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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第8課「柔和と徳で全家を通じて忠実であったモーセ」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2016-02-04


読むみことば: 民数記12:3_7
覚えるみことば: 出エジプト32:32
参考にするみことば: ヘブル3:5
教育目標: 綿毛のようにやわらかくて柔和な心を耕して、すべての人と平和を保ち、自分に任された使命をよく果たす忠実な働き人になるようにする。

モーセはエジプトの王子としてはかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。それだけでなく、荒野で練られながらも、ただ感謝する心だったので、神はモーセの心を良いと認められて、出エジプトの指導者としてお立てになりました。
それでは、神に選ばれたモーセはどんな善をもってイスラエルの民をエジプトから連れ出し、カナンの地に導いたのでしょうか。

1. 地上のだれにもまさって非常に謙遜であったモーセ

<民数記12:3>に「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」とあるように、モーセは非常に謙遜であって、神の御目にかなう柔和な人でした。
それでは、神が言われる霊的な柔和とは何でしょうか。心優しくやわらかい心に徳が重ね備えられている心です。綿毛のようにやわらかくてふんわりしていながらも徳があって、言葉と行動が正しくて、時には威厳を持って処理できる心なのです。
霊的に柔和な人はどんな状況でもすべての人と平和を保つことができます。これと違って、高ぶっていて自己中心的な人は、自分の心に合わない状況になると、金属音のようにやかましくて荒々しい反応が出て来ます。硬い鉄に石を投げれば金属音がして、ガラスに石を投げればやかましい音がして割れるのと同じです。
しかし、綿毛には、いくら石を投げて針で刺しても、音もなくただ包んでしまうのが見られます。霊的に柔和な人は綿毛のような心を耕したので、どんな状況でも誰とも引っかからないで平和を保ちます。自分の思いと教養に合わない人も十分に心に抱いて、どんなことも悪をもってさばいて罪に定めません。いつも相手の立場で理解して、へりくだった心で仕えます。相手によって心の平安を乱すこともなく、相手の心の平安を乱すこともありません。いくら信仰が弱くて悪を行う人でも顔を背けないで、最後まで変えられることを信じてあげて、相手がさらによくやれる道へと導いてあげます。
エジプトから出て来たイスラエルの民を導く過程で、モーセの霊的な柔和がよく現れています。彼はおとなだけでも六十万人になるイスラエルの民をエジプトから連れ出して、カナンの地まで導く四十年の旅程で、苦しくてつらい状況にたくさん遭いました。
モーセの信仰と従順によって葦の海を陸地のように渡りましたが、荒野を歩いている途中で飲む水がないと、民はモーセにつぶやきました。それでもモーセは信仰のない民を心に抱いて、神を呼んで祈り、マラの苦い水が甘くなるようにしました。
マラで水を飲んだ彼らは、さほど経たないうちに今度は食べる物がないという理由でモーセにつぶやきます(出16:3)。モーセはまた神に祈って、マナとうずらで彼らを養いました。
その後間もなくレフィディムというところで宿営したとき、民は飲む水がないと、またもやモーセにつぶやきます。それどころか「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」(出17:3)と言って、もう少しで石で打ち殺す勢いで立ち向かいました。その時も、モーセは神に祈ってから杖で岩を打って、水が出て来るようにしました。
このようにモーセが毎回神の不思議なみわざを見せても、民はまことの信仰を持てなくて、少しだけ困難がやって来てもつぶやきました。ある時は、モーセが十戒を受けに行った間に、民が金の鋳物の子牛を造って拝んだことがありました。
神はこのことで御怒りを燃やされて「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」と言われました。するとモーセは神に「どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」と切に願いました(出32:12)。この願いをお聞きになって、神は思い直されました。
続いて、どれほどモーセが地上のだれにもまさって非常に謙遜であったのかを見せてくれる場面が記されています。モーセがいざ山を下りてみると、民は偶像を拝んで、その前で食べて飲むなど、楽しんでいました。
彼らが神の御前で大きな罪を犯したことを知ったモーセはひどく悲しんで、またもや神に求めました。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出32:31_32)
ここで「あなたがお書きになったあなたの書物」とは「いのちの書」のことを言います。いのちの書から名が消し去られれば、救われません。そのまま地獄の火に落ちるのです。このようなことをあまりにもよく知っている彼でしたが、民が滅ぼされるように放っておくことができなかったので、自分のいのちを担保に切なるとりなしの祈りをささげたのです。神はこの祈りをお聞きになって、彼らを滅ぼそうとしたことを思い直されます。
モーセは自分のいのちと引き換えにしてでも、民を救いたい心でした。敵のためにいのちまで与えられる最高の善をもって民を抱いていこうとしたので、神はモーセが地上のだれにもまさって非常に謙遜であったと認められたのです。
皆さんはこのようなモーセの心にどれほど似ているでしょうか。自分の子どもひとり心に抱けなくて、争ってはいないでしょうか。兄弟姉妹や夫婦の間で互いに抱けなくて平和を壊してはいないでしょうか。教会でも聖徒たちを心優しく抱いているのか、自分と合わないからといって気を悪くしてはいないのか振り返ってみて、愛と徳で抱いて真理に導かなければなりません。

2. 全家を通じて忠実であったモーセ

ここで「忠実」とは、任された使命を完全に果たすことはもちろん、それ以上を充分にやり遂げることです。また、「全家を通じて忠実である」とは、自分が属しているあらゆる分野で忠実であることです。
全家を通じて忠実であるためには、自分の心と誠意、時間と物質までも惜しまず、喜んで犠牲にすることができなければなりません。<ヘブル3:5>に「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。」とあります。しもべとは雑事の使い走りをする人のことを言います。ですから、彼がどれほど自分を低くして、任された使命を完全に果たしたのかわかります。
モーセの使命は出エジプトの指導者として、イスラエルの民を神が約束されたカナンの地まで無事に導くことでした。ところが、旅の途中で少しだけ困難がやって来ても、つぶやいて立ち向かう民を四十年間も導くのは容易なことではありません。それでも彼は責任を回避したり、使命をあきらめたりしませんでした。どんな困難がやって来ても、ただ信仰によって難関を突き抜けて行きました。
罪を犯した民に対しても父親のような心で抱いて、彼らが神の望んでおられる民になるように最善を尽くして導きました。彼はエジプトから民を連れ出した日から神に召される日まで、一瞬も気楽に過ごしたことがありませんでした。彼が民のゆえに流した涙と、彼らのためにささげた悲しみの祈りは、言葉ですべて表わせないのです。このような心だったので、神は彼を信頼して、大いなる力を現してくださいました。それだけでなく、モーセは神から直接律法を頂き、友と話すように神と深く交わりました(民12:8)。
このように神の御前に忠実だったので、彼が堂々と神の御前に立ったでしょうか。そうではありません。いつも申し訳ない心があるだけでした。出エジプト第一世代のうち、カナンの地に入った人はヨシュアとカレブ、ただふたりにすぎず、いざカナンの地を征服した人はと言えば、出エジプト第二世代でした。彼らがカナンに入れたのも、モーセが立派に導いた結果でしたが、モーセは神の御前に実が少ないことをいつも申し訳ないと思っていました。自分に言いつけられたことをみなしてしまった後にも、「なすべきことをしただけです。」と告白する役に立たないしもべの心より、さらにへりくだった心でした(ルカ17:10)。
ひょっとして皆さんは「自分に任された使命が重くて大変だ。使命を手放したい。休みたい」と思ったことがあるでしょうか。それなら、イスラエルの民をエジプトから連れ出した時から神に召される瞬間まで、一時も安心できなかったモーセの心を考えてみますように。全家を通じて忠実であったのに、実が少ないことを申し訳ないと思うモーセの謙遜な心を思い浮かべてみて、さらに忠実でありますように。


* まとめと適用
( )の中に合う言葉を入れてください。
1.霊的な柔和とは、心優しくやわらかい心に( )が兼ね備えられている心である。綿毛のようにやわらかくてふんわりしていながらも( )があって、言葉と行動が正しくて、時には威厳を持って処理できる心なのである。
2. ( )とは、任された使命を完全に果たすことはもちろん、それ以上を充分にやり遂げることである。
また、()とは、自分が属しているあらゆる分野で忠実であることである。
3. 皆さんは任された使命をどんな心で果たしているでしょうか。

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* 今週の課題
次回はアブラハムの善(1)を学びます。アブラハムはどんな心だったので、その心が良いと認められたのでしょうか。創世記13章を読んできましょう。


* 知って力にしましょう
「モーセの善」
①はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取った。
②練られているとき、心から神に感謝した。
③地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
④全家を通じて忠実であった。

 
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