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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第25課 御霊の九つの実を結ぼう(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2008-06-20


読むみことば: ガラテヤ5:16-26
覚えるみことば: ガラテヤ5:22-23

教育目標

神から愛されて認められる霊の人になるために、御霊の願うことを追って行ない、御霊の実を結ぶ生き方をする。

御霊は神の心であられ、御霊の実が私たちの中に結ばれるほど神に喜ばれます。きょうは前回に続いて、御霊の九つの実のうち、親切、善意、誠実、柔和、自制について調べます。


5. 親切

ここで言う「親切」とは、とうてい赦せなくて理解できない人を赦して理解し、愛する心という意味です。相手が非常識な行動をしても、そうするしかない立場を推し量っていだきます。[コロサイ3:13-14]に「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。」とあります。親切の実を結ぶには、自分のほうからまず赦して、理解して、愛さなければなりません。
ところが、自己中心の思いと自分が正しいという頑なな心が、親切の心を持てないように妨げます。私たちが真理に逆らうものを捨てて、全く聖なるものとされる前は、決して自分が正しいと言えません。これまで積み上げてきた自分というものを捨てて、すべてのことを広く受け入れて、愛の心で相手を顧みるとき、はじめてその人の立場が理解できるのです。
イエス様はイスカリオテ・ユダが自分を売ることがわかっていても、最後まで愛されました。ダビデも自分を殺そうとするサウル王に善を行ないました。私たちもこのように赦して、理解して、愛する親切の心で相手に力と慰めを与えなければなりません。


6. 善意

「善意」とは、御霊によって霊を生んでいき、真理の心になって、善だけを追い求めようとする心です。[マタイ12:19-20]に「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」とありますが、ここに善意の心がよく表わされています。

第一に、善意の心は争いません。
イエス様は、自分を殺そうとあらゆる策略を巡らした人々に対して、立ち向かったり、議論したりなさいませんでした。ただ善の知恵で彼らを悟らせて、避けるべきところは避けられました。人は、相手を諭していると言いながらも、善で悟らせるより相手の欠点を指摘するので、争いが起こるのです。議論を吹っかけたり、相手が受け入れられないのに指摘し続けたりすれば、争いが起こるのは当然です。いくら良いことでも、相手が受け入れられないなら、慎まなければなりません。善で相手をいだいて、善の知恵を追い求めるなら、平和がつくれます。

第二に、叫びません。
ほとんどの人は、誰かが自分を認めてわかってほしいと願い、他人を抑えつけようとします。[第二コリント10:18]に「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」とあります。神が認められるなら、自然に人に認められます。モーセや使徒パウロは神が認められたので、驚くべき神の力が現れて、人々は彼らをまるで神のようだと思ったのです。

第三に、いたんだ葦を折りません。
「いたんだ葦」とは、悪に満ちた世で、世の荒波にもまれて心に傷を負い、そのたましいがいたんだ人のことを言います。葦がいたんだら、切って捨てなければなりません。そのままにしておけば、芯まで腐ってしまうからです。ところが、このような人も貧しい心で神を捜せば、神は決して顔を背けられず受け入れてくださいます。このような神の心、イエス様の心がまさに最高の善意です。

第四に、くすぶる燈心も消しません。
「燈心」とは、ロウソクや灯皿、石油ストーブで、糸や布切れをより合わせてさし込み、火をつける部分です。燈心がくすぶれば炎は消えていきますが、火種は残っています。したがって、「くすぶる燈心」とは、心が悪でひどく染まって、たましいの灯が消えていく人のことです。このような人でも、救われる可能性が少しでもあるならば、最後まであきらめない心が善意です。主は、罪の中に生きて神に立ち向かう人も、決してあきらめられません。何としてでも救うために、彼らの心の戸をたたき続けておられます。


7. 誠実

「誠実」とは、まず自分に任された以上をすることです。給料をあげて仕事を任せたとき、その仕事をよくやっただけで誠実だと言いません。給料をもらっても、時間、物質、身を惜しまず、もらった以上に働いたときに、誠実だと言います(マタイ25章)。私たちが主にあって誠実に働き、犠牲を払うのは、結局、朽ちない、まことで永遠のものを得るためです。したがって、私たちが使命を喜びと感謝をもって、いのちを尽くして果たすとき、神は「あなたは誠実だった」とほめてくださいます。

次に、私たちがさらに誠実を尽くすと 全家を通じて忠実な者になります。[民数記12:7]で、神がモーセに「彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」とほめておられます。神の子どもとして、教会の務めを受けた者として、信仰の兄弟の間で、家庭において親や子どもに対して、職場においてなど、それぞれの場所でしなければならないことがあります。私たちが一つ、二つだけよくやるのではなく、あらゆる分野で誠実に仕えることが、まさに全家を通じて忠実であることです。御霊の人に変えられると、少ない時間を投資しても、あらゆる分野に実を結ぶようになります。自分の利益と安らかさを求めるより、相手を先に考えて、全般的に顧みて自分が犠牲になるからです。

最後に、霊的な誠実です。[黙示録2:10]に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。ただ肉の命が尽きるまでの誠実で終わるのではなく、罪と血を流すまで戦って捨てる最高の誠実です。戒めを守って、使命をよく果たして、すべてのところでキリストの香りを放ちます。「私にとって、毎日が死の連続です。」と言った使徒パウロのように、自分は徹底的に捨てて、聖められて誠実に仕えると、それがまことのものなのです。罪を捨てることは報いにはなりませんが、聖められて神のかたちに似せられるほど、あらゆる分野で誠実の実が結ばれます。


8. 柔和

「柔和」とは、温和でやわらかくて徳があって、すべての人がいだける心です。多くの人が来て休める木陰になり、すべての人とひっかかることのない美しい心です。そうなれば、石やいばらがない良い地のような心なので、神が喜んで祝福してくださいます。
[マタイ5:5]に「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」とあります。柔和な人は多くの人をいだくので、永遠の相続地である天国の地を報いとして受け、大きい誇りになります。柔和の実を結ぼうとするなら、心の中にある荒いもの、すなわち、神のみことばに合わない真理に逆らうものを取り出さなければなりません。みことばを聞いて守り、火のように祈るとき、心が耕されて良い地になります。相手とひっかかって敵同士になり、憎しみ、そねみ、争う心が、やわらかい心に変えられるのです。
心を変えることは一日にしてできることではありませんが、あきらめないで固い意志と努力をもって続けていけば、ついにはできます。良い地には何を蒔いてもすみやかに実を結ぶように、柔和な心になれば、他の御霊の実も豊かに結ぶようになります。それほど柔和の実が大切であり、聖められる近道になるのです。したがって、熱心に心の畑を耕して良い地にして、柔和の実を結び、天国の地を相続されますように。


9. 自制

「自制」とは、真理に従って適切に調節して、度を超えないように抑えるという意味です。自制の実は、ただ罪を犯さないためだけでなく、御霊の九つの実が美しく調和がとれた全く聖なるものとされるために必要です。「主にあっては、すべてのものがあふれるほどであればよい」と思うかもしれませんが、そうではなく、自制してもっと秩序と調和をつくり出すことが必要です。いくら愛が多くても、自制できなければむしろ害になり、相手にとって負担になることがあります。喜びもそうです。心はいつもうれしくて幸せでなければなりませんが、時と場所によって自制できなければなりません。
自制の実を結んだ人は、すべてのことを気が向くままにしないで、秩序に従って自制しながら御霊に導かれます。前に出るべき時と黙っているべき時、話すべき時と話してはいけない時がわきまえられます。働く時も、どの線までが自分の分野なのか、他人の立場はもちろん、自分が周りに及ぼす影響まで考慮します。自分にとってはいくら良く見えても、決して度が外れません。ですから、秩序が乱れるはずがなく、周りとも調和がとれて、平和がつくれます。
しかし、自制できなければ、無分別な行動で秩序を乱し、規則を破って人に害を与えます。自分は良い意図でしても、相手のことを考えないまま度を越して秩序を乱す結果をもたらします。事を急いでしくじったり、人との関係が悪くなったりします。自制できないほど事をしくじり、事を急ぐと見分ける力が落ちて、あれこれさばいたり、罪に定めたりすることもあります。たとえば、「愛しなさい」といっても、何が何でも愛を施しなさいという意味ではありません。まだ完全に御霊の歩みに入る前は、感情が先立つ肉の愛にならないように自制しなければなりません。
自制とは自分を治める力です。ですから、真心になれば、心に決めたとおりに自分を治めることができます。偽りがなくて欺きがない真実の心になれば、自分が定めたことをそのとおり行なえます。これは初めからできることではありませんが、小さい事から始めて、決心したことを守る訓練をしてみると、結局できるようになります。[第一コリント9:25]に「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とあるように、永遠のものを得ようとするなら、あらゆることについて自制しなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、私たちが御霊の九つの実を結ぶためには、何よりみことばを昼も夜も口ずさんで守り、主を呼んで祈らなければなりません。そうする時、私たちの心に御霊の実が結ばれます。聖められて完全になるほど、失った神のかたちを取り戻すことができます。したがって、皆さんは御霊の九つの実の霊的な意味をよく糧にして、実を豊かに結びますように、主の御名によって祈ります。

 
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