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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   第32課 「潔白」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2009-08-07


読むみことば: マタイ12:18-21
覚えるみことば: マタイ12:20
参考にするみことば: ヨブ1:20-21


教育目標

潔白の霊的な意味と、潔白な人が受ける祝福について調べ、何をしても栄える生き方をする方法を悟る。

私たちがこの世に生きていると、さまざまな困難にあうこともあります。その中には、心が潔白でないので難しいことにあう場合も多いのです。その理由は何でしょうか? 心が潔白な人はむなしいことを追わないで、自分の心を守り、聖なることを追い求めて、自分のすべきことを忠実に果たすからです。まことに潔白な人になれば、天から知恵が与えられて、悟りの道が見えて、何をしても栄える祝福が受けられます。


1. 潔白の意味と潔白な人

辞書で「潔白」とは、「心や行ないがきれいなこと。」とあります。「潔白な人」とは、それに加えて「徳の高い人」を指します。潔白な人は、言葉や行ないや思いのすべてに徳があります。それで、たとえ害を受けても悪をもって報いないで、善をもって思い、心に受け入れて、あらゆる面で身を慎みます。
ヨブは神に祝福されて、多くのものを持っていた人でした。ところが、ある日、災いにあって、すべての財産と子どもを失ってしまいました。それでもヨブは神を恨まず、かえって立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝します。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)このように、ヨブはあらゆることに罪を犯さず、愚かに神を恨まないで、潔白を堅く守りました。<ヨブ2:3>には「主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。』」と書かれています。
今日、ほとんどの人はどのように生きているでしょうか? 罪と悪で満ちた世でせちがらく生きていて、徳のある姿を見つけにくいです。神が創造された本来の人に下さったものは、聖なることと真実さ、美しさときよさ、平和と徳なのに、このような本来のかたちを失ったまま生きています。
まことに神を信じるなら、失った神のかたちを捜して、人の本分を全うし、神が望まれる生き方をしなければなりません。ところが、多くの人がすでに成長過程からそのような生き方ではなかったので、ただ盲目的に人生を送っています。それなりに世から入力した自分の思いに合わせて生きていくので、まことにきよい心を持って生きている人はめずらしいのです。


2. 潔白な人になるには

<マタイ12:19-20>を見れば、イエス様がどれほど潔白な心を持っておられたのかがわかります。「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」とあります。私たちもイエス様のように潔白な人になろうとすれば、どうすればよいでしょうか?

まず、いたんだ葦を折ることもない心にならなければなりません。
ふつう木や草花の葉がいたんだら折ります。しかし、実際は、ほとんどの人は枝打ちするように自分の心を傷つけて、自分の利益に合わなければ、いつでも顔を背けて折ってしまおうとします。これは自己中心的に生きているからです。
しかし、イエス様はいたんだ者も折ることなく、生かそうとされました。私たちもこのようなイエス様の心を学んで、もし自分に不利益をもたらす人であっても、いつも良い心で対し、真理を追い求める美しい心を持たなければなりません。つまり、いたんだ葦も折ってはいけないのです。
それでは、「いたんだ葦」とはどんな人でしょうか? イエス様が善を行なわれるのを見ても、悪をいだいてやって来る人々が、まさにいたんだ葦のような人です。イエス様はこのような人も捨てないで、真理で悟らせて耐え忍ばれました。また、病気にかかったかわいそうな人々も捨てないで、最後まで愛して救おうとなさいました。このように、まことに神を愛するなら、欠けたところがあって、病気にかかって弱くて、自分にとって益にならない人であっても、愛して顧みなければなりません。

第二に、くすぶる燈心を消してはいけません。
「くすぶる燈心」を人にたとえるなら、可能性がなくてすべてをあきらめている人だと言えます。イエス様はそのような人であってもあきらめないで、最後まで耐え忍んで生かそうとなさいました。私たちもイエス様のように、最後まで愛をもって導ける寛容の心が必要です。「くすぶる燈心を消さない心」とは、御霊の九つの実のうちの「寛容」の実のようなものです。霊の愛をもって、希望をもって、信じて期待して、最後まで我慢して導いていかなければなりません。
イエス様はイスカリオテ・ユダがイエス様を売ることをご存じでしたが、最後までともにおられ、必要なすべてのことを教えて導かれました。イスラエルの民も、メシヤであるイエス様を十字架につけて、あざけってさげすみましたが、イエス様はかえって彼らのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と代わりに赦しの祈りをささげました。とうてい赦されることのできない悪い人々でしたが、最後まであきらめられなかったのです。
今日、多くの人がたとえ自分の親や子どもであっても、受け入れられる限度を超えれば、くすぶる燈心を消すように消してしまいます。しかし、最後まであきらめないで、その人たちのために祈っていくことが潔白な心であり、神の御前に全き心です。

第三に、争うこともなく、叫ぶこともしてはなりません。
イエス様はどうしても受け入れられないことにあっても、争うこともなく、叫ぶこともせず、善の知恵と真理のみことばでそのすべてを受け入れられました。イエス様をねたむ者たちはいろいろとはかりごとをめぐらせて争い、さまざまな悪をもって迫ってきたりしましたが、イエス様は決して彼らに立ち向かって、争われなかったのです。ただ、善の心をもって彼らを悟らせて、避けるべき場は避けながら、平和を保たれました(ルカ4章、9章)。
今日、多くの人が集まる所には、自分の思いと心に合わなければぶつかる音がして、相手に苦しみと痛み、悲しみを与えることがとても多いです。私たちはこのような姿から立ち返り、平和と真理の人にならなければなりません。
イエス様は叫ぶこともなく、すべての行ないがまことに聖であり、きよかったのです。イエス様が行なわれたことは人としてはできないことなので、人間的に思えばどれほど誇らしくて、あふれる威厳と権威があったでしょうか。しかし、イエス様はそのようなことを誇らないで、行なうべきことを行ないながら、ただ神に栄光を帰されました。
私たちも、自分がしたことを誰かがわかってほしいと叫びたがるのではなく、ただ神に栄光を帰さなければなりません。すると、すべてをご存じの神が、良いことは表に現れるように働かれます。


3. 潔白な人が受ける祝福

アブラハムは心が潔白で、すべての行ないが完全で、神に愛されました。誰に害を及ぼすこともなく、悪をもって報いることもなかったし、すべてを善をもって解決しながら耐え忍んだので、神に喜ばれて祝福されたのです。
アブラハムとおいロトの持ち物が多くなって、彼らの牧者たちが互いに争った時も、アブラハムはどうしたでしょうか? 伯父なのに、おいに譲り、自分の利益を追い求めて、良いほうを取ったおいに対してむなしい心やわだかまりをいだかなかったのです。かえって、ロトがとりこになると、危険をおかして、行って助けました。
このように、アブラハムは決して争うこともなく、叫ぶこともせず、すべてを譲って生きましたが、損をするどころか、むしろ大いに祝福されました。彼が神の御前に潔白な心でみこころにふさわしく行なうと、神に喜ばれたのです。結局、信仰の父になり、彼の名は祝福となり、人が受けられるあらゆる祝福を味わい、神の友と呼ばれました。
神は私たちの心が潔白で、イエス様のようにいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、争うこともなく、叫ぶこともせず、平和をつくって平安に生きることを望まれます。ですから、信仰の父アブラハムのようにすべてに栄える人生になり、天国で偉い者になりますよう、主の御名によって祈ります。


* まとめと適用

1. <マタイ12:20>をみんなで覚えてみましょう。

2. 潔白な人になるには、どんな心を持たなければならないでしょうか?
まず、いたんだ( )を折らない心にならなければなりません。
第二に、くすぶる( )を消してはいけません。
第三に、争うこともなく、( )もしてはいけません。

3. 最近、相手の立場が理解できなかったことや、相手の立場を理解して自分のせいにしたことがあったら、分かち合ってみましょう。


* 今週の課題
信仰にあって「従順」と言うと、誰を思い出しますか? 聖書のどの箇所に出ているでしょうか? 次回までに調べてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!
「寛容」とは?
御霊の九つの実(ガラテヤ5:22-23)の一つで、相手を理解して赦し、真理にあって寛容を尽くすことを言う。これは、怒って腹の中は煮えくりかえっているけれど、うわべに表れないように無理に抑えつけて我慢するのではなく、怒り、憤りなどの悪を捨てて、善と真理で満たすことである。寛容の実を結べば、どんな人も理解していだき、何の気まずさもないので、「赦す」とか「寛容を尽くす」という言葉そのものがいらなくなる。

 
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