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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第11課 全身にむちを打たれて、血を注ぎ出されたイエス様  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-03-14


読むみことば:マルコ15:15-20、レビ17:10-11、ヘブル9:22
覚えるみことば:第一ペテロ2:24、出エジプト15:26

教育目標

神の摂理のうちにイエス様がむち打たれて、尊い血を注ぎ出された理由を悟って、罪と病気から解放されて健康に生きるようにする。


1. 全身にむちを打たれて、血を注ぎ出されたイエス様

イエス様は十字架につけられる前、ローマの兵士に頬を打たれて、あらゆるあざけりとそしりを受けられました。たくましく、よく訓練された兵士がイエス様の着物を脱がせた後、とがった鉛のかたまりが付いているむちを容赦なく打ち下ろしました。むちがイエス様の全身に巻きつくたびに、肉片がはがれて骨がむき出しになり、血が飛び散りました。それでもイエス様は「打つ者に私の背中をまかせ」(イザヤ50:6)のみことばのように、避けられませんでした。ただ罪人になったすべての人類を救うために、全身にむちを打たれたのです。
それでは、神の御子イエス様がなぜむごいむち打ちにあわれて、血を注ぎ出さなければならなかったのでしょうか? その摂理が[イザヤ53:5-6]に詳しく説明されています。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
[第一ペテロ2:24]にも「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。イエス様が手と足に釘を打ち込まれ、全身にむちを打たれて注ぎ出された血のゆえに、人類は罪とすべての病気から解放されました。これを信じる人はそれ以上わずらいや病気で苦しむ理由がありません。
聖書を見れば、病気は罪のゆえであることがわかります。たとえば[マタイ9:1-8]にはイエス様が床に寝かせたままの中風の人に「あなたの罪は赦された。」と言われて、罪の問題を解決した後、起きて歩けと命じられます。[ヨハネ5章]には、三十八年もの間、病気にかかっている人をいやされて、「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と言われています。
イエス様が私たちのわずらいと病を背負ってくださったことを信じても、病気で苦しんでいる人がいる理由は何でしょうか? [出エジプト15:26]には「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」とあります。ここで「エジプトに下したような病気」とは、この世の中のあらゆる病気を総称しています。私たちが神のみことばどおりに生きないで罪を犯すとき、病気になります。神が正しいと見られることを行ない、そのおきてをことごとく守るなら、どんな病気にもかかりません。神を愛すれば、戒めを守ることは決して難しくありません。私たちが祈って努力すれば、神が恵みと力を下さるからです。
信仰が弱い時は、病気にかかると薬や病院など世の方法に頼ります。しかし、信仰が育てば、神のみことばどおりに生きるので、病気にかかりません。もし病気にかかったとしても、自分を顧みながら神の御前で心から悔い改めれば、いやされます。
時々「私は信仰が弱いので罪を犯す時がある。人が完全に神のみことばどおりに生きるのは大変だ」と言う人もいます。ところが「私は弱い。つらい」と告白すれば、弱くてつらくなるしかありません。どんな状況でも「私は神様の恵みによって健康だ」と言えば、神の恵みと力が与えられて、疲れにも十分に勝ち、不可能が可能に変わります。
ある人は「祈りを受けても相変わらず痛いのに、どうして治ったと言うのでしょう。それでは嘘にならないでしょうか?」と言うこともあります。しかし、[マルコ11:24]に「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあります。また、[ヘブル11:1-2]には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。
信仰はすでになされたことを見て告白するのではありません。目に見えないものを信仰によって望むとき、実際にそのとおりになります。いくら「治ると信じます」と言ってもいやされないならば、霊の信仰の告白ではありません。心から真実に信じる信仰を口で告白するとき、保証されてそのとおりになるのです。
したがって、神のいやしのみわざを体験しようとするなら、「痛い、つらい」という思いに捕われるのでなく、霊の信仰を持たなければなりません。約2000年前にイエス様が全身にむちを打たされたことによって、私たちを病気から贖い出してくださったことを確かに信じて、真理の中を歩めば、健康になります。


2. わずらいを身に引き受け、病を背負われたイエス様

[マタイ8:17]に「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」とあります。このようにイエス様がむち打たれたことによって、私たちの病とわずらいを代わりに背負ってくださったので、私たちはこれ以上このために苦しむ理由がありません。
ある人は「人は本来弱い存在だ」「イエス様の弟子ペテロも、イエス様が誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさいと言われたのに、肉体が弱くて眠っていたではないか」といつも否定的なことを言います。しかし、ペテロが肉体が弱かったのは、まだ聖霊を受ける前だったからです。
私たちがイエス・キリストを受け入れて、賜物として聖霊を受ければ、信仰の告白のとおりになります。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」というみことばを完全に信じて従うとき、すべての病気から解放されるのです。一方、神のみことばが信じられないで、従わなければ、決していやされることができません。
私たちが戒めを守って真理の中に生きるとき、神がすべての病気をいやされて、どんなことでもできるようにしてくださいます(マルコ9:23)。また、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得て、神に栄光をささげて生きるようにしてくださいます。
[ヘブル13:8]に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあるみことばどおりに、誰でも信仰によって求めれば、イエス様の当時と同じように神の力を体験します。死人を生かし、見えない人の目を開き、歩けない人を立たせるなど、さまざまな病人をいやすことができます。


3. イエス様が尊い血を注ぎ出された理由

[ヘブル9:22]には「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。人が病気から解放されようとするなら、誰かが罪の問題を解決してくれなければなりませんが、そこには必ず血を注ぎ出すことが必要です。
旧約時代には、罪を犯すたびに羊や牛をほふって、血のいけにえをささげて、罪が赦されました。[レビ記17:11]に「肉のいのちは血の中にある」とあります。したがって、血を注ぎ出すとき、その血が罪を贖います。ところが、人が罪を犯すたびに、いつも動物をほふってささげなければならなかったので、神がご覧になって完全なものになれなかったのです。
しかし、イエス様が人となってこの地上に来られて、傷もしみもない尊い血、力ある血を注ぎ出してくださった後は、これ以上動物をほふって血のいけにえをささげる必要がありません。イエス様の尊い血で過去、現在、そして未来の罪まで、人類のすべての罪が贖われたからです。[ヘブル10:19-20]に「兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」とあります。
アダムの罪によって罪人になった全人類は、聖なる神と交われる資格を失いました。それで、旧約時代には祭司長が代わりに聖所にはいって、神と交わりました。ところが、イエス様が人となってこの地上に来られて、十字架につけられて尊い血を注ぎ出されることによって、すべての罪が赦されて、私たちも大胆に聖所にはいることができるようになりました。聖霊によって神と直接交わりながら、神の御前に直接立つようになったのです。
旧約時代には、動物の血と雌牛の灰を汚れた人に注ぎかけて、その肉体をきよいものにしましたが、今はこのような外面的な儀式は必要ありません。イエスの血によってあらゆる不法を行なった心を洗って、きよい心と行ないで生ける神に仕えるからです。
それでは、なぜイエス・キリストの尊い血だけが私たちの罪を赦すことができるのでしょうか? 主の血は傷もしみもなく、きよくて罪を完全に洗い流す力があるからです。イエス・キリストを受け入れた神の子どもは、病気で苦しむ理由が全くありません。罪の問題だけでなく、病気とわずらいまでもイエス様が身に引き受けてくださったので、いつも健康に生きられるのです。
したがって、私たちのわずらいを身に引き受け、病を背負うために血を注ぎ出してくださった主の愛に感謝して、霊肉ともに健康に生きられますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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