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メッセージ >
聖書の学び
Title
第12課 復活の望みと確信
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2008-03-21
読むみことば: ヨハネ11:25-26、第一コリント15:12-22
覚えるみことば: 第一コリント15:20
教育目標
イースターを迎えて、復活の意味と証拠を調べることによって、復活の確信を持って望みの中で生きるようにする。
1. 復活の望みであられるイエス・キリスト
ほとんどの人は長生きしたいと願いますが、誰も死を避けることはできません。不老草を得ようとした中国の秦の始皇帝も、世で聖人と呼ばれる孔子や釈迦、ソクラテスも、結局死ぬしかありませんでした。
しかし、ただおひとりイエス・キリストだけは、死なれたがよみがえって今でも生きておられるだけでなく、主を信じる人々に同じ復活と永遠のいのちにあずかることを約束されました。この世の誰にでも、死んでもよみがえって永遠に生きるという永遠のいのちへの道が開かれたのです。
しかも、キリスト教で言う「復活」は、ただ死んでまた生き返るという意味ではありません。この地上で身体の障害があっても、死んでから時が長く経って形さえ残っていなくても、主が再び来られる時は復活のからだに変えられて、神の栄光にあずることを言うのです。このような復活の望みがあるので、私たちはこの地上でのすべての苦しみを喜びをもって勝ち抜いて、どんなことも信仰によって勝利できるのです。
2. 誰でも信じられる復活の証拠
宇宙万物と自然を見ても、復活がまことで事実であることがわかります(ローマ1:20)。たとえば、さなぎが変わって空を飛ぶチョウになり、セミになります。冬の枯れ果てた大地は、春になれば青々とした草木でおおわれます。一粒の麦が地に落ちると、朽ちてなくなるようですが、すぐ新芽が出て、多くの実を結びます。
このように自然からわかる復活の姿は、聖書に記されたいろいろな出来事を読むとき、もっと具体化されます。[第二列王2:11]には、預言者エリヤは死を見ないで、神が遣わされた一台の火の戦車と火の馬に乗って、天へ上って行ったことが書かれています。
[マタイ17章]には、イエス様が、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった御姿に変わって、モーセとエリヤと話し合われる場面があります。これによって私たちは、モーセとエリヤもやはり、白い衣を着て太陽のように輝く姿だろうと推測できます。私たちがよみがえるとき、どんな姿になるのかを想像させるみことばです。
次には、復活の初穂であられるイエス・キリストによって信じられます。聖書には、イエス・キリストの前後に、死んで生き返った人々について記されています。また、今日もそのような人々がいることが見られます。しかし、このようなことは、命をつかさどられる神が死んだ人でも生き返らせるという証拠であるだけで、まことの復活ではありません。
まことの復活とは、ただ死んで生き返ることだけを言うのではなく、イエス・キリストのように死んで完全ないのちとしてよみがえった後、永遠に生きるということを意味するからです。したがって、まことの復活はイエス・キリスト以前にもなくて、今後も復活の初穂であられるイエス・キリストによってでなければあり得ないことです。
3. 主の空中降臨と聖徒たちの復活
人類の罪を贖ってくださるためにこの地上に来られたイエス様の復活については、すでに旧約に何度も預言してあり、イエス様もご自身が語られました。そのことばどおり、十字架につけられて死なれたイエス様は、葬られてから三日目に復活のからだになって、イエス様につき従った女たちと弟子たちにご自身を現わされました。
そして、四十日間この地上におられながら、復活の確信を植えつけてくださった主は、地の果てにまで福音を伝えなさいということばを残して、ついに雲に包まれて上って行かれました(使徒1:9-11)。主はよみがえって天に上げられ、再び来られることを知らせてくださいました。地の果てにまで御国の福音が宣べ伝えられる時が、まさにイエス・キリストが再び来られる時です。
その時は、天の雲に乗って、大能と輝かしい栄光を帯びて御使いたちに護衛された主が、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます(マタイ24章、第一テサロニケ4章)。主が天から下って来られると、キリストにある死者が、まず初めによみがえります。死んで墓に葬られた肉が朽ちないからだによみがえります。その後、生きている人の中で信仰のある聖徒たちが、終わりのラッパとともに一瞬のうちに変えられて空中に上げられ、主と会うのです。
4. 復活の確信を持った人の生き方
イエス様の弟子たちは、イエス様からイエス様の死と復活についてのおことばを何度か聞きましたが、完全に信じることはできませんでした。イエス様が捕えられた夜にはみな逃げてしまい、一番弟子のペテロでさえ、命を失うのではないかと恐ろしくて、三度もイエス様を知らないと否認しました。ところが、このようなイエス様の弟子たちは、どのようにして殉教さえ恐れないほど急に変ったのでしょうか?
それはまさに、よみがえられたイエス・キリストを直接目で見たからです。復活が実際の出来事だということを体験した彼らは、死の恐怖から抜け出し、主が言われたすべてのおことばと天国が確実に信じられたのです。
ステパノ執事が主を証しして、悪い人々に石打ちにされて殺されながらも、彼らのために愛と赦しの祈りができたのも、使徒パウロが多くの苦しみにもかかわらず、一生を喜んで福音を宣べ伝えることにささげたのも、すべて復活の望みがあったからです。彼らはみな神を完全に信頼して、一様に復活に対する確実な信仰と望みを持って、死ぬことまでもできました。
5. 神に対する信頼と確信を持つには
私たちが神に対するまことの信頼を持つためには、私たちの思いを制さなければなりません。すなわち、たましいが砕かれなければなりません。それでは、なぜたましいが砕かれてこそ神への信頼が持てるのでしょうか?
人の頭には脳細胞があって、その中には記憶装置があり、私たちが生まれてから目で見て、耳で聞いて学んだ内容がこの記憶装置に保存されるのです。つまり、脳細胞を一つの器とするなら、この器に人が生きているうちに入力されて記憶される内容物は「知識」として残ります。このように記憶された知識が再生されて出て来るものを「思い」と言い、入力された知識を活用するものを「知恵」と言います。このように知識と思いと知恵、これらすべてをひっくるめて「たましい」と言います。
ところが、たましいの中の内容物は、肉の願いに従って入って来たものがほとんどなので、私たちに入力された知識や、知識を使う考え、知恵、思弁なども、神に対して反抗する真理に逆らうものがほとんどです。
このように人の思いと神の思いは違うので、無から有を創造する神のみわざを心から信じるためには、まさにたましいを砕きなさいというのです。たましいを砕けば、その分私たちの心が限りなく大きくなって、神のみわざを受け入れて悟られ、心から信じられます。その時、まことに神を信頼することができます。
私たちが神をまことに信頼したら、次に大切なのは確信を持つことです。このためには信頼、すなわち、心から信じる信仰を土台として、必ず行ないを見せなければなりません。
[ヤコブ2:21-23]を見れば、アブラハムはその子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められました。アブラハムは知識だけで神を信頼したのではありません。彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされたのです。長血をわずらった女とバルテマイという盲人も、イエス様の力を心から信じただけでなく、行ないで現すことによって答えられたのです。
救いの問題も同じです。ただ「信じます」と言って救われるのではなく、信仰の行ないを通して復活に対する確信が持てなければ、決して永遠のいのちに至ることができません(ローマ10:9-10)。まずは心で信じて神との信頼関係をつくるべきであり、この信頼関係によって義に変えられた人の口が「イエスは主です。」と告白するとき、これが信仰の行ないになって、救われるのです。
このように主の復活を心から完全に信じるとき、私たちもよみがえることができるし、救われます。また、復活の確信があってこそ天国への望みが熱くなって、いやしと答えのみわざが現れます。
このような復活の望みを強く持ち、信頼と確信があふれて神の祝福を思いきり受けられますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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