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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第24課 御霊の九つの実を結ぼう(1)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-06-13


読むみことば: ガラテヤ5:16-26
覚えるみことば: ガラテヤ5:22-23

教育目標

神から愛されて認められる御霊の人になるために、御霊の願うことに従って行ない、御霊の実を結ぶ生き方をする。

どこかへ行こうとするとき、目的地がわかって行けば、迷わないで早く正確に到着できます。天国に行くのも同じです。目的地に向かう途中にある大きい駅の役割をしてくれるのが「御霊の九つの実」と「八つの幸い」「愛の章」です。これらによって自分が聖められてどれだけ神の御座の近くに行けて、主の心に似せられたのかが見分けられます。
御霊の実とは、私たちの中に聖霊が来られて、活動をやめていた霊が生き返り、次第に成長して結ぶ実です。きょうは[ガラテヤ5:22-23]に出て来る御霊の九つの実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」のうち、愛、喜び、平安、寛容について調べます。


1. 愛

神は愛そのものであられるので、愛があってこそ神を知っていると言えます。神が最初の人アダムを創造された時に下さった愛は、霊の愛でした。ところが、アダムが神のみことばに聞き従わなかったので、罪が入って霊が活動できなくなり、その後、肉の愛に変わってしまいました。肉の愛は、自分の思いに合わなくて、自分の思いどおりに従ってくれなければ苦しみ、自分の利益に合わなければ、いつでも変わります。
一方、霊の愛は、[第一コリント13章]に出て来るように、寛容であり、親切で、ねたんだり自慢したりせず、高慢になったり礼儀に反することをしたりしません。自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪も思いません。
ところで、御霊の九つの実の愛は[第一コリント13章]の愛よりもさらに高い次元であって、自分のいのちまで与えられる犠牲の愛です。どんな代価も求めないし、自分によくしてくれたから愛するのではなく、純粋に自分を犠牲にして与える、まことの愛です。
霊の愛は、罪と悪と不法を捨てて聖められたほど心に臨みます。モーセや使徒パウロは、自分の名がいのちの書から消されるとしても、民族を救うために神に求めました。地獄でとこしえに苦しむとしても、自分の民族が救われさえすればそうなってもよいと思いました。
それでは、神は私たちにどんな愛を施されたのでしょうか? 死の道に向かうしかない人類を救いの道に導こうと、イエス・キリストを世界の始まる前に備えられました。時になるとイエス様は人となってこの地上に来られ、何の罪もなく十字架につけられて死なれ、私たちのすべての罪を贖ってくださいました。ひとり子まで惜しまず与えてくださった神の愛によって、人類に救いの道が開かれました。そして、イエス・キリストを受け入れる人はみな、永遠のいのちを得るようになりました。したがって、私たちは身と心と思いと最善を尽くして神を愛し、隣人を愛して、霊の愛の実を結ばなければなりません。


2. 喜び

霊的な喜びとは、どんな環境と条件でもいつも喜んで楽しむことです。良いことがある時だけ喜んで楽しむことは誰にでもできます。神から出た私たちは、現実では良くないことがあっても、いつも喜んで楽しまなければなりません。このような喜びは、私たちが肉の性質を捨てて、御霊の人に変えられるほど臨みます。
苦しみと悲しみ、憂いと心配などは、私たちの中に罪と悪と不法という肉の属性があるので出て来るのです。神を完全に信じて、すべてのことを神にゆだねて、御霊に属するものを慕って走って行けば、憂いや心配がやって来ません。私たちは主の御名によって救われた神の子どもです。神は私たちに永遠の天国を約束されました。このことを悟って信じたら、救いの喜びがいつもあふれるしかありません。
[ピリピ4:4]に「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とあります。私たちが天国の望みをもっていつも喜んで、すべてのことを肯定的に見て、善を追い求めようとするとき、喜びの実が豊かに結ばれるでしょう。


3. 平安

平安とは、辞書では「安らかで変わったことのないこと」です。誰かとひっかかることがなくて、ぶつからないし、平和に過ごすとき、平安だと言います。神から出た人の心には聖霊が住まわれて、真理を追い求めるように働かれます。真理に逆らうことを行なえば、私たちのうちにおられる御霊がうめかれるので、悩んで苦しくなります。サタンが心の中の真理に逆らうものに働きかけて、自分の利益を追わせるので、平安でなくなり、争いや葛藤が起こります。
私たちがどんな状況でも平安でいられるためには、聖霊が働きかけられるとおり真理を追い求めなければなりません。そうしないと家庭や社会、教会や国家にも、試練や患難がやって来て、平安でいられなくなります。
私たちが平安の実を結ぶためには、まず神との間に平安がなければなりません。周りの人と平安を保っていても、神との間の平安が失われていてはいけません。人との間の平安も、みことばに従ってもたらさなければなりません。家族と平安を保つために真理に背いて神に喜ばれないことをしたり、お金と名誉を得るために神との間の平安を失ったりする人もいます。神との間が平安であり、神に喜ばれるとき、神はすべての人と和らがせてくださいます(箴言16:7)。
そのためには、何より罪の隔ての壁があってはなりません。心にある悪を根の根まで引き抜いてこそ、神との間が完全に平安でいられます。イエス様がなだめの供え物になられたのも、神と私たちの間にある罪の隔ての壁を打ちこわすためでした(エペソ2:14)。イエス・キリストを信じて罪を捨てることが、神と私たちの間にまことの平安をもたらす第一歩です。
次に、自分自身が平安でなければなりません。そのためには罪による心の戦いを終わらせなければなりません。みことばに背く真理に逆らうものを捨てて、真理を追い求めるとき、自分自身も平安であり、他の人との関係でも平安でいられます。その時こそ完全に平安の実を結ぶことができるのです。


4. 寛容

第一コリント13章(愛の章)に「愛は寛容であり」とあります。これは、心に霊の愛を実現するための寛容であり、自分をひどく苦しめる人や試練をも受け入れられることです。一方、御霊の九つの実の「寛容」は、すべてのものに対する寛容であって、愛の章の寛容より次元の高いものです。
もしこの世に真理だけがあるなら、「寛容を尽くす」必要がありません。心に悪があるので寛容が必要なのです。たとえば、腹が立つのに無理に我慢することがあります。相変わらずおなかの中は煮えくり返っているが、表に出さないように抑えつけているのです。これは悪を持ちながら抑えているのであって、決して寛容を尽くしたと言えません。神が望まれるのは、善と真理に満たされていて、寛容を示す必要さえない心です。心に全き愛が臨むなら、どんな人も理解していだき、何のわだかまりもないので、「赦す」とか「寛容」という言葉そのものが必要なくなります。
それでは、このような寛容について、三つに分けて調べてみましょう。

まず 第一に、心を変えさせるための寛容です。
心に悪が多いほど、ささいなことでも自分に合わないなら受け入れられにくいのです。そうするうちに我慢できなくて、あらゆる悪が出て来ると、真理に逆らうことをしてしまいます。しかし、このような心を真理に変えさせるために、今の自分の姿に失望しないで悪を一つ一つ捨てていくと、ついに実が結ばれます。これが真理に逆らうものを捨てて、心を変えさせていくための寛容です。

第二に、人との間の寛容があります。
相手が自分の意見や思いや性格に合わなくても、善をもって理解して寛容を示すことです。たとえば、夫婦の間でも、成長した背景と環境が違うので、意見が合わないこともあります。この時、互いに理解しようと善をもって思えば、けんかをしないで穏やかな家庭がつくれます。「稲は実るほど頭を垂れる」という言葉のように、霊的にも、心から真理に逆らうものを引き抜いて、御霊に導かれるほど、へりくだるようになります。つまり、主の心になって相手を赦し、理解して愛でいだきます。さらに、すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めるので、人との間でも寛容でいられるようになります。

第三に、神と私たちの間の寛容があります。
これは、神の御前にささげた祈りと願いが答えられるまで、信じて待つことです。すぐに答えられたらよいでしょうが、神は私たちのすべてをご存じなので、最も適切な時に答えられます。私たちが祈りと願いに答えられようとするなら、必ず最後まで信じて待たなければなりません。ダビデは神の心にかなう人でしたが、長い歳月、サウル王に追われて逃げ回りました。いのちが脅かされても、ただ神を信頼していたので、後に王になり、ダビデの子孫からイエス様がお生まれになる祝福を受けました。
このように、答えられるために寛容を示すには、忍耐と自制が伴います。[マルコ11:24]に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあります。すでに受けたと信じて待てば、つらくありません。この時、神を信頼できないなら、一生懸命祈ったのに答えが遅れると、あきらめたり恨んだりするのです。それで答えられないのです。神の御前に祈ったら、答えられるまで疑わずに信じて待つ心を持たなければなりません。

[ガラテヤ6:9]に「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。寛容の実が結ばれていない人は、善を行なってもすぐ目に見えるものがなければ、「返ってくるものがなくて、むしろ損になる」と飽いてしまいます。一時は熱心に善を行ないながらも、結局耐えきれなくて、罪を再び犯して世と友になります。しかし、寛容の実が結ばれれば、まことの愛をもって信仰によって善を行ない続けるので、時期が来ると刈り取ります。

愛する聖徒の皆さん、悪をもってうわべだけ寛容を示そうとすれば、わだかまりだけが大きくなりますが、善をもって寛容を示すなら、結局心の悪の根まで抜かれて、真理だけが残ります。赦して、理解して、愛するために、善をもって行なうなら、ついに寛容を尽くす必要がなくなり、心にはただ愛と憐れみ、赦しが臨みます。さらに進んで、悪がないので心に天国が臨み、喜びと幸せだけがぎっしり満ちるようになります。
皆さんは御霊の願うことに従って熱心に行ない、御霊の実を結んで、新しいエルサレムに入れる資格を完全に備えられますように、主の御名によって祈ります。
次回は、親切、善意、誠実、柔和、自制の実について調べます。

 
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