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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第8課 「みことばどおり行なおうとする信仰の二段階」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2010-02-26


読むみことば: ローマ7:21-25
覚えるみことば: マタイ7:14
参考にするみことば: マタイ7:13-14、黙示録3:15-16


教育目標

みことばどおり行なおうと努力するが、いざとなると思いどおりにならない、信仰生活の中で一番つらい信仰の二段階について調べる。

信仰の一段階は救われるための信仰であり、聖霊を受けるための信仰と言いました。すなわち、イエス・キリストを救い主として受け入れて、聖霊を受け、天国のいのちの書に名が記されて、神の子どもと認められた状態です。聖霊を受ければ、心に救いの確信と罪の赦しの恵みが臨んで、心が軽くなり、喜びと幸せで聖霊に満されるだけでなく、異言のような御霊の賜物を受けたりもして、賛美が絶えないし、教会に来ることがとても楽しいです。しかし、信仰が成長しないで停滞している時は、御霊がうめくので満たされなくなり、悩むようになります。したがって、喜びを失わないようにするなら、信仰の一段階にとどまっているのではなく、二段階、三段階へと成長し続けるために努力しなければなりません。


1. みことばどおり行なおうとする信仰の二段階

信仰の二段階は「行なおうと努力する信仰」です。イエス・キリストを受け入れて、救われることのできる信仰の一段階は、みことばについての知識がないので、仮に罪を犯してもよくわかりません。これは赤ちゃんが裸でいても恥ずかしいと思わないのと同じです。
しかし、みことばを聞いていのちを感じれば、教会に来てみことばを聞くことを慕うようになり、よく祈れる人を見れば、「どうすれば私もよく祈れるだろうか?」と思い巡らすようになります。また、先立つ働き人を見れば、「どうすれば私もあんなによく信仰生活ができるだろうか?」と慕います。
それで、世に向かっていた足が教会に向かい、みことばを聞くことに努め、前は世の友だちと交わるのが楽しかったのが、今は信仰の兄弟と交わることがもっと楽しいと思います。これは肉に従っていた心が御霊の願うことに従おうとする心に変えられたからです。
みことばどおり行なおうとする信仰の二段階になれば、自然にみことばを聞き、信仰の兄弟の証しを通して神の子どもはどう行なうべきかを学びます。したがって、主日を守って十分の一献金をしなければならないことも知るようになり、いつも喜んでいて、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなければならないことと、隣人を自分自身のように愛し、敵をも愛さなければならないことを学びます。また、憎しみ、ねたみ、さばき、罪に定めることなどの悪はどんな悪でも避けなければならないし、主の心に似せられなければならないことを知るようになるので、「私もそんなふうに生きよう」という決心と覚悟が生まれます。


2. 信仰生活の中で一番つらい信仰の二段階

信仰の二段階は、真理を知って、そのとおり行なおうと精一杯努めますが、いざというと思いどおりにならないので、信仰生活が一番つらく感じられる段階です。まだみことばどおり生きていける力が臨まなくて、信仰によって勝利できないのです。
たとえば、主日を守ろうと努力するけれど、時にはある集まりや約束のために、あるいは他の理由によって、完全に守れません。午前の礼拝だけささげてから、午後は他の用事をすませたり、世の誘惑に勝てないので、全く礼拝に参加しないで他の所に行ったりもします。また、十分の一献金を完全にしなければならないというみことばを知っているけれど、時には聞き従えなかったり、憎まないように努力してみるけれど、相変わらず憎しみが残っているのを発見するようになります。まだ心の中に姦淫があるので(マタイ5:28)、気に入った異性を見れば、心が動揺したりもします。
このように、みことばどおり生きていける力が完全に与えられていないけれど、何としてでもみことばに従おうと努力します。それで、さばき、ねたみ、そねみ、姦淫など、真理に背く罪と戦って捨てるためにあがくのです。
<ローマ7章21節以下>を見ると、信仰の二段階の信仰生活がつらい理由がわかります。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」
したがって、聖徒を顧みる人々は賢く導かなければなりません。まだ酒とタバコがやめられない人に「お酒とタバコをやめなければ、神様が怒られます」と責めれば、教会に来るのがいやになって、神からだんだん遠ざかることがあるので、「お酒とタバコも、神様が助けられれば簡単にやめられるし、信仰が成長すれば自然に捨てられるので、信じて祈りましょう」と勧めなければなりません。その人が神を懲らしめの神と思って、罪の意識を持って教会に来るのではなく、愛の神と感じて、喜びと感謝をもって来られるように導くことが大切だからです。
また、主日の午前礼拝だけささげてから店を開くなら、「神様は主日を完全に守れば喜ばれます。主日を守って信仰によって祈れば、主日にはいる収入よりたくさん収入があるように祝福されることを体験するようになります」と賢く勧めなければなりません。


3. エジプトから出たイスラエルの民の信仰

約400年間、奴隷生活をしていて、モーセについてエジプトから出たイスラエルの民は、カナンの地へ行く途中、神の驚くべきみわざを見ました。エジプトに十の災いが臨むのも見て、葦の海に着くと海が分けられるのを見たし、マラに着いては苦い水が甘い水に変わって飲めたし、シンの荒野では天から降りるマナとうずらを食べたのです。このように数えきれないほど神のみわざを体験しましたが、彼らは困難がやって来るたびに、神に信仰によって祈るよりは、つぶやいて恨みました。それにもかかわらず、神は変わらず彼らとともにおられ、導いてくださいました。
イスラエルの民はなぜカナンの地へ行く道で、困難にあうたびにつらく思って、神を恨んだのでしょうか? これは、難しい環境に置かれたからというより、心でつらいと感じていたからです。神が必ずカナンの地に導かれるという信仰さえあれば、荒野の旅程でいくら困難なことにあっても、これをつらいと思わないで、やすやすと通り抜けてカナンの地に到着したでしょう。
このように、同じ環境でも、どんな信仰を持って、どんな心構えでいるかによって違います。また、似た条件で生きていても、ある人はいつも不幸に生き、ある人は喜びと感謝の心で幸せに生きていきます。私たちに天国への希望と変わらない信仰さえあれば、いくら難しくても、つらいと思わないで、熱心に走って行けます。みことばに聞き従う人は信仰生活がつらいのではなく、むしろうれしくて楽しいものだからです。


4. みことばに聞き従えば、決してつらくない

信仰生活がつらいと感じられる理由は、みことばに聞き従わないで、他の道に向かうからです。たとえば、農村で牛が田を耕すのを見れば、主人のために熱心に働きながらも、むちで打たれることがあります。主人が引くとおり素直について行きさえすれば、何の問題もないでしょうが、他の所に行こうと我を張るので、主人はむちで打ったり、縄をかけて引っ張ったりもするのです。
同じように、神が「盗んではならない」と言われたことに聞き従って、盗まなければよいのですが、盗みたい心があるので信仰生活がつらいのです。神のまことの子どもになるために「捨てなさい」と言われることを捨てないから、苦しむのです。
<マタイ7:13-14>に「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。信仰生活を始めた人は、みことばを守り行なうことが狭い門に入るように難しく感じられます。しかし、従い続けてみれば、後にはこれが天国を所有する道であり、まことにうれしくて幸せな道であることを悟るようになります。したがって、みことばを知識として積むだけでなく、それを守り行なうために、罪と血を流すまで戦って捨て、さらに大きい信仰を持ちますように。


* まとめと適用

1. <マタイの福音書7章14節>をみんなで覚えてみましょう。

2. 信仰の二段階についての説明のうち、間違いはどれでしょう?
①信仰生活の中で一番つらい段階である。
②みことばどおり行なおうと努力する段階である。
③罪を犯しても、心で悩んだり苦しく感じられない。
④約束があれば、たまに主日を守らないこともある。

3. 「そういうわけで、私は、( )をしたいと願っているのですが、その私に( )が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7:21)


* 今週の課題
『信仰の量り』第5章5節「乳飲み子の聖徒と堅い食物を食べる聖徒」に目を通してきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「出エジプト」とは?
エジプトで430年の間、奴隷として暮らしていたヘブル民族が、神が約束されたカナンの地に入るために、モーセに導かれて脱出した出来事を言う。エジプトから出たイスラエルの民は、神が願われるまことの信仰を持つまで、40年の荒野の生活を経て、乳と蜜の流れるカナンの地に入った。

 
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