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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第18課 霊的な子ども  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-05-02


読むみことば: マタイ18:1-4、23:12
覚えるみことば: マタイ18:3

教育目標

子どもの主日を迎えて、霊的な子どもの意味を知って、天の御国で一番偉い人と認められる聖徒になるようにする。

[マタイ18:1-4]では、弟子たちがイエス様のところに来て、天の御国では誰が偉い人なのか聞きます。この時、イエス様がある子どもを立たせて、この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人だと言われます。天の御国では、子どものように自分を低くする者が偉い人になって、尊敬されます。
それでは、イエス様が霊的な子どもになりなさいと言われた意味は何でしょうか? おとなげなく甘えて、幼稚な行動をしなさいということでなく、子どもの良い点を学びなさいという意味です。神は、あどけなくて世の汚れがついていない、子どものように霊的に純粋で、単純で、へりくだった心を持つように願われます。


1. 霊的な子どもの特徴

1) 単純です
子どもは単純なので、すぐ何かに適応する反面、どのように教えるかによって、良くも悪くも変われます。おとなよりはまだ世の汚れがついていないで、自分の主観がはっきりしていないだけでなく、単純な考え方をするからです。
まるで白い紙に絵を描くように、子どもはおとなが教えるとおり受け入れます。「弟をたたいてはいけない、買い食いをしてはいけない」など、教えられるとおり「しなさい」と言うことはして、「してはならない」と言うことはしません。
このように私たちが霊的に子どもになれば、神のみことばを聞くとき、そのとおり信じて従います。これは真理であれは真理に逆らうものだと言えば、そのとおり従います。
信仰の父アブラハムは子どものように単純だったので、神のおことばそのとおりに従いました。ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われた時も、どんな理由もつけず、弁解もしませんでした。「これは 私が見て正しいことか、私にとって益になるのか」を問い詰めませんでした。神が命じられるので、必ず正しいみこころがあると信じて、直ちに従いました。
私たちが天の御国で偉い人になるためには、子どものように単純で、真理を習ったまま信じて、聞いたみことばにそのとおり聞き従うことができなければなりません。

2) 純粋です
赤ちゃんはどんな思いや判断、分別力も全くない、無の状態で生まれます。育ちながら両親と家族、隣人と友だちを通して善と悪を習い、物事をわきまえるようになります。子どもは良い物をもらえばそれだけでうれしくて、悲しければ泣き、うれしければ笑って、純粋に反応します。悪いことをした時は怖くなって、良心の呵責をひどく感じます。
一方、おとなは何が正しくて正しくないかを学んでも、悪に染まっているので、過ちを犯しながらも良心の呵責が感じられないことがあります。世の闇に染まって純粋さがなくなれば、罪を犯しながらも無感覚になります。
しかし、真理の中に入って来て霊的な子どもになれば、善と悪の間で敏感に反応します。良いことを見ればすぐ感動して涙を流し、悪いことは身震いするほど嫌います。世の人は悪と思わないことも、真理の人は神が悪いと言われるならとても嫌って、何としてでも捨てようとします。
このように、私たちは霊的な子どものように純粋な心に変えられて、ごく小さい罪や悪でも決して受け入れないで、ただ善なることを切に慕うべきです。

3) 高慢になりません
子どもたちは知識が少なくて力が弱いので、おとなが何かを教えてくれれば、自分の考えを前に出さないで、そのとおり信じます。自分の欠けている点を隠そうとしないで、親やおとなに助けを求めます。自尊心を前に出さないで、自分から高められたり認められたりしようとしません。
同じように、霊的な子どもは神のみことばを聞くとき、自分が正しいと主張しません。みことばが自分の知識と合わなかったり、理解できないとしても、さばいたり誤解したりしません。信じて従うだけです。
たとえば、イエス様の当時も、イエス様が行なわれた神の力あるわざを見た数多くの人が、そのことばを信じました。「このような奇跡を行なう方なら、本当に神の人だろう」と言いました。自分の思いに合わなくても、神の力を見て神がともにおられることを悟るとき、イエス様のことばが正しいと謙虚に認めたのです。
このように霊的な子どもになれば、神のみわざを聞く時に、自尊心を前に出さないで、自分も体験したいと慕います。神は、真理を聞けばそのとおり信じて従い、へりくだって恵みを求める人に、神の驚くべきみわざが体験できるようにしてくださいます。


2. 霊的な子どもになるには

1) 火のような祈りとみことばによって罪と悪を脱ぎ捨てなければなりません。
[第一ヨハネ2:16]に「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。アダムが罪を犯した後、この世は闇を支配する敵である悪魔に属するようになりました。人は生まれて育つ間、世で真理に逆らうものを見聞きして学びながら、心が罪と悪で染まっていきました。高慢と憤り、さばき、罪に定めること、欲とそねみ、ねたみ、憎しみなど、真理に逆らうもので心が汚れたのです。
[第一テモテ4:5]の「神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」というみことばのように、火のような祈りと神のことばとによって、このような罪と悪を捨てなければなりません。このように欲と自尊心、その他のすべての罪と悪を捨てるほど、清い良心と純粋な心になることができます。また、神のことばを聞いたとおり信じて悟り、さらに完全に聞き従うことができます。

2) さまざまの思弁と、はかりごとを打ち砕かなければなりません。
[第二コリント10:5]に「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」とあります。自分が知っていることや正しいと思うことが神のみことばと合わない時は、無条件に捨てるべきです。ただ神のみことばだけが真理であり、神のみこころに従うことが最も優先にならなければなりません。
なぜなら、人が持っているほとんどの知識と思弁は、敵である悪魔が支配している世から来たものであって、神のことばと一致しないからです。[第一ヨハネ2:15-16]に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。
この世を支配している者が悪魔なので、生まれてから一つずつ学んでいくことすべてにおいて、真理に逆らうものを思いの中に入れるようになります。このように世から出たものの中で成長したので、霊的な子どもになるためには、世から出たものを捨てなければなりません。それなのに、自分が持っている思いと、はかりごとと、思弁で神のみことばを疑って否認しようとすれば、みことばそのものであられる神に逆らって立つことと同じです。神の前では高ぶりです。自分のはかりごとと思弁を働かせる人は、聖霊の働きかけに従って神のみこころのとおり行なう人をさばいて、罪に定めるようになります。
たとえば、[マルコ14章]では、ひとりの女がイエス様をこの上なく愛して、非常に高価な香油をイエス様の頭に注ぎます。これを見たある人は「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とその女を厳しく責めました。イエス様は彼らに「この女は埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と言われました。この女ははかりごとをせずに、聖霊に働きかけられて聞き従ったので、イエス様からほめられて、長く覚えられるようになりました。
このように自分のはかりごとと思弁を働かせる人々は、神のみこころに合わせて行なう人を非難して、最後まで肉の思いを捨てないので、結局、死の道に向かうしかありませんでした。それで、[ローマ8:7]に「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあるのです。私たちは火のように祈って、神のみことばで武装して、いつも自分の思いと言葉を真理に照らしてみなければなりません。さらに、肉の思いを捨てて、さまざまの思弁とはかりごとを打ち砕き、ただ御霊による思いをして、御霊の願うことに従うために努めなければなりません。
したがって、霊的な子どもになるために、徹底的に自分を否認しなければなりません。神のみこころがどこにあるのか、御霊の願うことはどちらかを祈って悟り、日ごとに変えられて、天の御国で偉い人と認められますように、主の御名によって祈ります。

 
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