないし、親に守られてはじめて生きられるのです。
霊的な成長過程でも、「小さい者たち」は、イエス・キリストを受け入れて、聖霊を受けて信仰を持ち、神の恵みのうちに入ってきて、父なる神を知るようになったばかりの人のことです。ですから、初心の者の信仰です。それで、<第一ヨハネ2:14>に「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあるのです。ここで「御父を知った」とは、イエス・キリストを受け入れたという意味です。
赤ちゃんは初めは何も知らないけれど、ある程度育てば、お父さん、お母さんがわかるように、イエス・キリストを受け入れて、みことばを聞いて学びながら信仰生活をしていくと、父なる神の心とみ思いを知るようになります。ですが、信仰が小さい時は、聞いて学んだとおり守り行なえないのです。
したがって、「小さい者たちの信仰」とは、真理を知って体験はしているけれど、みことばどおり行なうこともあり、行なえないこともあり、まだ完全ではない信仰の段階を指しています。この時を信仰の二段階と言えるでしょう。
世の人々も神を知っているとはいえ、彼らはイエス・キリストを知らないし、神のみことばの中を歩むことができないので、神を御父だと知らないだけでなく、父と呼ぶこともできません(ヨハネ8:19)。
神は私たちが父と呼ぶことを非常に喜ばれます。子どもとされた者が御父を父と呼べないなら、父の心はどれほど悲しいでしょうか? しかも肉の父はこの地上だけで必要ですが、私たちは神の子どもとして、永遠の天国でも神に仕えて生きるので、神と霊的に正しくて親密な親子の関係を持たなければなりません。


3. 悪い者に打ち勝って強い「若い者たちの信仰」

子どもが成長すれば若者になるように、霊的にも「小さい者たちの信仰」が成長すれば、「若い者たちの信仰」を持つようになります。つまり、霊的に子どもの時期を過ぎれば、みことばと祈りによって罪が何か、父の望まれることが何かが見分けられる若者の時になるということです。
若者は力が強くて、血気盛んで罪を犯しやすい歳であり、また、何でも見て学び、体験したがります。あらゆる分野に好奇心が多い時であり、何でもやり遂げられるという自信と、自分が正しいと主張する強さがあります。
霊的に若い者の時になれば、強い信仰があるので、世のむなしいことを追い求めず、聖霊に満たされて天国に望みを置き、みことばを聞いたまま罪と悪と戦って、勝つようになります。神のみことばがそのうちにとどまっているので、どんな試練や患難がやって来ても曲げることを知らない強さを持って、罪と悪がはびこった世と敵である悪魔に打ち勝ち、いつも勝利するのです。
それでは、雄々しくて強い若い者たちの信仰を持っている人々は何をもって世と敵である悪魔に打ち勝つのでしょうか? イエス・キリストを受け入れた人々は神の子どもとされる特権を得たので、真理にあって十分に悪い者に打ち勝つことができます。敵である悪魔も力があるけれど、神の子どもとされた特権の前では、あえてどうすることもできないのです。それで、<第一ヨハネ2:13>に「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあるのです。
私たちが真理のうちにとどまるとき、十分に悪い者に打ち勝てるので、真理である神のみことばが私たちのうちにとどまらなければなりません。そうするには、神のみことばを心に糧として、それを守り行なうために罪と悪を捨てて、真理の中に生きなければなりません。このように、神のみことばで世に打ち勝ち、支配できる段階が若い者たちの信仰です。つまり、信仰の三段階と言えるでしょう(第一ヨハネ2:14)。


4. 初めからおられる方を知っている「父たちの信仰」

自分の主張が強くて曲げることを知らない若者の時期を過ぎて、おとなになれば、人生の経験を通して状況をよく判断して、場合によっては頭を下げることのできる知恵も得るようになります。このように霊的に父になった人々は、神の根本について詳しく知るので、神の摂理を悟る、深くて高い次元の信仰を持っている人々です。
肉的にも、若者の時と父の時を比べてみれば、多くの違いがあります。若者の時は、聞いて学んだことであっても、実際に体験できなくて理解できないことが多いです。ところが、父になれば細やかに体験して理解するようになります。自分を生んでくれた父の故郷はどこであり、母とどのように出会って、どんな過程で結婚して自分を生んだのか、自分はどんな家系の何代目の子孫なのかというルーツを知るようになります。
「子どもを生んでみてこそ親の心がわかる」と言われているように、霊的にも、父たちの信仰になってこそ、父なる神の心を完全に知ることができます。それで、「父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とあるのです(第一ヨハネ2:14)。
また、父たちの信仰を持った人々はすべての人の手本になり、心がへりくだっているので、どんな人でも受け入れていだき、左右にそれたり揺れたりすることがなく、真理に完全に立つようになります。
父たちの信仰は、農作業で言うなら、実をよく結んだ結実期にたとえられます。実を結ぶことは結んだけれど、まだ中味が詰まっていないで、自分の思いや理論が正しいと思う若い者の時とは違って、弟子たちの足を洗って仕えの手本を見せられたイエス様のように、行ないで実を結び、神に栄光を帰していくのです。
このように「初め」からおられた神の心、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、死にまで従われたイエス・キリスト(ピリピ2:5-8)の心構えでいる人々を「父たちの信仰」すなわち、信仰の四段階、五段階と言えるでしょう。
したがって、すみやかに主の心構えになり、徳と愛を備えて実を豊かに結ぶ成熟した父たちの信仰になり、天国でも太陽のように輝く座に入りますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


* まとめと適用

1. <第一ヨハネ2:15>をみんなで覚えてみましょう。

2. 左と右を正しくつないでください。
■子どもたちの信仰 ・ ・神が父であることを知った段階
■小さい者たちの信仰・ ・敵である悪魔・サタンをみことばで退ける段階
■若い者たちの信仰 ・ ・創造主の神の深い根本まで知っている段階
■父たちの信仰 ・ ・聖霊を受けて救われた者の信仰


* 今週の課題
本の『信仰の量り』第三章に目を通してきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「信仰は望んでいる事がらを保証し」とは?
未来の希望をすでに手に入れたように確信するから、結局、現実として現れるという意味である。
「目に見えないものを、確信させるものです。」とは?
肉の目で見えないすべての実在を霊の目で見られる、霊の信仰と確信を意味する。

 
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