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メッセージ >
聖書の学び
Title
第1課 心を一新しよう
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2008-01-04
読むみことば: ローマ12:1-2
覚えるみことば: ローマ12:2
教育目標
新年を迎えて、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知り、主にあって心の一新によって変えられた生き方をする。
人は新しい服や家を持てば、夢がふくらみ、心が新しくなって、新鮮な気持ちになると言います。しかし、このような心は一時的なもので、ある程度時間が過ぎれば色あせます。新年を迎えて、一年間、多くの実を結ぶためには、何よりも心を一新して、新しい人にならなければなりません。内なる人が変えられて新しい人にならなければ、相変わらず昔に属する人になるしかないからです。
1. ただ心の一新によって自分を変えなければならない
私たちが神を知る前は、世の人と変わらずに飲み食いして、肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢を追い求めて生きてきました。自分の利益に従って嘘をついて、憎んで、快楽を追って生きていても、それが罪だと知らなかったのです。
ところが、伝道されたり、何かのきっかけで生ける神を見つけたりして、心の戸をあけてイエス・キリストを受け入れ、神の御霊である聖霊が心の中に住まわれるようになりました。このように信仰生活が始まったからといって、直ちに心が変えられるのではないので、熱心に心を変えさせなければなりません。教会に通うからといって救われるのではなく、神のみこころのとおり行なってこそ救われるからです(マタイ7:21、第一コリント6:9-10)。
[マタイ13章]で、イエス様が人の心を道ばた、岩地、いばらの地、良い地にたとえて説明されました。「道ばた」とは、固くなっている地のことで、みことばを聞いても悟れず、全く信仰が持てない人のことです。「岩地」とは、芽が出ても自分のうちに根がないため、育たない所です。これは、知識的にみことばを知ってはいるけれど、行ないが伴わないので、信仰の確信がなくて、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう、ということです。「いばらの地」とは、いばらのため、よく育たない地のことです。みことばを信じて行なうといっても、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。一方、「良い地」とは、種を蒔けば三十倍、六十倍、百倍に実を結べる地であり、みことばならば自分の思いを働かさずに、どんなことでも「アーメン」と言って聞き従う人のことです。
良い地に自分の心を耕していくためには、何より変えられようとする努力の上に、神のみことばと聖霊の助けが必要です。放っておいてやせていた地を良い地に変えて、豊かな収穫を得るためには、農夫は石を取って肥料をやり、雑草を抜いて虫も取ってやるなど、労苦を惜しまないのです。大地を耕す農夫のように心の地を耕すこの作業が、神が望まれる聖められた子どもになるための過程なのです。
私たちがみことばと聖霊の働きによってやせ地を耕していけば、以前のかたくなな心が柔和な心に変えられます。けがれた心が清い心に、真理に逆らう心が真理の心に、悪い心が良い心に変わるのです。たとえ誰かに傷つくようなことを言われても、気を悪くしないで、右のほおを打たれたら、左のほうを向けます。このような過程が、心の一新によって変えられて良い地になることです。
2. 神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る
私たちが心を一新によって自分を変えたなら、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知って、ただみこころのとおり行なわなければなりません。
1)何が良いことなのか
心を一新する前は、いくら「神のみこころは何か、何が良いことなのか」と教えても、理解できないで悟れません。しかし、心を一新すると、聖霊によって悟るようになるので、良い地に変えられただけ、神のみこころを明らかに知るようになります。
[マルコ10:17-18]を見ると、ひとりの人がイエス様に走り寄って、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と、イエス様を「尊い先生」と呼んでいます。その人はイエス様が良いわざだけを行なっていたので、尊い方だと思ったからです。イエス様は彼の質問に答えず、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。」と言われます。人としては「尊い方」と言われるほどの者はいないということを教えてくださるためでした。そして、「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」と言われました。
それなら、その尊いお方のみこころは、何であり、何が良いことでしょうか? 真理のみことばを信じて、聞き従って生きることが神のみこころであり、良いことなのです。世の人々が言う良いことと、神が言われる良いこととは違うのであり、世の人々が見ていくら良く見えても、神のほうからご覧になると、良くないこともあります。世の人々の中には、自分で良い人だと思って、イエス・キリストを受け入れないでいる、かわいそうな人がたくさんいます。神のみことばを知らないから、自分が悪い者で罪人であることが悟れないのです。しかし、イエス・キリストを受け入れて、神おひとりのほかには「尊い」方がいないことを悟って、ただ神のみことばである真理、すなわち、神がご覧になって良いことを追い求めていくとき、多くの実を刈り取り、豊かな人生を送ることができます。
2)神に受け入れられること
[ヘブル11:6]には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあり、[詩篇37:4]には「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。このように、神に受け入れられるためには、信仰を見せなければなりません。私たちの信仰が神に受け入れられるようになると、神は心の願いまでも答えてくださいます。
[マタイの福音書8章]を見ると、中風で苦しんでいるしもべの病気をいやすために、イエス様のみもとに来た百人隊長の信仰をイエス様が受け入れて、答えてくださったことがあります。しもべの病気をいやしてくださるようにと求める百人隊長の懇願をお聞きになったイエス様は「行って、直してあげよう。」と言われます。しかし、百人隊長は「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」という信仰の告白をします。イエス様は彼の信仰を見て、「わたしは、イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」とほめられ、直ちにしもべの病気をいやしてくださいました。
この外にも、信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって、彼が義人であることの証明を得ました。信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました (ヘブル11章)。
イエス様の弟子たちも信仰によって受難の道を行ったし、どんな苦しみがあっても、神のみこころ、すなわち、真理に従って生きました。そして、大きい信仰を見せると、神はそれを受け入れて、答えと祝福を与え、ともにいてくださいました。
私(堂会長イ・ジェロク牧師)がパキスタンで連合聖会を導いた時のことです。パキスタンはイスラム教国家であり、キリスト教聖会を開くことがやさしくありませんでした。しかし、神の恵みのうちに信仰によって準備しました。ところが、聖会当日、国民のほとんどがイスラム教徒なので、テロが起きることもあるという理由で、集会が取り消されてしまいました。
会場の門は堅く閉じられて、参加する人々を阻止するために数多くの警察が動員されました。私と宣教チームは聖会が無事に開かれることを信じて、私は「昼の12時になれば、運動場の門が開かれるでしょう」と大胆に宣言しましたが、そのとおりになりました。現実的には不可能でしたが、ただ信仰によって行なったら、神が受け入れて、その国の権力者の心をつかさどられ、堅く閉じられていた門が開かれたのです。
3)何が完全であるのか
神のみこころは何か、すなわち、何が良いことかをわきまえ知り、神に受け入れられる信仰があっても、行ないがなければ完全ではありません。なぜなら、たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるからです(ヤコブ2:26)。
立派な野球選手になるためには、野球について勉強するだけでなく、実際にボールを投げたり、打ってみたりして、熱心に練習しなければなりません。頭で理解しているのと同時に、行ないが伴ってこそ完全になるのです。
私たちが信仰を口で告白することも重要ですが、行ないによって信仰を完全にすることのほうがもっと重要です。[マタイ5:48]に「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあります。「祈ろう」と決心したら、移り変わることなく祈り、「喜ばなければ」と思ったなら、どんな患難がやって来ても変わらずに喜ぶとき、神の祝福をいただくことができます。
アブラハムは行ないをもって完全な信仰を見せたので、神が「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」と言われ、大いに祝福してくださいました(創世記22:17-18)。アブラハムの子孫は空の星、海辺の砂のように数えられないほど増えて、イエス・キリストがその子孫として来られ、敵である悪魔・サタンに打ち勝ち、地のすべての国々は祝福されて、永遠のいのちを得るようになりました。アブラハムがこのように大いに祝福されたのは、神のおことばに聞き従ったからです。彼が神の御前に完全だったので、その信仰が彼の義とみなされて、神の友と呼ばれ、信仰の父となる祝福を受けることができました。
愛する聖徒の皆さん、
新年を迎えて、心を一新にして、世をも、世にあるものをも、愛さないで、何よりも聖霊に満たされて、新しい人にならなければなりません。それで、神のみこころ、すなわち何が良いことなのかわきまえ知り、神の受け入れられる信仰を持ち、完全な行ないとして現して、求めるものは、何でもいただけますよう、主の御名によって祈ります。
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